城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

松尾城址(福岡県)

2013-02-11 | 城(城址)歩き
2013年2月10日(日)

この日は福岡県朝倉郡にある 松尾城址 を見学。

松尾城 は筑前豊前の国境に位置する。
戦国時代、秋月氏の家臣であったとされる 宝珠山山城守 の居城だったとされている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、黒田長政 が入国。
翌年には筑前領内に六つの端城が設けられ、
その 黒田六端城 の1つとなったこの城には、中間統胤 が入城した。
その後、元和元年(1615年)の一国一城令により破城となった。

国道211号線小石原交差点近く、
今では廃校になっている小石原小学校の門を入っていく。
グランドに駐車できるようになっているので、広くて車を停めやすい。



13:13
すぐに案内板があり、山道を登っていく。
城址は150mほど登った場所にあると書かれてあった。





案内標識が所々にあるので分かりやすい。



最後の登り。



13:18
開けた場所に出ると、土手の上に石垣が見えた。
城の 主郭南側の石垣 となる。
この城の 主郭 はニ段(上段・下段)で造成され、石垣や土塁で城壁がつくられている。

【主郭南側の石垣】

更に登った、主郭下段南側の石垣の様子。
飛び出した所は 横矢 とよばれ、ここから城壁に迫った敵に対して側面から攻撃を加える。



城の 虎口 北側の石垣。
補充修復されていて、当時の様子がよくわかる。

【虎口(北側)石垣】

主郭周囲の石垣。
石垣の修復は現地に残る石材を用い、築城時と破城時をイメージして復元されている。



小規模な主郭だが、横矢を4ヶ所設けた戦闘的な造りとなっている。



これは破城時の石垣を再現したものだろう。



主郭北側は築城時の 土塁 が再現されている。



主郭下段からみた虎口の様子。



虎口より入ってすぐの所にある、主郭下段の 礎石
これら礎石や石垣は、
黒田長政の時代に筑前六端城として改築された際に造られたとされる。
主郭上段にも礎石がみられ、当時は建物があったと推測される。



南側の石垣からみた城の急な斜面。



城の斜面には 堀切畝状竪堀 が見られる。
いずれも侵入してくる敵の集団行動を防いだものと考えられる。

【東側斜面の三重堀切】

これらの堀は秋月氏の領土となった16世紀代のものと考えられている。

【北側斜面の畝状竪堀】

主郭上段にある 櫓台

【櫓台】



北側からみた櫓台。



櫓台からの眺望が素晴らしい。



雪化粧の英彦山が見えた。



主郭下段より、城全体をみる。



西側斜面より、虎口を見上げたところ。



この松尾城址、整備がいきとどいたきれいな城址だった。
眺望もよく、気持ちのいい場所だった。

長岩城址(大分県)

2012-01-23 | 城(城址)歩き
2012年1月22日(日)

大分県中津市耶馬渓にある 長岩城址
建久9年(1198)、豊前国守護職・宇都宮信房 は、弟の 重房 に下毛郡野仲郷を与えた。
重房は姓を 野仲 と改め、この地に長岩城 を築く。
その後、野仲氏の所領は宇佐郡、下毛郡の一部にまで拡大。
この城は野仲氏22代、約390年間の居城となった。

長岩城は高い山や深い谷、岩壁などの天険の要害を取り入れ、
石塁砲座塹壕などを築いて城の防備を強化している。
戦国時代の地方豪族の山城としてはとても規模が大きく、
九州最大を誇るといわれている。

この日、その長岩城址へと向かった。
山国川沿いの国道212号線を進み、県道2号に入る。
やがて川原口バス停付近の左に大きな 『長岩城址』 の看板がある。
駐車場などはなく、道の脇のちょっとしたスペースに車をとめた。

山道入口には柵が張られており、立入が禁止されているのかと思ったが、
これは農作物を荒らす猪や鹿に対する防御柵で、登城者はこれを外して山道に入る。

この日は人影を見ることはなく、
どうやら登城者は自分一人のようだった。



登城口手前には津民川が流れている。
英彦山辺りを源流とする、山国川の支流となる。



記帳所があり、川に架かる木橋を渡って登城口へと向かう。





登城口からすぐの所に防御柵があった。
これも猪や鹿の進入を防ぐためのもので、外して山中へと入る。



柵を入ってすぐに 一之城戸 があった。

【一之城戸】

山道に沿って石垣があり、周囲に多くの石が見られた。
この辺りの石垣はいつのものかは分からない。



林の中には多くの石が散らばっている。



しばらく歩くと
山の斜面に沿って三ヶ月形に掘られた 三ヶ月塹壕 の跡があった。

【三ヶ月塹壕】

すぐ側には石塁があり、そこは ニ之城戸 となる。
他にも二十余箇所に点在する石塁の長さは、延700m余にも達するらしい。

【ニ之城戸】

ニ之城戸の石塁から進行方向にも石塁が見える。



山道には岩がごろごろ転がっており、歩きにくい場所があった。



しばらく行くと杉の木の隙間から石塁が見え始める。
三之城戸 の石塁は、きれいなカーブを描きながら本丸へと伸びていた。
まるで天に昇る龍のうねりのようで迫力があった。

【三之城戸石塁】

大きな岩がある場所へ出た。
ここは分岐になっており、本丸へ向かうには右側へと進む。
左側へ進むと砲座跡などがあるが、まずは本丸へと向かった。



三之城戸の石塁が続く。
これらは重要文化財となっており、
『壊さないように触れないように』 など注意書きがあった。



本丸へ向かって山道を上って行く。
一旦、石塁は途切れるが、今度は平らな石を積んだ新たな石塁が見え始める。



山道は石塁の先端を回り込む。



そこには 東之台 という開けた場所があった。
陽が射して明るかった。

【東之台】

苔のような植物がびっしりと生え、東之台全体が黄緑色に明るく見えた。



山道は石塁に沿って伸びている。



三之城戸の石塁よりも長く、どうやら頂上(本丸)まで伸びているようだ。



それにしても長く続く石塁には圧倒された。
よくぞこの山の中にこれだけのものを築いたものだと思う。

この城のあまりに広大な城域と土木量は地方豪族が単独で築いたと考えがたく、
それ以前に築かれた古代の城の転用ではないかといわれている。



来た道を見下ろすとこのような感じ。
苔が敷き詰められた緑色の場所は、今歩いてきた東之台。



石塁は更に上に向かって続く。



石塁に沿って、竪堀 が掘られている。
これは敵の侵入を困難なものにしている。

【竪堀跡】

石塁には往時の原形が完全に遺っているものもあるという。



竪堀を見下ろしたところ。



竪堀と並行する山道を上りきると、本丸入口に着いた。



本丸入口となる 虎口(城門)。

【本丸虎口(城門)】

虎口を入って左側の 腰曲輪

【腰曲輪】

城の修復記念碑。



本丸に到着。

【本丸】

本丸周囲に腰曲輪が配置されている。



長岩城(永岩城)は標高540.7mの所にある。

【本丸②】

本丸には 礎石 が見られた。

【礎石】

本丸からみる腰曲輪。

【腰曲輪②】

腰曲輪からみる本丸石垣。



もう一つの本丸虎口。

【本丸虎口(城門)②】

本丸からもと来た山道を下り、陣屋跡方面へと行ってみた。
少し行くと石塁が見え、そこが 陣屋跡 だった。
杉林の中にひっそりと遺構がある。

【陣屋跡】

天正16年(1588)、長岩城は 後藤又兵衛 率いる黒田軍の精鋭3500騎の大軍に攻められる。
その時の城主である 野仲鎭兼 は一族郎党、及び与力雑兵1500余と共に籠城。
勇戦するも敵の圧倒的な数によって力尽き、城は落城してしまう。
野仲一族は自決し、一族滅亡となり、この城も廃城となった。

この城址はとにかく石塁の造形美が素晴らしかった。
うねるように続く石塁は、ずっとその場で見ていたい気持ちだった。
そしてここが実際戦場となった城跡であることが、更に魅力を深めている。

岸岳城址(佐賀県)

2012-01-09 | 城(城址)歩き
2012年の最初の城址散策は、1月8日、佐賀唐津の 岸岳城址 へと向かった。

城は北波多村の東端、相知町との境界をなす 岸岳(標高約300m)に築かれている。
細長く伸びる尾根を削って平らにし、延々1kmの 連郭式曲輪 が配列されている。



近くに、中国東晋時代の桃花源記に登場する理想郷 『桃花源』 が表現された場所があった。
城跡とは何の関係もないものだと思う。



比高200m程の登山口に駐車場があり、そこに車をとめた。
駐車場からは二通りの道があるが、まずは舗装された道から行ってみた。



舗装道路から登山口に入り、しばらく歩くと案内板が見えてくる。



なるほど、細長い縄張の城跡となっている。



階段を上って行くようになっているが、草が鬱蒼と茂り、ちょっと躊躇してしまった。



階段を上りきると、標識が立っていた。
とりあえず先に、向かって左側の旗竿石に行ってみた。



割と急な上りになっている。
ロープを使い、岩を登る所もあった。



岩にびっしり生えていた植物。



旗竿石(はたざおいし) と伝わる岩。
城の物見の場所といわれる。
岩の上に直径数センチの丸い筒状の穴があり、そこに旗を立てたとされる。
分かりやすいように竿が立っていた。

【旗竿石】

玄界灘を一望できる。とあるが…
眺めはよかった。



再び標識に戻り、今度は反対側の本丸跡へと向かう。
目の前に岩があり、その左脇を進むようになっていた。



岩から3分程で 三ノ堀切跡 がある。
堀切には木橋が架かっていて、往時もこのようにして堀切を渡ったものと思われる。
ここから橋を渡った先は、城の 三ノ丸 となる。

【三ノ堀切に架かる木橋】

木橋から下の堀切を覗きこんだところ。

【三ノ堀切跡】

しばらく行くと低い石垣のようなものが見られた。
何かの土台かもしれない。



いきなり景色が見渡せる場所に出た。
測量時に三角点となった場所だった。





ここまではまだ城の三ノ丸となる。
二ノ丸に向かって、林の中を進む。



三ノ丸と二ノ丸の仕切となる、ニノ堀切 に到着。

【ニノ堀切】

このニノ堀切壁面に積まれた石垣は、戦国時代から残る本格的な石垣跡らしく、
切石 が積み上げられている。

【ニノ堀切壁面石垣①】

石垣は戦国時代以降のものだが、中世山城の面影も残す、重要な城郭遺跡となる。

【ニノ堀切壁面石垣②】

所々が崩れている。



堀切の中央に立ってみる。
左手が三ノ丸方面。 右手は二ノ丸方面。
敵が攻めてきた時、ここを越えるのは容易ではないだろう。



二ノ丸側からニノ堀切を覗きこんだところ。
ちょうど看板があった辺り。
石垣の向かって左側、鎖が張られている道を歩いてきた。



二ノ丸に入り、さらに林の中を歩く。
迷うことはないと思うが、登山道を示す赤テープが随所に見られる。



城跡全体に石が多く見られた。



埋まっている石垣跡。
崩れた石垣には、切石の跡が見られた。



二ノ丸 の看板がある、開けた場所に出た。

【二ノ丸跡①】

薄暗い林の中を歩いてきたので、広い場所に出てちょっとホッとした。

【二ノ丸跡②】

埋め門跡(うずめもんあと) とされる場所。
埋まっているので、これが門であるかは確認できない。

【埋め門跡】

二ノ丸の開けた場所から3分程歩くと 井戸跡 があった。





井戸跡を過ぎると本丸跡までは近い。
木々の間から陽光が射し、林の中も明るくなってきた。



本丸跡への山道から少しそれた方向を示す、やぐら跡 の看板があった。
せっかくなので、ちょっと行ってみることにした。



やぐら跡まで100m。
落葉が敷き積もる、少々角度のある斜面を下りて行くため、足がズルズルと滑る。
滑り落ちても落葉の絨毯を滑るだけなので、さほど危険ではないが、
木々に摑まり、用心しながら下りていった。

やがて木々の隙間に石垣が見えた。



山の斜面から突き出るように石垣があった。
櫓台となる石垣だろう。

【やぐら跡】

また何度か落葉の上を滑りながら、本丸への山道に戻った。

木に札が打ちつけてあった。
何か書かれていたのだろう。



陽光が明るい広場に出た。
ここが 本丸跡 となる。 中央に竹竿が一本立っていた。

【本丸跡】

本丸跡では久しぶりに青空が見れた。
ここはとても気持ちのいい場所だったので、
お茶を飲んだり、持ってきたチョコバーを食べたりしてのんびり休んだ。



ここ岸岳城の築城の時期は南北朝時代、1336~1392年頃と考えられている。
上松浦党 の棟領である 波多氏 17代が約450年間、盛衰を極めた城となる。

文禄2年(1593)には豊臣秀吉によって波多氏は改易され、
唐津藩主・寺沢広高 が領主となり、城は廃城となった。



本丸跡を歩いてみると石積みの祠があった。
お供えのカップに水を注ぎ、手を合わせた。



何か書かれてあるが、『波多』 の文字が読める。



のんびり休んだ後は、もと来た山道を戻った。
城の案内板まで戻り、そこから来た道と別の方へ行くと祠があった。



ここで、今日も無事に城址歩きができたことに御礼を言い、手を合わせる。
鬼子岳城址というのは、あて字だろうか。
この道はそのまま駐車場まで行けた。

岸岳城址では貴重な当時の石垣などが見れ、
山歩きとしてもとても面白い場所だった。

天草海道博 其の②富岡城址(熊本県)

2011-10-12 | 城(城址)歩き
10月9日、本日の最終目的地とした 富岡城址 は、
天草下島の北西、富岡半島の南東部丘陵上にある。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、
天草は唐津の 寺沢広高(てらさわひろたか) の領地となり、
寺沢氏は慶長7年(1602)、天草統治のため、富岡城 を築いた。
本城である唐津城が 『舞鶴城』 と呼ばれたのに対し、
支城である富岡城は 『臥龍城』 と呼ばれた。

寛永14年(1637)に勃発した島原の乱では、
肥前唐津藩の軍を敗走させ、勢いにのる天草四郎率いる天草一揆軍の攻撃を受けるも、
これを死守し落城を免れた。

現在、丘陵上には 富岡ビジターセンター があり、
櫓、石垣なども再現されている。
丘の下から眺めると、確かに攻めるには難しい城であったことがよく分かる。

【富岡城址】

城の堀の役目を果たしていた 袋池
木々に囲まれているにもかかわらず、不思議と一枚の葉も落ちていないため、
この池にはこんな伝説がある。

米屋を営んでいる父親が、あこぎな商売をしていたため、
それを悲しんだ娘がこの池に身を投げ、やがて一匹の龍になった。
それからというもの、朝早くまだ暗い頃に元の娘の姿に戻り、
水面を掃除しているのだという。

伝説はともかく、よく見るとこの池には確かに一枚の葉も落ちていなかった。
本当に龍になった娘が、朝早く掃除しているんだろうか・・・。

【袋池】

ぐるりと丘を回りこむように道路を上がっていく。
途中の道路脇に石垣があった。



島原の乱後の寛永18年(1641)、天草は 天領 となり、
その時に初代代官として 鈴木重成(すずきしげなり) が赴任した。
丘の登り口辺りに、その重成の像がある。

全島の統治にあたった重成は、まず郡内の行政組織を整備し、
また、実兄の 鈴木正三(すずきしょうさん) の授けを得て寺社を復興させ、
乱後の島民の思想善導をはかった。

さらに、当時の天草の石高は四万二千石で過大であったため、
(このことが、島原の乱が勃発した原因の一つであった。)
その貢納の半減を幕府に申し出たが、容認はされなかった。

承応2年(1653)、全島民のため、更なる貢納の軽減を幕府に訴えていた重成だったが、
江戸飯田橋の屋敷にて、66歳の生涯を閉じる。
幕府に身をもって訴えかけるため、自刃したとも伝えられる。

重成の犠牲をもって、やがて幕府は減税を認め、
万治2年(1659)、重成の養子・重辰の頃に、石高は二万一千石に半減された。
その後、全島民は重成を偲び、各地に 鈴木神社 を奉祀している。

【鈴木重成像】

丘を上ると、アダム荒川殉教の地 の碑があった。

先ほど、殉教公園にも石碑が建っていたアダム荒川だが、
禁教令にも屈せず信仰を守って処刑されたのは、
富岡城下の海岸だったと当時の神父らが書き残している。
それがこの付近なのではないかと推測されているようだ。

【アダム荒川殉教ノ地の碑】

やがて丘を上りきった所に駐車場があり、そこからは歩いて上った。
すぐに巨大な 二ノ丸石垣 が目の前に現れた。

【二ノ丸石垣①】

天草は島原の乱後、山崎家治(やまざきいえはる) の領地となった。
この時、幕府は資金を与え、富岡城の修復を命じる。
幕府は海外列強からの侵略を恐れ、鎖国政策を進めていたため、
国内最西端に位置する富岡城を守りの最前線基地として位置づけたかった。

築城の名手といわれた家治は、約三年の月日をかけ、
乱で傷んだ城の修理と守りの強化のための縄張りの拡大を行い、
新たに 大手門百間土手 を築き、城の大修復を行った。
現在見られる、富岡城の形がこの時完成する。

【二ノ丸石垣②】

山崎氏の後、天草は天領となり、鈴木代官の時代を経て、
後に再び私領となり、戸田忠昌 が城主となる。
しかし、戸田氏の領地替えの際に城は破城となり、
再び天領となって、天草の行政の中心となった。



城の復元整備の際、西側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、
寺沢氏、山崎氏の築いた石垣が確認された。
寺沢氏の築いた石垣には、一揆軍との攻防の跡が残っているらしいが、
確認することができなかった。

【二ノ丸石垣③】

二ノ丸跡へと向かった。



途中の階段から、二ノ丸石垣を見る。

【二ノ丸石垣④】

古いものか、新しいものか?
所々に石割の跡が見られた。

【石垣写真・壱】

【弐】

【参】

二ノ丸跡は、塀と柵で囲まれている。
それに沿って、二ノ丸内を歩いた。

【二ノ丸跡の塀と柵】

二ノ丸から見下ろすと、出丸 の跡が見渡せる。
城跡公園として、とてもきれいに整備されている。

【出丸跡】

袋池が城の南側の堀の役割を果たし、
東部には 砂嘴(さし) に囲まれた巴湾が天然の土塁となり、
海からの外敵を防ぐ役割を果たしていた。

【巴湾の砂嘴】

陸からの攻撃は 砂州(さす) のみしかなく、極めて攻撃し難い天然の要害となっていた。
(砂嘴・砂州・・・波と沿岸流によって形成される細長い堆積地形)

【二ノ丸からみた巴湾】

二ノ丸からみた袋池。

【二ノ丸からみた袋池】

二ノ丸跡には、4体の偉人の像が。
まずは、勝海舟頼山陽(らいさんよう) の像。
なぜこの二人の像があるかというと・・・

安政3年(1856)10月、勝海舟は長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航。
この時、宿泊した鎮道寺の柱に 『日本海軍指揮官 勝麟太郎』 と肩書きをつけた落書きを残している。
この時、彼はまだ伝習生にすぎないが、
若くして将来の日本を背負って立つ意気込みを感じさせる落書きとなっている。
彼は翌年3月にも来航し、その時も別の柱に墨書きを残しているらしい。

頼山陽は、『日本外史』 の著者として知られ、
幕末の 尊皇攘夷思想 に大きな影響を与えた。
川中島の合戦を詠んだ(不識庵撃機山図)詩人としても知られる。
文政元年(1818)、西遊の途中、富岡城下に開塾していた儒者・渋江龍淵(しぶえりゅうえん)を訪ね、
泊天草洋』 にて西海天草灘の展望を吟じた。
これにより、頼山陽は広くその名を知らしめることとなった。

なるほど、頼さんは天草にゆかり深いが、
勝さんは落書き残しただけ・・・。 (笑)

【勝海舟・頼山陽像】

鈴木重成 とその兄 正三和尚 の像。

重成の兄・正三は、関ヶ原の戦いなどで活躍し、旗本にとりたてられるも、
42歳で弟・重成に家督を譲って出家する。
63歳の時、代官となった重成からの依頼を受け、天草に3年間滞在し、
政策顧問として重成を支えた。
正三は、乱で荒廃した島民の心の安定が第一と考え、神社仏閣の復旧を重成に勧めた。

晩年は江戸に住み、明暦元年(1655)、77歳の生涯を閉じる。
天草の人々は二人の遺徳を偲び、島内各地に鈴木大明神、鈴木塚を祀り、
鈴木神社も造営されている。

【鈴木重成・正三像】

二ノ丸に建つ4体の像。
その向こうの本丸跡に建っているのは、富岡ビジターセンター。

【二ノ丸跡】

東側、二ノ丸から少し下がった所に枡形が見える。
そこを下りてみた。

【二ノ丸東下の枡形】

枡形から見上げる、本丸櫓。

【本丸櫓】

枡形から見上げる、富岡ビジターセンター。

【富岡ビジターセンター】

本丸石垣。

【本丸石垣①】

枡形へ下りていく途中、稲荷神社があった。

【稲荷神社】

枡形から本丸を見上げるとこんな感じ。
堅牢な城が再現されている。

【本丸石垣②】

再び二ノ丸へ戻り、本丸跡へ。
本丸石垣横の階段を上る。

【本丸石垣③】

階段を上ると、復元された がある。

【櫓】

その正面にある、これも復元された 高麗門(こうらいもん) 。

【高麗門①】

本丸内からみる高麗門。
門の向こう側に見えるのが、先ほどの櫓。
右手が本丸櫓の壁。

【高麗門②】

高麗門をくぐるとすぐに富岡ビジターセンターがある。
実在した富岡城本丸 多聞櫓 をモデルとして建てられた。
ここは天草地方の自然、動植物、海生生物、人々の生活、人物、歴史などを
写真や映像によって紹介する施設となっている。

【多聞櫓(富岡ビジターセンター)】

富岡城の城としての役目は約70年だったが、破城後は三ノ丸に代官所が設置され、
幕末まで天草の行政の中心となった。

現在、富岡城址はきれいに復元整備され、
歴史を感じさせる古い遺構はあまり見られなかったが、
城の縄張りなどは忠実に再現されており、
難攻不落の当時の城の規模を体感できたことはよかった。

天草海道博 其の①

2011-10-11 | 史跡散策
今年の3月から、天草では 天草海道博 という、自然の博覧会が開かれている。
パビリオンなどがあるわけでなく、
『 ありのままの天草の魅力を紹介する 』 というもので、
各地域の自然、歴史、文化、島の生活などが体感できる。
来年の3月末まで開催されているようだ。



ちょうど8月に島原に行った際、近いうちに天草にも行ってみたいと思っていた。
天草はかつて 島原の乱 で、一揆の起こったもう一つの場所になる。
天草四郎が天草一揆軍を率いて攻めた 富岡城 に行ってみたかったし、
キリシタンの遺構などにも興味があった。

以前にどこかの道の駅で、その海道博のパンフレットを貰い、
それを見て、いくつか行ってみたいと思った場所をピックアップした。
そして、富岡城址を最終目的地としてコースを決めた。

天草四郎メモリアルホール ⇒ 天草パールセンター ⇒ 姫戸町ドルメン
⇒ 上津浦城址 ⇒ 天草殉教公園(天草キリシタン館)
⇒ ぺーが墓(キリシタン墓地群) ⇒ 富岡城址

これを1日で回る予定。
最初の天草四郎メモリアルホールには、
開館時間の朝 9:00 までに着かなくては、後のスケジュールが詰まってくる。
10月9、10日と連休だったため、9日の朝 4:30 起床、
AM 5:00 に天草に向かって出発した。

最初の目的地、
上天草の大矢野島にある 天草四郎メモリアルホール には、
AM 8:30 に到着。
高速道路をフルに使ったので、予定よりも早く着いた。



ここは、島原の乱をテーマにした歴史資料館。



開館まで時間があったので、周辺を歩いていると、
丘の上に 天草四郎公園 があった。
天草の色んな場所に四郎の像が建てられているが、
ここの像は丸っこくて仏像のような感じ。

【天草四郎像①】

そして、ここでは 切支丹(キリシタン)墓碑群 が見られる。
昭和42年に御子ノ浦で発見され、鑑定の結果、
隠れキリシタン の墓碑であることが判明した。

【キリシタン墓碑①】

【キリシタン墓碑②】

島原の乱後、ここ大矢野に宗徒はいなかったとされていたが、
この墓碑の発見により、その説が覆されたらしい。

【キリシタン墓碑③】

宗徒らは厳しい取締りを巧みにのがれ、仏教徒を装って信仰していたと思われる。

【キリシタン墓碑④】

中には、円墳もあった。



メモリアルホールでは結婚式もできるようで、側には愛の鐘などがあった。
子供がガンガン鳴らしていた。(笑)

見晴らしもいい。
正面は上天草物産館さんぱーる。
島原湾にうっすら見えるのは、野釜島。



メモリアルホールの外観は、南蛮服を着た天草四郎のようにも見える。
戻ると時間前に開館していたので、この日は一番乗りの客で入館した。

【天草四郎メモリアルホール】

さらっと見学して行くつもりが、入口を入ってすぐのホールで映像を観るため、
ある程度の人数が集まるまで少し待たされた。
ここでは、日本にキリスト教が伝わり、後の島原の乱までの歴史的な流れが説明される。

映像が終わるとガイドさんが次へと案内してくれ、
テーマ空間では色々な展示物を見学。
実物大の信長像は、現代の小学校高学年の子くらいの背丈しかなかった。
南蛮屏風絵、九州のキリシタン大名などの説明を読んでいると、
ガイドさんから、また別の映像ホールへ案内される。

ここでは、3D映像を観るための立体メガネが渡され、
細川藩の侍の視点で描かれた、島原の乱時のドラマが流される。
ミニ大河ドラマという感じでよく出来ていて、なかなか面白かった。

ホールの2Fでは瞑想空間があったが、
AM 9:40 ここは先を急いだ。

宇土半島の先端の三角町から天草上島まで、
国道266号線上にあり、島々を結んでいる5つの橋は 天草五橋 と呼ばれている。
また、真珠の養殖が盛んなことから、天草パールライン とも呼ばれている。
一つ一つの橋を下から見上げてみたかったが、今回は諦めた。
橋の上は、晴れた空が気持ちのいいドライブだった。

【2号橋(大矢野橋)入口】

5号橋を渡りきった辺りに天草パールセンターがある筈だったが見逃した。
ここでは天草四郎の像を見たいだけだったので、パスして先を急いだ。

そのまま国道266号線を行くと、左手に 八代海 が広がる。
目指すは姫戸町の 矢岳巨石群遺跡



白嶽公園キャンプ場を目指し、国道から右手山側に入る。



巨石群への案内が見つからなかったので少し迷うも、
とにかくキャンプ場を目指したところ、
山道沿いに 境石 と呼ばれる大きな石があった。

ここの巨石群は 古代海洋民族 の遺跡といわれる。
この境石には数個の盃状の穴が見られ、そこに棒状のものを立て、
日時計的な役目で大事な祭事の時期を知ったのではないかと推測されている。



境石が示す、北、夏至、春分・秋分、冬至線。



草木で覆われ見えにくいが、時を示す各石の位置は、立札に記されていて見つけやすい。







さらに山道を上ると道沿いにベンチがあり、ちょっとした広場になっている場所があった。
ここから歩いて山を登ると、目的の ドルメン に行けるようだ。
車は広場に乗り上げて駐車するしかない。
先客の車が1台とまっていた。



ドルメンへの山道は、矢岳神社への入口でもあった。
それほど山を登るようでもなかったが、念のため靴を履き替えスタート。

【矢岳神社鳥居】

山城の跡のように、大きな岩がゴロゴロしている。



山道は、5分程登ると石の階段になった。



矢岳 =ヤタケ とは、シュメール系古ヘブル民族では、
『 神の峰 』 という意味を示すらしい。

階段を登りきると、そこには 矢岳神社 があった。
祭神は山の神。 男女二体の神が祀られている。
標高 244m の矢岳近くの巨岩の岩陰にあり、境内も自然の石の庭となっている。



創建は不詳。
安政5年に、内野河内の山方役人・大西美稚敬により、
姫浦永目側にあった祠を還座したものともいわれている。

【矢岳神社】

矢岳神社からそれほど登らない場所に、ドルメン が現れた。
ドルメンとは、数個の石柱の上に巨大な天井石を載せたもの。
その多くが埋葬地に建てられるものらしく、支石墓 ともいわれる。

【ドルメン】

長さ13m、幅6m、厚さ1.5mの天井石を、
2m幅の階段状の礎石を中心に、5つの支石で支えている。
東西に長く、東向きに28°の仰角をもつ。

【天井石①】

天井石の上には登れるようになっている。
そこから南に目を向けると、小島と雨竜崎が一直線に並び、
これは偶然のものではないだろうと考えられている。

【天井石②】

このドルメンは、石積みの古代遺跡の中でも、世界に類を見ない最大級のものだという。
実際目の当たりにすると、想像以上にでかかった。



雨竜崎より北極星を望むとき、小島のその先、
ここ矢岳に神を向かい入れる神殿として、このドルメンが存在しているという。

石造りのドルメンなど、海外にしかないものだと思っていたが、
日本でも数箇所存在するようだ。
このような西洋文明のような建造物と、神社がいっしょに存在している様は、
何だか不思議な感覚で、とても神秘的な気がした。

山の頂上まで行くと、宇宙船石があるということだったが、
そこまでは行かず、山を下りた。



次は、有明町の 上津浦城址 を目指して出発。

途中の松島町知十橋近辺。
いたる所で削られた山が目立った。



島原の乱時、天草の一揆勢は 大矢野 の地で蜂起、
上津浦 にて、島原の口之津から湾を渡って来た、
天草四郎率いる島原一揆勢1500人と合流する。

天草・島原一揆軍は、富岡城へ進軍する際、この地に本陣を置いた。

上津浦城 は、
もとは天草上島北部で勢力を誇っていた上津浦氏の城だった。
男山、女山とよばれる、二つの小さな山から成っている。
右手にそのうちの一つ、男山が見えてきた。

AM 11:50 上津浦城址周辺に到着。



左の小さい方の山が 男山、右の山が 女山 となる。
山の中は、山道も途中で無くなっているほどの場所らしいので、
城の遺構らしいものは見てみたかったが、上るのは止めた。

【上津浦城址】

天草一揆の拠点がどんな場所かを見たかったので、城址周辺を見てまわった。
・・・が、特に案内らしきものはなかった。
歴史的価値がある場所だし、天草海道博・城跡海道としても紹介されている場所なので、
何らかの案内板があったらいいなと思った。



城址周辺は、一面が畑の広大な土地。
一揆軍はこの辺りに集結し、士気を高めたのかも・・・などと想像してみる。



上津浦城址では、その周辺の情景を見てみたかったので、
何となく満足できたところで、その場をあとにした。

再びドライブ。
国道324号に入り、天草瀬戸(せど)大橋を渡る。

PM 12:25 天草殉教公園 に到着。
ここには 天草キリシタン館 もあり、観光客も多かった。

駐車場に車をとめると、すぐに殉教公園があった。
入口には アルメイダ記念碑 が建っていた。

【アルメイダ記念碑】

ルイス・デ・アルメイダ は、1525年、ポルトガルのリスボンに生まれる。
21歳で医師の資格を習得、戦国時代末期の日本に訪れ、東洋貿易商人として活躍した。
1555年には平戸へ渡り、イエズス会員 となった。

また私財を投じ、豊後府内(大分県)に孤児院を建てると共に、総合病院を開設。
日本に最初の 西洋医学 を伝えた。

1561年以降は布教活動に専心。
1566年、志岐氏の招きで島内各地で布教に従事し、
1583年、天草にてその生涯を終えた。

アルメイダと聞いて、何だか聞き覚えがある気がしたが、
すぐに地元の大分県にある、アルメイダ病院を思い出した。
その名の元となる人物にここで出会えたのは、何だか少し嬉しかった。

【アルメイダの像】

アルメイダ記念碑のすぐ側にある、
天草最初の殉教者といわれる アダム荒川 の石碑。

アダム荒川は、天文21年(1552)頃、島原半島の有馬で生まれたといわれる。
1590年頃には、志岐の教会に伝導士あるいは看坊として勤めていた。

慶長19年(1614)、キリシタン禁教令により、
志岐教会のガルシア・ガルセス神父が国外追放になった際、教会の世話などを任される。
アダムは信者の世話に力をそそぎ、
幼児に洗礼を授けたり、病人を見舞ったりと、人々を励ましていた。

やがて、キリスト教の迫害が厳しくなり、
アダムは役人に捕らえられ、棄教を命じられる。
しかしこれに屈せず、様々な拷問などを受けるも信仰を守り続けた。
そのため、慶長19年6月、志岐の刑場で処刑された。

【アダム荒川の碑】

殉教公園には、アルメイダ記念碑、アダム荒川の碑とともに、
キリシタン墓地 がある。



このキリシタン墓地は、
もとは五和町に点在していた墓石を集めて造られた。

【キリシタン墓地】

墓地のすぐ側にある、キリシタン館
平成22年7月にリニューアルされたらしく、近代的な建物だった。

【キリシタン館】

キリシタン館の入口には、本日2つ目の天草四郎像。

【天草四郎像②】

島原の乱時、四郎は16~17歳だったといわれる。
この像は、まだあどけなさの残る青年の雰囲気がよく出ていると思う。



館内には、天草にキリスト教が伝わってからの南蛮文化、
島原の乱後、天領となった時代の隠れキリシタンの遺物など、
約200点の資料が展示されている。

レプリカながら 天草四郎陣中旗 には、戦いの際に付着した血の跡が残る。
聖杯から生まれる十字架に祈りを奉げる天使が描かれた陣中旗を見ていると、
何となく血が通ってくるような、温かい気持ちになってくる。
天国で新たに生まれ変わることを信じ、殉教を厭わずに戦った、
キリシタンの誇り高い信仰心が伝わってくるようだった。

他にもキリシタンが仏像の中に隠して信仰していた、
十字架やマリア観音像なども展示されていた。

【天草四郎陣中旗】

キリシタン館を出て、建物の屋上にある展望テラスへ上ってみた。

遠くにうっすらと見える 天草上島
あそこを通って来たんだな・・・などとぼんやり思った。

【キリシタン館展望テラスより】

キリシタン館の建つこの辺りは、
天草五人衆 の一人である 天草氏 の築いた 本戸城 の城址でもある。

天草五人衆とは天草諸島の国人衆で、天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏のこと。
秀吉の九州征伐で服従していたものの、
肥後南部の領主となった 小西行長 の宇土城普請の要求を拒否。
天正17年(1589年)、のちに 天草国人一揆 とよばれる反乱を起こす。

しかし同年、領主・小西行長と助勢に来た 加藤清正 の軍に攻められ、
滅亡または服属の運命をたどった。
この時、本戸城も攻め落とされた。

【本戸城址】

本戸城址の碑の側にある、木山弾正社
木山弾正 は、小西行長・加藤清正連合軍との戦の際、本戸城に客将として迎えられていた。
加藤清正との一騎打ちで敗れ、戦死したと伝えられている。

【木山弾正社】

13:05 殉教公園をあとにした。

車で少し行ったところで、立派な山門が目に入った。
そこは 明徳寺(みょうとくじ) という御寺だった。

【明徳寺山門①】

向陽山明徳寺は、正保2年(1645)、
天草初代代官・鈴木重成 によって建立された曹洞宗の禅寺。
島原の乱後の人心平定とキリスト教からの改宗を目的として建立された。

【明徳寺山門②】

山門は、享保2年(1717)に建てられ、
文化5年(1808)に再建されたもの。

やはり車の中からでも目を引かれただけのことはある。
案内板には、
~天草にある楼門の中で、最もすぐれたものである~
と書かれてあった。



次の目的地は五和町御領にある、キリシタン墓碑群、ペーさんの墓・・・。

PM 13:25 ペーが墓 に到着。

小さな墓地があり、その向こうに案内板が見えた。
5~6台は駐車できる、予想外に広い専用駐車場があった。



車を降り、案内板に従って森の中に入って行く。
人影は全くなかった。



小道の左側に柵で仕切った場所があった。
柵の中にはちょっとした畑があり、たまに人が来ているようだった。



小道は薄暗い竹やぶの中へ。
やぶ蚊が多く、何ヶ所か刺されて痒かった。



駐車場からは3分くらい。
それほど時間はかからず、ぺーが墓 に到着した。
うす暗い場所には案内板が立っており、少し小高くなっている場所に墓碑があった。

五和地区では、約千基のキリシタン墓碑が確認されている。
丘陵上に独立した墓域を形成しており、
地元の言い伝えでは、昔はこの周辺に近付くことはタブーとされ、
近付く者はいなかったといわれる。



五和地区に墓碑が集中するのは、
16世紀中頃、天草に最初に宣教師を招いたキリシタン領主が、
領土の端となるこの辺りに墓を作ったためといわれる。
当時、領内には多くの信者がおり、
これら墓碑群は、17世紀中旬までに作られたものだと考えられている。

ぺーが墓とは変な名称だが、
ぺーは 『神父』 を意味する 『ペーター』 が語源となっているのではないかといわれ、
『神父の墓』 である可能性を示している。

天草で確認されている墓碑の中でも、
当時の原形をとどめる、数少ない墓所であるらしい。



墓碑は十字が刻まれた墓石を取り囲むように、他の墓石が並べられていた。



深くしっかりと刻まれている十字。



複数の十字が刻まれている墓石もあった。





キリシタンの人の手によって刻まれたであろう十字を見ていると、
どんな思いでこれを刻んだのだろうかと、とても感慨深いものがあった。

13:50 この日の最終目的地、富岡城址へと向かう。

海沿いを走る国道324号線を行き、天草市苓北町に入った。
途中、中世期に天草五人衆とうたわれ、初めてキリスト教を導入した豪族といわれる、
志岐氏の居城・志岐城址を探すも見つからず諦めた。

14:40 丘陵の上に 富岡城址 が見えてきた。



この日回って来た城跡の中で、最も見つけやすい城跡だった・・・(笑)