城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

佐伯城址(大分県)

2009-12-29 | 城(城址)歩き
2009年12月27日(日)

臼杵城祉から車で30分程で、 佐伯城祉 の櫓門前に到着した。
櫓門の後ろの建物は佐伯文化会館。
景観がかなりアンバランスだが、これも仕方のないことなのか。



城の入口である 三ノ丸櫓門 は県の有形文化財に指定されている。
1637年(寛永14年)、藩主の居館が山頂から、現在は文化会館のある三ノ丸に移された。
その時に城の正門として創建されたのがこの門となる。

佐伯城の築城主は 毛利高政 で、もとは森姓だが、
秀吉の 中国大返し の際、毛利氏へ人質として送られた。
その後、 毛利輝元 から気に入られ、毛利の姓となった。


【三ノ丸櫓門】

軽い城歩きのつもりで来たが、ここの遺構は門だけでなく、城山の頂上に城跡がある 山城 だった。
山城に来たのは初めてだったので、準備を何もしていなかったが、何とか山頂を目指すことにした。

【登山口】

登山口のそばにある櫓らしき建物はトイレだった。
周辺には案内板や城の鳥瞰図などがあった。



案内板によると、ここから登る道は3つあった。
翠明の道・登城の道・独歩碑の道。
登城気分を味わいたいと思い、登城の道を登ることにした。



結構きつい登り。



この山道では誰にも会わなかった。



やがて山の頂上、西ノ丸跡 に登り着いた。
しばらく石のベンチに座り、景色を観ながら休憩した。



二ノ丸 方面へ向かうと石垣が見えてきた。
この城跡は、城があった時代からほぼすべての石垣がそのまま残されているらしい。



二ノ丸からの景色。



見えてきたのは 本丸跡 の石垣。



石垣と石垣の間に架けられていた 渡橋



本丸跡には一段高くなった低い石垣があり、これが 天守台 ということになる。



【本丸跡】

天守台にある祠。



本丸石垣の石段を降りると外曲輪となる。



展望台のようになっている場所は、 本丸二重櫓 の跡か。



映画 『釣りバカ日誌19』 での佐伯ロケ記念の立て札。



佐伯市街地に丸い小山が見える。
左は長島山、右は御番所の鼻と呼ばれる丘。



北ノ丸へ行ってみる。



北ノ丸跡
この先は行けないので、本丸跡へと戻った。



北ノ丸からみた本丸石垣。



帰りは独歩碑の道で山を降りることにした。
こちらの山道が一般登山用の道になっているようだ。
途中に残り何mという標識があり、道も広く整備されている。
人にもよく会い、登ってくる人と何人か挨拶をかわした。
麓から頂上までは 810mという距離。



山城は初めてだったので、なかなか面白かった。
もう少し体力をつけて、色んな山城に臨みたいと思う。


臼杵城址(大分県)

2009-12-28 | 城(城址)歩き
2009年12月27日(日)

今日は 臼杵城址 を歩いてみる。
別府から1時間ちょっとで、臼杵市にある城址に到着。
城は崖の上の要塞という感じで、見ただけでその堅固さが伝わる。

臼杵城は1556年(弘治2年)、 大友義鎮 (よししげ・後の 宗麟 )によって建てられた。
この城が築かれた丹生島(にゅうじま)は臼杵湾に浮かぶ島で、
断崖絶壁の地の利を生かし、ここに城郭を築いたと考えられる。

大友氏の改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後は、臼杵藩5万石を与えられた稲葉氏が城主となり、
明治維新まで臼杵藩を支配した。

【臼杵城古橋口】

ひときわ目立つのが、 畳櫓 (たたみやぐら)。
明治新政府の廃城決定によって城内の建物は破壊されてしまうが、
卯寅口門脇櫓とこの畳櫓は残された。

【畳櫓】

城の周囲の堀。



堀には石造りの橋が架かっている。



その 古橋 (ふるはし)を渡って城内へ。



渡った先は 古橋門櫓跡 となり、
櫓門 があったことを示す柱台が見られる。



右手に 亭櫓跡 (ていやぐら)となる櫓台がある。

【亭櫓跡】

鐙坂 (あぶみざか)を上がって本丸に向かう。
夜には足元に灯りが点き、ライトアップされるようだ。



【鐙坂】

坂を登りきると、中門櫓跡 がある。



そして城の外から見ると目立っていた 畳櫓 の正面に着いた。
この櫓は1644~1648年(正保年間)頃に建てられたのが始まりで、
1763年(宝暦13年)の大火で焼失、1764~1772年(明和年間)頃に再建されたと推測されている。
この名の由来は、祇園社(現 八坂神社)から見た方角から付いたという説や
中に畳が敷かれていたからという説があるが、はっきりしていないらしい。

【畳櫓】

平成13年に復元された、県指定史跡 大門櫓
稲葉氏入城直後17世紀初頭に建てられたもので、
畳櫓と同じく1763年(宝暦13年)の大火で焼失、1768年(明和5年)に再建された。
こちらは明治新政府の廃城決定により取り壊された。

【大門櫓】

大門櫓から畳櫓のある方向にのびる二ノ丸石垣。
奥は 井楼櫓跡



古橋口方向から見ると、井楼櫓跡は畳櫓の後方となる。

【井楼櫓跡】

井楼櫓が現存していた明治初期の古写真。





井楼櫓跡からみた景色。 手前は畳櫓。



大手門に戻り、二ノ丸跡へ。


【二ノ丸跡からみた大手門】

二ノ丸にある 会所櫓跡

【会所櫓跡】

二ノ丸敷地内を歩くと歴代城主年表や築城主・大友宗麟の石碑などがあった。

【大友宗麟碑】

1576年(天正4年)にポルトガル人から宗麟に送られた佛狼機砲(ふらんきほう)。
これが日本初の大砲といわれる。
宗麟はこの大砲を 国崩 と名付け、臼杵城に配備した。

廃藩置県後、国崩は国に献上され、現在は靖国神社境内に展示されている。
ここにあるのは複製されたもの。



臼杵護国神社を横切り、多目的広場に沿って歩き、本丸へと向かった。
途中、 着見櫓跡 があった。
ここは上ノ門近くにある場所なので、入城者を監視する所だったのだろう。

【着見櫓跡】

二ノ丸と本丸を仕切る 空堀 がある。



卯寅口門方面に歩くと鉄門櫓跡、武具櫓跡などがあった。
この辺り、大きな石垣も残っている。







本丸跡に入ると 天守櫓跡 がある。
ここには、かつて3層4重の天守櫓といくつかの付櫓が存在していたようだ。

【天守櫓跡】

野面積みの 天守台
この城址の石垣の中では、乱雑ではあるが最も頑丈なつくりになっているらしい。

【天守台】

天守台のある空堀から、旧来の道とされる所を歩いて戻った。
埋門前櫓跡 は道から突き出た所にあった。

【埋門前櫓跡】

上ノ門跡 に着く。
この辺りも立派な石垣が残されている。





【着見櫓跡石垣】

上ノ門跡から弓道場を横切り、畳櫓までの細長い通路は 帯曲輪 とよばれている。
稲葉氏入城までは鐙坂から上ノ門までこの通路が使われていたが、
遠回りになるため、城内通路が整備された。

今回は帯曲輪は通らず、二ノ丸跡から戻った。

【時鐘櫓跡】


暘谷城址(日出城址)(大分県)

2009-12-07 | 城(城址)歩き
2009年12月6日(日)

大分県速見郡日出町にある 暘谷城址 は、現在は日出小学校になっている。



今日は日曜だが、グランドではサッカーの練習が行われていた。
グランド入口の鐘の下辺りに駐車スペースがあったので、そこに駐車し、
海の方へ歩いてみることにした。



城下の海は海底から清水が湧くきれいな海で、ここに棲息する 『城下(しろした)カレイ』 は日出町の名産になっている。



海沿いの遊歩道からその別府湾を眺めると、正面に高崎山が見えた。



暘谷城は関ヶ原合戦後に 木下延俊 が築城、縄張りは 細川忠興 が行った。
木下延俊は細川忠興の妹婿で、秀吉の正室・北政所の兄・木下家定の三男、
さらに小早川秀秋の兄にあたる人物でもある。

城址の一部は別府湾が一望できる小さな公園になっていて、
遊歩道と繋がっている。



先に城址の周辺を歩いてみることにした。

少しいくと、人柱の祠があった。

昭和35年、遊歩道の工事中に木棺が発掘され、中から老武士らしき人骨が出てきたとある。
棺は岩盤をくり抜いた穴に納められ、その上に大きな石が載せられ、
それが石垣の基盤となっていたという。
この場所は城の裏鬼門にあたるため、人柱をたてたのではないかと考えられている。



歩いていくと堀の中に出た。



その堀を上からみたところ。



そして小学校の正面玄関に着くと、そこが城の 大手門跡 となっている。
登校してくる生徒たちは、登城する気分が味わえるのではないか? (笑)



城址を一周して、時の鐘 のある場所に戻ってきた。
この鐘は、元々は外大手門にあったものをここに移設したものらしい。
この石垣の上には、かつては 裏門櫓 が建っていたとされる。



二段になっている石垣の
奥の石垣が 天守台



その天守台に向かって歩く。



石垣に沿って右に曲がると公園になる。
ベンチに座って海(別府湾)が見渡せる。



天守台の石垣を見上げる。



かつて本丸の海側には、天守閣と 望海楼 があった。



望海楼は城門の役割も果たしていたとされる。



最初の城門のような石垣を上がるとさらにもう一段ある。
この石垣の上に望海楼があったようだ。



上の石垣の段を上がると、そこは城の本丸となる。
現在は小学校のグランド。
天守台に向かう途中の石垣。



天守閣が建っていたとされる場所。



そこから海を見ると、また更にきれいだった。



【時の鐘】

本丸の東北隅は鬼門除けのため、大きく欠けた形をしており、
そこにあった鬼門櫓は別の場所に移されているらしい。