8月15日、原城址を歩いたあとは、島原城 へと向かった。
相変わらず雨はやまず、車も多少混んでいたので、
到着するまで、1時間ほどかかった。
島原城に着くと、堀に架けられた通路を渡り、本丸へと入る。
本丸の石垣は高く、そのため車でググッと上る感じだった。
本丸に着くと、いきなり 天守閣 が目の前にあり、
その周辺が駐車場となっていた。
これには、ちょっと違和感を覚えた。
【天守閣①】
島原城の天守閣は、明治9年(1876)に一度解体され、
現在の天守閣は、昭和39年に外観復元された、五重の復興天守となる。
天守入口では、忍者姿や鎧を着た人達が観光客を案内している。
原城址の静かで神秘的な雰囲気とは違い、ここはとても賑わっていた。
【天守閣②】
城の外観をゆっくり見てまわりたかったし、時間もなかったので、
天守閣の中には入らなかった。
【天守閣③】
この地は森岳といい、この城も別名 『森岳城』 という。
天正12年(1584)、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい) にて、
日野江城主・有馬晴信 が本陣を構え、
佐賀の 龍造寺隆信 を討ち取った地でもある。
【天守閣④】
慶長17年(1612)、
有馬晴信が、岡本大八事件 をきっかけに追放、死罪となると、
元和2年(1616)、
大和五条(奈良県)から、松倉重政 が入封する。
重政は当初、日野江城に入るも、
その日野江城と支城の 原城 を廃し、資材や石垣の石などを転用して、
元和4年(1618)、島原城の築城にとりかかった。
【天守台石垣】
原城の城歩きでも記したが、
この島原城は総石垣で、4重5階の天守と櫓49棟を建てた、
4万3千石の大名には過分な城だった。
その結果、領民に重い税の負担を強いることとなり、
それが、島原の乱 が起こった原因のひとつとされている。
【天守閣⑤】
この地の地盤は、火山灰や溶岩流で形成されており、築城には危険な工事が伴った。
本丸には、松倉重政の祠が建っており、
重政と築城工事中に亡くなった人々が祀られている。
現在、本丸には三つの櫓が復元されている。
その一つ、
昭和35年(1960)に本丸南西の位置に復興された、西ノ櫓 。
現在の天守よりも先に完成したことになる。
島原の乱時、この櫓に蓄えていた鯨の肉が役に立ったという話がある。
【西ノ櫓・表側】
【西ノ櫓・裏側】
この西ノ櫓付近には、
18世紀末以降に桜門外の水源と三ノ丸との間に布設されていた、
石の水道管などが置かれていた。
西ノ櫓の正面にある、御城ノ鐘。
【御城ノ鐘】
本丸東に位置する、現在は民具資料館となっている、丑寅ノ櫓 。
【丑寅ノ櫓】
巽ノ櫓 は、昭和47年に復元された三重櫓。
【巽ノ櫓】
御馬見所(おんうまみしょ)とは、藩主が藩士の訓練状況をみたという場所。
三ノ丸にあった建物が、現在は本丸に移築されている。
【御馬見所】
本丸北側の駐車場から天守閣をみた。
この辺り、石垣の前にゴミ箱があったり、物置小屋があったり、
雑然としていたのがちょっと残念。
寛永14年(1637)、島原の乱時、
この城は 天草四郎 率いる一揆軍の猛攻を受け、これをしのいだ。
本丸には原城にあったものと同じ姿の、天草四郎像が建っていた。
【天草四郎の像】
外郭は、4キロ四方にわたり、矢挟間をもつ練塀で囲まれている。
塀に沿って歩いてみた。
一段下がった場所であるため、間近に本丸石垣が見れる。
【本丸石垣】
木がじゃまだと思う・・・。
島原城本丸から見る 雲仙普賢岳 は、
この日はずっと霧に包まれたままだった。
また雨が強くなったので、売店で雨やどり。
しばらく休んで、城の外周と堀を見るため、本丸を出た。
本丸では、歴史的な価値を考えるとちょっと物足りなさを感じたが、
石垣、堀を見ると立派なもので、やはり大がかりな城であることが実感できる。
【堀①】
屈曲した石垣が並び、段々状に見える。
【堀②】
城の南東から東側の水堀には、蓮がびっしりと茂っている。
【蓮池】
南東方向からみた天守。
手前は巽ノ櫓。
天守の東側に位置する、丑寅ノ櫓。
【丑寅ノ櫓】
本丸石垣側から、二ノ丸方面をみる。
島原城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸を一直線に配置した、
連郭式の縄張の城だった。
二ノ丸石垣の上に建っている建物は、島原文化会館。
他にも森岳公民館などが建っている。
【二ノ丸遠景】
本丸と二ノ丸の間の堀。
きれいに整備され、歩けるようになっていた。
菖蒲園になっている場所もある。
【本丸、二ノ丸間の堀】
今度は、二ノ丸側から本丸石垣をみた。
本丸と二ノ丸は堀を隔てて、唯一廊下橋によって繋がっていた。
緊急時はこの橋を落とすことにより、本丸が独立できるようになっていた。
丑寅ノ櫓と本丸石垣。
草に覆われた石垣は、なかなかいい感じ。
【丑寅ノ櫓と本丸石垣】
上の写真、カメラを左にずらすと本丸東側の堀の様子がわかる。
【本丸東側の堀】
北東隅から北側の本丸石垣。
【本丸石垣】
二ノ丸石垣の南東隅。
大雨の中、車で移動しながらの外周見学だったので、
この時は堀の中を歩く気もしなかった。
【二ノ丸石垣】
堀から道路を隔ててある、武家屋敷・佐久間邸跡 。
島原藩二代藩主・松平忠雄 時代に 佐久間太郎左衛門 が家臣に召抱えられ、
知行100石とこの屋敷を下賜された。
往時の屋敷は300坪あまりの立派な武家屋敷だったようだ。
天草にて、住民約5000人がキリシタン信仰の疑いで幕府に取り調べを受けた際、
郡方勘定奉行として江戸へ上り、
穏便な解決を図るようかけあったのが、この佐久間太郎左衛門という人。
優秀な人物だったようだ。
ちなみに佐久間家は代々、太郎左衛門の名を世襲したらしい。
これではどの太郎左衛門さんなのか分からない。(笑)
島原城は築城の際、領民から重い税を摂取して建てられた。
島原の乱の時、この城は何万人もの命を奪った幕府側の城だった。
原城の遺構と歴史に触れた後、ここを訪れると、
この城に対して、どうしてもいい印象を持てない。
城の案内板には、
~城の復元は、長年の島原市民の夢である~ ようなことが書かれてあった。
ちょっと皮肉めいたものを感じたが、現在は観光地として多くの観光客が訪れ、賑わっている。
きっと島原市民の生活にも、いい影響を与えているのだと思う。
【おまけ】
盆休みを利用して、島原の2つの城を歩いてみたが、
大雨に悩まされ、運が悪かった。
その分、印象に残った城歩きだったが・・・。
帰り道、信号待ちの時にちらっと櫓風の建物・・・島原駅が見えた。
晩飯に川登SAで食べた、佐世保バーガーは美味かった。
相変わらず雨はやまず、車も多少混んでいたので、
到着するまで、1時間ほどかかった。
島原城に着くと、堀に架けられた通路を渡り、本丸へと入る。
本丸の石垣は高く、そのため車でググッと上る感じだった。
本丸に着くと、いきなり 天守閣 が目の前にあり、
その周辺が駐車場となっていた。
これには、ちょっと違和感を覚えた。
【天守閣①】
島原城の天守閣は、明治9年(1876)に一度解体され、
現在の天守閣は、昭和39年に外観復元された、五重の復興天守となる。
天守入口では、忍者姿や鎧を着た人達が観光客を案内している。
原城址の静かで神秘的な雰囲気とは違い、ここはとても賑わっていた。
【天守閣②】
城の外観をゆっくり見てまわりたかったし、時間もなかったので、
天守閣の中には入らなかった。
【天守閣③】
この地は森岳といい、この城も別名 『森岳城』 という。
天正12年(1584)、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい) にて、
日野江城主・有馬晴信 が本陣を構え、
佐賀の 龍造寺隆信 を討ち取った地でもある。
【天守閣④】
慶長17年(1612)、
有馬晴信が、岡本大八事件 をきっかけに追放、死罪となると、
元和2年(1616)、
大和五条(奈良県)から、松倉重政 が入封する。
重政は当初、日野江城に入るも、
その日野江城と支城の 原城 を廃し、資材や石垣の石などを転用して、
元和4年(1618)、島原城の築城にとりかかった。
【天守台石垣】
原城の城歩きでも記したが、
この島原城は総石垣で、4重5階の天守と櫓49棟を建てた、
4万3千石の大名には過分な城だった。
その結果、領民に重い税の負担を強いることとなり、
それが、島原の乱 が起こった原因のひとつとされている。
【天守閣⑤】
この地の地盤は、火山灰や溶岩流で形成されており、築城には危険な工事が伴った。
本丸には、松倉重政の祠が建っており、
重政と築城工事中に亡くなった人々が祀られている。
現在、本丸には三つの櫓が復元されている。
その一つ、
昭和35年(1960)に本丸南西の位置に復興された、西ノ櫓 。
現在の天守よりも先に完成したことになる。
島原の乱時、この櫓に蓄えていた鯨の肉が役に立ったという話がある。
【西ノ櫓・表側】
【西ノ櫓・裏側】
この西ノ櫓付近には、
18世紀末以降に桜門外の水源と三ノ丸との間に布設されていた、
石の水道管などが置かれていた。
西ノ櫓の正面にある、御城ノ鐘。
【御城ノ鐘】
本丸東に位置する、現在は民具資料館となっている、丑寅ノ櫓 。
【丑寅ノ櫓】
巽ノ櫓 は、昭和47年に復元された三重櫓。
【巽ノ櫓】
御馬見所(おんうまみしょ)とは、藩主が藩士の訓練状況をみたという場所。
三ノ丸にあった建物が、現在は本丸に移築されている。
【御馬見所】
本丸北側の駐車場から天守閣をみた。
この辺り、石垣の前にゴミ箱があったり、物置小屋があったり、
雑然としていたのがちょっと残念。
寛永14年(1637)、島原の乱時、
この城は 天草四郎 率いる一揆軍の猛攻を受け、これをしのいだ。
本丸には原城にあったものと同じ姿の、天草四郎像が建っていた。
【天草四郎の像】
外郭は、4キロ四方にわたり、矢挟間をもつ練塀で囲まれている。
塀に沿って歩いてみた。
一段下がった場所であるため、間近に本丸石垣が見れる。
【本丸石垣】
木がじゃまだと思う・・・。
島原城本丸から見る 雲仙普賢岳 は、
この日はずっと霧に包まれたままだった。
また雨が強くなったので、売店で雨やどり。
しばらく休んで、城の外周と堀を見るため、本丸を出た。
本丸では、歴史的な価値を考えるとちょっと物足りなさを感じたが、
石垣、堀を見ると立派なもので、やはり大がかりな城であることが実感できる。
【堀①】
屈曲した石垣が並び、段々状に見える。
【堀②】
城の南東から東側の水堀には、蓮がびっしりと茂っている。
【蓮池】
南東方向からみた天守。
手前は巽ノ櫓。
天守の東側に位置する、丑寅ノ櫓。
【丑寅ノ櫓】
本丸石垣側から、二ノ丸方面をみる。
島原城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸を一直線に配置した、
連郭式の縄張の城だった。
二ノ丸石垣の上に建っている建物は、島原文化会館。
他にも森岳公民館などが建っている。
【二ノ丸遠景】
本丸と二ノ丸の間の堀。
きれいに整備され、歩けるようになっていた。
菖蒲園になっている場所もある。
【本丸、二ノ丸間の堀】
今度は、二ノ丸側から本丸石垣をみた。
本丸と二ノ丸は堀を隔てて、唯一廊下橋によって繋がっていた。
緊急時はこの橋を落とすことにより、本丸が独立できるようになっていた。
丑寅ノ櫓と本丸石垣。
草に覆われた石垣は、なかなかいい感じ。
【丑寅ノ櫓と本丸石垣】
上の写真、カメラを左にずらすと本丸東側の堀の様子がわかる。
【本丸東側の堀】
北東隅から北側の本丸石垣。
【本丸石垣】
二ノ丸石垣の南東隅。
大雨の中、車で移動しながらの外周見学だったので、
この時は堀の中を歩く気もしなかった。
【二ノ丸石垣】
堀から道路を隔ててある、武家屋敷・佐久間邸跡 。
島原藩二代藩主・松平忠雄 時代に 佐久間太郎左衛門 が家臣に召抱えられ、
知行100石とこの屋敷を下賜された。
往時の屋敷は300坪あまりの立派な武家屋敷だったようだ。
天草にて、住民約5000人がキリシタン信仰の疑いで幕府に取り調べを受けた際、
郡方勘定奉行として江戸へ上り、
穏便な解決を図るようかけあったのが、この佐久間太郎左衛門という人。
優秀な人物だったようだ。
ちなみに佐久間家は代々、太郎左衛門の名を世襲したらしい。
これではどの太郎左衛門さんなのか分からない。(笑)
島原城は築城の際、領民から重い税を摂取して建てられた。
島原の乱の時、この城は何万人もの命を奪った幕府側の城だった。
原城の遺構と歴史に触れた後、ここを訪れると、
この城に対して、どうしてもいい印象を持てない。
城の案内板には、
~城の復元は、長年の島原市民の夢である~ ようなことが書かれてあった。
ちょっと皮肉めいたものを感じたが、現在は観光地として多くの観光客が訪れ、賑わっている。
きっと島原市民の生活にも、いい影響を与えているのだと思う。
【おまけ】
盆休みを利用して、島原の2つの城を歩いてみたが、
大雨に悩まされ、運が悪かった。
その分、印象に残った城歩きだったが・・・。
帰り道、信号待ちの時にちらっと櫓風の建物・・・島原駅が見えた。
晩飯に川登SAで食べた、佐世保バーガーは美味かった。