城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

岡城址(大分県)

2010-02-28 | 城(城址)歩き
2010年2月28日(日)

大分県竹田市、岡城址 へ行ってきた。

城の 総役所跡 となる駐車場に車をとめる。
受付で入場料を払うと巻物のようになっている城址の案内図が貰え、
これを見ながら城内を歩くと城の様子がよく分かる。



ふと見ると足元に近づいてくる猫がいる。
前足が揃うとお腹の辺りにハートの模様が見られる、
『ナニコレ珍百景』 でも紹介された猫のタマちゃんだった。



城内に入ると、右手には竹細工の売店などがあり、登城口に到着する。



ここから見上げる石垣には圧倒される。
日本三大山城である岡城、さすがの威容を誇る。
牛が臥せた姿に似ていることから、臥牛城(がぎゅうじょう)という別名がある。



この城は1185年(文治元年)、
大野郡緒方荘の武将である 緒方三郎惟栄 (これよし)が、
源義経 を迎えるために築城したと伝えられる。

1586年(天正14年)には薩摩の島津軍がこの城を攻めるも、
当時わずか18歳の城主 志賀親次(ちかつぐ)(別名 親善 ちかよし)が城を守り、豊臣秀吉から感状を与えられた。
しかし1593年(文禄2年)、朝鮮出兵で逃亡した 大友義統 が領地豊後を没収されると、
その逃亡を勧めたとされ、親次もこの城を去ることとなった。



1594年(文禄3年)には、播磨国三木城から 中川秀成(ひでしげ)が入部する。
関ヶ原合戦では池田輝政に与力し、東軍として軍勢を派遣。
一方で西軍にも加担し、日和見を決めていたが、
九州の関ヶ原といわれる 石垣原の合戦 で黒田方(東軍)の勝利を確信すると東軍に加担、
西軍方の臼杵城を攻略し、所領の安堵を得ている。

現在残されている城郭はこの中川氏築城のもの。
中川氏は13代277年間、この城を居城とした。



大手門手前の上りから下を見下ろしたところ。
結構な高度がある。



大手門跡 に到着。
西洋の城のような堅牢な石垣。

【大手門跡】





この大手門は本来は 追手門 といい、
籠城の際、敵を正面に追いつめて1ヶ所に集中させて戦うという意味があるという。
ここには侍番が置かれ、城中の出入りには厳重な注意が払われていた。
この門だけでなく、城中すべての門が厳しい管理下に置かれていた。

【大手門跡】



大手門を入ってすぐ正面には 古大手門跡 がある。
朝日が眩しいという理由で、1613年(慶長18年)にここから現在の位置に移設された。

【古大手門跡】

朱印状倉跡 あたりから、本丸方面、西ノ丸方面に行く道に分かれている。
まずは西ノ丸方面へ行ってみた。

【朱印状倉跡】

東門跡 の石段。

【東門跡】

東門跡からみる 西ノ丸 の石垣は一段高くなっている。

【西ノ丸石垣】

西ノ丸は広い原っぱになっている。
ここは 西ノ丸御殿 があった場所で、三代藩主・中川久清 によって普請され、隠居後の居住地となった。
1689年(元禄2年)以降はここで公式行事などが行われるようになり、藩政の執務などにも使用されたという。
江戸後期には藩政の中心的場所となった。

【西ノ丸御殿跡】

【西ノ丸】

ここから朱印状倉跡まで戻り、本丸方面へと向かった。
道に沿って家老屋敷跡、城代屋敷跡、籾倉跡などがある。

【左:家老屋敷跡・右:城代屋敷跡】

城の中心部に近づく、西中仕切跡 の石垣が見え始める。

【西中仕切跡】

ここからみる 二ノ丸高石垣 は城内で最も高い石垣。
岡城址の一番の見どころだろう。
まるで爬虫類の皮膚のようにうねって見える。
よくもこんな風に石を積めたものだと感心した。
左側は崖になっており、足を滑らせたら大変なことになる。

【二ノ丸高石垣】

【貫木門跡】

【西中仕切跡石垣】

西中仕切跡を通り過ぎると少し開けた場所となり、太鼓櫓門跡 が見える。
この太鼓櫓門は城の中心部への最終関門であるため、出入りについては特に入念に管理されていたようだ。

【太鼓櫓門跡】

太鼓櫓では、時の知らせには太鼓を打ち、城中・城下の出火の際には鐘を鳴らすという重要な役目を担っていた。

【太鼓櫓跡】

城の中心部へ、まずは 三ノ丸跡
ここからは、うっすらと九重連山が見えた。
左から久住山、大船山、黒岳。



三ノ丸からみる 二ノ丸石垣
足元は断崖絶壁、写真を撮るのに緊張した。

【二ノ丸石垣】

三ノ丸からみる 本丸石垣
奥の一段飛び出した石垣は 三重櫓跡 の石垣。

【本丸石垣】

三ノ丸と二ノ丸の境にある門跡。



深さ73mという空井戸。
塞がれているので見えないが、中には観音像らしきものが安置されているとのこと。



二ノ丸には滝廉太郎像がある。
廉太郎は荒廃したこの城で遊んだ少年時代の印象から 『荒城の月』 を作った。
この曲が城下の方から頻繁に聞こえてきたが、
これは国道に仕掛けが施されていて、車が通る度に聞こえるようになっている。



二ノ丸は数奇屋、月見櫓などがあったことから、遊興的な曲輪であったとされる。
二ノ丸から石段を上って本丸へと向かう。



本丸 には城の天守にあたる 三重櫓御金倉 のほか、
藩主の居住を中心とする殿舎で構成されていたらしい。
他にも石碑、稲荷神社があった。

【本丸跡】

【稲荷神社】

一段高くなった石垣は 金倉跡 だった。

【金倉跡】

白滝川が見える。
この城の北には稲葉川、南には白滝川が流れており、天然の堀の役目を果たしている。



金倉跡から下を覗きこむと 東中仕切跡 が見える。



ここに建っていた 三重櫓 は、明治初期に撮影された写真では天守閣のように見える。

【三重櫓跡】

本丸から下り、再び城内の道を歩く。
下から見上げる 本丸石垣 が素晴らしい。



東中仕切跡を過ぎ、少し歩くと左側に 清水門跡 がある。
古大手門跡と同じく塞がっていて、門跡から外は草木が生い茂っていた。
近くには三楽亭跡、荘嶽社跡、御廟跡などもある。

【清水門跡】

さらに東へ。
道沿いには高い石垣が続く。



東の終点、下原門跡 に着いた。
中川氏が入城した1594年まではここが城の正門だったという。
のちに 加藤清正 の指示で、正門は現在の西側に置かれた。

【下原門跡】

城跡外へ出てみると、元は正門だけあって立派な石垣が見れた。

【下原門跡石垣】

ここから先は城跡らしいものはないようなので引き返し、家老屋敷跡 へと向かった。

【家老屋敷跡】

岡藩家老・ 中川覚左衛門 は、古田織部 の子孫で、代々中川家に仕えた人物。
その覚左衛門の屋敷跡があり、その敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された絵図が残っているらしい。
その絵図と検出された遺構を基にして、近々屋敷が復元されるとのこと。
いずれまた見学に来たい。

【中川覚左衛門屋敷跡】

覚左衛門屋敷跡から来た道を戻ると、賄方跡、武具方跡などがあった。



この岡城址では、とにかく素晴らしい石垣に圧倒された。
その力強さと滝廉太郎の荒城の月の風情ある城の姿が印象的だった。

富来城跡(大分県)

2010-02-09 | 城(城址)歩き
2010年2月7日(日)

豊後高田城跡からの帰り道、
関ヶ原合戦時に黒田如水の軍勢が落とした城、富来城跡 を見てみたいと思い、
国東市国東町富来浦にやってきた。

車中からその城跡へ行く目印を探していると、
『宮本武蔵の古戦場・富来城跡』 と書かれた看板があった。

富来城 は1261年(弘長元年)、富来氏によって築城された。
『富来浦を見下ろす断崖の上に建つ堅固な城』 といわれた。
近くに紅葉で有名な富来寺(ふきじ)がある為、『ふきじょう』 なのかと思っていたが、『とみくじょう』 とよばれる。
1336年、富来氏9代~10代の時代に 足利尊氏 が入城したことがあるという。

18代城主・富来実直 大友宗麟 の近侍として活躍。
1594年(文禄3年)には秀吉の命により、垣見一直(名は家純)が入城する。
一直は 石田三成 と親しく、関ヶ原合戦には西軍方として出陣した。
しかし、大垣城(岐阜県大垣市)にて戦死する。
その間、城を守っていたのは兄の 垣見理右衛門 で、
石垣原合戦で勝利した黒田軍と交戦中、関ヶ原にて西軍敗退との知らせを受け開城した。

この戦いに剣豪として有名な 宮本武蔵 は黒田軍として参加。
奮闘の末に足を負傷したとされる。
この言い伝えは黒田家臣が伝記に記した物語らしいが、
黒田家の文書には記されており、こちらも有力な説とされている。

富来城跡 は城山子供公園という小さな公園として残っていた。



城跡としての面影はない。
大きな看板と案内板がある。

【富来城跡】

公園は城の本丸の一部で、園内には祠がある。



唯一、城跡らしい遺構は 石垣跡 が残されている。



合戦後に日出に入部した 木下延俊 は、
黒田軍との戦いでの垣見氏の大砲の威嚇にも一歩も引かなかった勇猛果敢な奮戦ぶりに感動し、
大手門扉を日出城の裏門に使用したという。

堅固な城といわれた富来城だが、
ほぼ跡かたもなく、小さな公園となっているのは寂しいが、
それもまた城址めぐりの面白さなのだろうと思う。


高田城跡(大分県)

2010-02-07 | 城(城址)歩き
2010年2月7日(日)

この日は(大分県)国東半島にいくつかある城跡に出かけた。
まずは豊後高田市にある 高田城 跡へ。
辿り着くのに苦労したが、近所の小学校の生徒達が描いた大きな案内板で場所が分かった。



城跡は公民館として利用されており、何かの行事が行われていたため、
近くの公民館第二駐車場に車をとめた。

高田城 は鎌倉時代1196年(建久7年)、
豊後国の守護・ 大友能直 (よしなお)の家臣・ 高田重定 によって築かれた。
その後、1593年(文禄2年)に大友氏の改易により、
秀吉の軍師・竹中半兵衛の従兄弟である 竹中重利 が入城。
城を改築し、規模を拡大した。
重利は1601年(慶長6年)、石垣原合戦の功により、
大分府内城に移り、天守閣などの建造は未着工に終わった。

高田城の遺構はほとんど残っていないが、
この 石垣 が唯一現存している城壁の一部となる。

【石垣】

重利が府内城へ移った後は30余年間、城主不在となったが、
1639年(寛永16年)、豊前の国・龍王城から移ってきた 松平重直 が城を再築、
重直亡き後は、その子である 英親 が城主となった。
1645年(正保2年)、英親は木付(杵築)城に転封となったため、
城は廃城となり、木付藩預りとなった。

【石垣】

石段は鎌倉時代、高田重定が城を築いた際に造られた。
1669年(寛文9年)、肥前島原藩主・ 松平忠房 の領地となり、
以降、1871年(明治4年)廃藩置県までの200年間、島原藩とは強い絆で結ばれ、
石段はその頃に現在のように整備された。
1000年の歴史を持つ石段ということになる。

【石段】



本丸には公民館や小学校が建ち、城は町に埋もれてしまったような感じがした。
古い趣のある城下町の情景に800年の歴史が溶け込んでいた。