城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

岐部城祉(大分県)

2010-10-18 | 城(城址)歩き
10月17日の日曜は天気のいい日だったので、
近場へドライブに行こうと思い、国東方面へ出かけた。

目的地は国見町のペトロ・カスイ岐部公園で、その裏山にある岐部城祉を見てみたかった。

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ペトロ・カスイ岐部とは国東半島の豪族・岐部氏の一族で、
1587年にここ岐部に生まれた。
長崎・有馬のセミナリオで学び、イエズス会の伝道師となる。

元和元年(1615)、キリシタン追放令によりマカオへ追放され、
そこで、偏見から司祭叙階がかなわないことを知り、ローマのイエズス会本部を目指す。
途中、日本人としてはじめてキリスト教徒の聖地であるエルサレムを訪れた。

元和6年(1620)、ローマに至り、司祭となりイエズス会入会を許される。

そして故郷日本への帰国を目指し、
苦難の渡航の末、寛永7年(1630)に16年ぶりの日本帰国を果たした。
その頃、日本ではキリスト教の弾圧が強化されていたため、
摘発を逃れながら信者たちを励ます旅が続いた。

やがて寛永16年(1639)、仙台領にて滞在場所を密告され逮捕される。
そして江戸に送られ、同年7月に斬首され殉教した。

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公園に着くと大勢の人が集まっていた。
その日は岐部殉教祭の日で、そこから賛美歌が聴こえてきた。

その中を関係ない人間が歩いていくのも気が引けたので、もう少し後で来ようと思い、
213号線をさらに北九州方面へ行ってみた。

やがてレストハウスの正面に広い駐車場があり、きれいな砂浜のある海が見えた。
そこは権現崎海水浴場で、海を眺めると近くに姫島が見えた。

【権現崎の砂浜】



しばらく砂浜を散策し、岐部公園に戻った。

まだ殉教祭は続いていたが、とりあえず駐車場に車をとめると、
岐部城主の墓塔があり、その裏側から城祉へ行くことができるようになっていた。

【岐部城主墓塔】

城址は小規模なものだったが、復元された石垣によって曲輪が形成され、
展望公園として整備されていた。

岐部城は、鎌倉時代に紀氏の流れをくむとされる岐部氏、岐部成久によって築かれた。
成久は宇佐神宮領の地頭としてこの地に派遣され、そのまま領主となった。
弘安4年(1281)、弘安の役(二度目の蒙古襲来)に参陣し武功を立てている。

【石垣①】

戦国時代には、岐部氏は大友氏に属し、国東一帯の水軍の中心的存在として活躍した。
一族は大友宗麟の影響もあり、熱心なキリシタンが多かった。

岐部一族の岐部信泰は大友義統の側近となり、文禄の役(1592)ではともに朝鮮へ出兵した。
しかし義統は出兵の際、小西行長からの救援要請があったにもかかわらず、
行長戦死の虚報を信じて撤退してしまうという失態を犯す。
それにより秀吉から所領を没収され、常陸の佐竹義宣のもとへ蟄居を命じられた。
その際にも信泰は義統に仕え、行動をともにした。

関ヶ原の合戦が始まると義統率いる大友軍は西軍に属し、豊後に帰国。
信泰も大友軍として、東軍に属す黒田軍と戦う(石垣原の合戦)も、この戦いで討死した。

【石垣②】

この辺りの石垣は復元されたものだと思う。
すべてそうなのだろうか・・・

【石垣③】

石垣に沿って道や石段があり、上へと登ることができる。
落ち葉ですべる場所があるので、注意しながら登った。

【石垣④】

整備されてはいるものの、登っている人は誰もいなかった。(笑)
途中、クモの巣や草が伸びている場所があり、払いながら登った。

【石垣⑤】

【石垣⑥】

石垣に沿って登った頂上。
それほど疲れずに登ることができる。
ベンチがあり、景色を観ながら休むこともできる。
この場所が本丸跡ということになるのだろうか。

【本丸跡か】

ここでも海の向こうに姫島が見えた。

【石垣頂上からの景色】

記念公園にはペトロ・カスイ岐部神父の像などがあり、
そちらにも行ってみたかったが、殉教祭が続いていたので今回は諦めた。

この辺りでは、とても大事にされている公園のようだった。

高鍋城址(宮崎県)

2010-10-13 | 城(城址)歩き
高城址(木城町)から車で15分程の場所に高鍋城祉(高鍋町)がある。

高鍋城は戦国時代には財部城(たからべじょう)と呼ばれ、伊東氏の家臣・落合氏の居城だった。
天正5年(1577年)、落合氏は跡目問題による事件が元で島津氏に寝返り、
財部城は島津氏の所有となる。

しかし天正15年(1587年)、
豊臣秀吉の九州征伐により、筑前・秋月城主だった秋月種実が移封され、城も秋月氏のものとなった。
関ヶ原合戦後の慶長9年(1604年)には秋月種長により、櫛間からこの城に居城が移される。
延宝元年(1673)に財部城は、高鍋城と名が改められた。

岩坂門前の駐車場に車をとめた。
岩坂門は寛文10年(1670)に完成した、二ノ丸の正門となる。

 【岩坂門跡】

石段を上ると舞鶴神社がある。
高鍋城は舞鶴城と呼ばれ、現在は舞鶴公園として整備されている。



長友勘右衛門の水路功績記念碑。
勘右衛門は高鍋一帯の用水路を敷設。
初代藩主・秋月種長はその功績を大いに称えたといわれる。

【水路功績記念碑】

二ノ丸からさらに上へ、石段を上る。



戊辰の役・殉難招魂の碑。
明治元年(1868)、高鍋藩は高鍋隊を編成。 北越・東北を転戦する。
谷坂墓地に眠る、この戦役で斃れた十一勇士達の霊を悼み、
秋月種樹によって記された碑文が刻まれている。

【殉難招魂の碑】

延宝6年(1678)に完成した長峰門は、もとは櫓門だった。
本丸北側にあり、本丸正門となる。

【長峰門跡】

西南の役・丁丑(ていちゅう)戦亡記念碑。
明治10年(1877)の西南の役の際、
高鍋藩は官軍につくか西郷軍につくか、意見が分かれるも結局は西郷軍に参加。
田原坂の激戦など各地を転戦するも、ついに官軍に降伏する。

この役に参加した者700名余、うち戦死者78名、受刑者20名と多大な戦災を被った。

【丁丑戦亡記念碑】

本丸は芝のきれいな広場になっていた。

【本丸跡①】

本丸にはかつて御殿があり、
延宝4年(1676)、第三代藩主の秋月種信のときに完成する。
藩士の集まる大広間、御書院、家老所、奉行所などがあり、ここで高鍋藩の政治が行われた。

点々と本丸御殿のあった名残りである、礎石が散らばっていた。

【本丸御殿跡礎石】

案内板には細かく御殿の見取図があった。

【本丸跡②】

ここが本丸なら、もう見るものはないかな・・・と思いつつ、
物見台への案内があったので行ってみた。



物見台からの景色は木が邪魔をして、町並がよく見えなかった。
遠くに日向灘が見える。

【物見台からの景色】

物見台からさらに上は山道になっていた。
途中に児童公園があり、遊具などがあったが他には何も見あたらなかった。
案内板によると三層櫓跡があるはずだったが、見つけることができなかった。




ここが三層櫓があった場所かな? と思った・・・何かの跡。



しばらく山道を歩いていたが、とくに何の案内もないので下りることにした。



再び岩坂門跡付近まで戻り、その周辺を歩いてみる。

高鍋藩領の境界に建てられていた二本の石柱。
左は佐土原藩との境にあったもの。
右は延岡藩との境にあったもの。

【領国境標柱】

明治24年(1891)に秋月種樹の住居である萬歳亭が建てられた。
その際、掘られたのではないかと考えられている井戸。
その後も藩主やその一族が、昭和の初めまで使用していたとのこと。

【御殿井戸】

井戸のすぐ側には、刀工鍛冶場を復元した建物があった。
秋月家のおかかえ刀工師は三家あり、いずれも岩下姓で、
初代藩主・秋月種長により、筑前から呼び寄せられたということ。
内部は刀工師の人形によって、鍛冶場が再現されていた。

【刀工鍛冶場】

萬歳亭(ばんざいてい)は秋月種樹の住居として、明治24年に建てられた。

【萬歳亭】

昭和17年に現在歴史資料館のある場所に秋月邸が新築されたことにより、
秋月種英氏の書斎として使用された。

【萬歳亭内部】

【歴史資料館】

ここで高鍋城祉の見学は終えようと思ったが、
本丸跡にぽつんと一つあった、多分石垣の一部であろう石のことが気になったので、
岩坂門跡の石垣をよく見てみた。



所々に本丸の石と同じ、矢穴技法で割られた跡が見られた。

【岩坂門跡の石垣の一部】

ちょうど昨日まで、ここ高鍋城址では灯篭祭りが開催されており、
周辺は約13000基の灯篭の灯りによって、幻想的な光景がひろがるとのこと。

この灯篭祭りは、
高鍋藩の全盛期を築き、江戸時代の名君とされる第七代藩主・秋月種茂を偲び、
種茂の創設した藩校 『明倫堂』 の教えに明かりを灯す・・・
という目的で始まったものらしい。

ポスターやHPでみる、灯篭祭りの情景はとてもきれいなものだったので、
是非一度、見てみたいと思った。

高城址(宮崎県)

2010-10-12 | 城(城址)歩き
戦国時代に大友軍(豊後)と島津軍(薩摩)が戦った 『耳川の戦い』。
その激戦で島津軍の前線の拠点となった高城の城跡を見たくなり、
10月11日、宮崎県木城町(日向市の隣)へと向かった。

宮崎県にある城跡といえば、飫肥城と高鍋城くらいしか印象がなかったが、
耳川の戦いでは、高城は重要な役割を果たした。

大分~宮崎間の最短コースは高速道路が通ってなく、一般道それも一本道になっている区間もあるため、
所要時間の約3時間がとても長く感じる。

古戦場となる耳川を通過。
宮崎県東臼杵郡から宮崎平野を流れ、日向市に到り日向灘へと流れこむ。
美々津川とも呼ばれる。

耳川の戦いでは、敗戦を喫した大友軍の兵の血で赤く染まったといわれる。

【耳川】

天正5年(1577)、薩摩の島津家16代当主・島津義久は、日向を統治する伊東義祐を追放。
伊東氏は豊後の大友宗麟を頼り、大友氏は3万の軍勢を日向に派遣する。

日向に侵攻した大友軍は次々と城を攻略。
日向北部を流れる耳川まで達した。

一旦、豊後へ兵を退いた大友軍は、再び倍の軍勢で日向へ侵攻。
耳川を突破した大友軍は、高城近くまで達した。

【高城祉遠景】

高城址は城址公園となっており、公園入口と書かれた看板から入った。
さらに進むと公園ゲートがあり、整備された駐車場があった。

【公園ゲート(第6空堀跡)】

広めの駐車場内には古墳があった。

横穴式石室のある永山古墳。
主に朝鮮半島から製造法が伝わったとされる須恵器(すえき)などが発掘され、
軍事的要素をもつ鉄器、馬具、鉄鏃、直刀なども発掘されたことから、
被葬者は、軍事的な力を持つ豪族である可能性が考えられるとのこと。

【永山古墳の横穴】

同じく駐車場内には城址の図があった。
それによると、
公園入口の看板があった所が第7空掘跡、
公園ゲート下が第6空堀跡になる。

下図より、この先、順に第5~第1空堀跡があるようだ。
公園手前にも駐車場があるようなので、そのまま車で進んだ。



すぐの場所に、水分神社があった。



天正6年(1578)、大友軍は高城を攻撃。
しかし、島津義久の末弟・家久の援軍の協力もあり、
当時の城主・山田有信はわずかな兵力でこれを防いだ。

さらに救援依頼を受けた島津義久が進軍。
途中、弟の義弘らと合流し、4万の軍勢が高城近くの佐土原城に到着した。
そして義弘率いる別働隊が、高城を包囲する大友軍を撃破。
大友軍からの停戦申し入れを受諾した。

しかし、戦いの続行を主張する大友配下の武将達が再び島津軍を襲撃。
義弘率いる別働隊を退却させるも、義久率いる本隊からの攻撃を受け、総崩れとなった。
この時点で、大友軍は多数の重臣と約半数の兵力を失い、
以降、衰退の一途をたどることとなった。

城山公園に近い2つ目の駐車場に車をとめた。
水分神社からここまで、4つの空堀跡を通過。
それぞれには石の欄干が架かっており、ここから覗き込むと、各空堀の様子が見れる。

公園側からみた下の写真は、手前の欄干が第2空堀跡。 奥が第3空堀跡。



【空堀跡】

城山公園は城の本丸にあたる場所のように思えるが、
案内板には 『東側主郭と考えられる曲輪』 と書かれてあった。

ここには櫓風のメロディー時計台が建っていた。
平成4年、この時計台を建設する際に発掘調査が行われ、
竪穴状の遺構のほか、杯、皿、青磁器、陶器などが発掘されたとのこと。
これらの遺構、遺物は戦いが繰り広げられた時代のものに該当するらしい。

【時計台】

標高60mにあたる場所にある高城城址は、三方が崖となる自然の地形を利用した城で、
舌状に細長く伸びた台地にある。
周囲は平地になっているので、とても見晴らしがいい。



本丸西側のみが緩やかな斜面になっているため、7つの空堀で防御。
こちら時計台下、南側斜面には帯曲輪がみれる。

【南側斜面の曲輪】

時計台は展望台となっており、周囲の地形がよくわかる。

【時計台からの景色・南側①】

南方を流れる小丸川。
高城址は、小丸川とその支流である切原川に挟まれた場所にある。

【時計台からの景色・南側②】

城山公園内。
城主・山田有信ら島津軍は、この辺りに本部を置き、戦いに備えていたのだろう。

【時計台からの景色・城山公園】

耳川の戦いでの戦死者の供養塔。
今も山中や周辺の田畑の中に供養されずにある無縁墓が放置されており、
その供養のために建てられたもの。

【供養塔】

城山公園内には他に忠魂碑、高城での戦のことが記された石碑が建っている。

【忠魂碑】

【高城興亡記石碑】

天正15年(1587)、
再び大友氏は日向攻略のため、今度は豊臣秀吉を頼り、秀吉は弟の秀長を派遣する。

秀吉軍は根白坂で島津軍と激突。
島津軍は敗れ降伏するも、高城城主・山田有信は開城を拒んだ。
そのため秀長率いる15万の大軍に高城は包囲され、猛攻を受ける。
しかし、有信はわずかな戦力でこの攻撃をも防いでみせた。

結局、島津義久の説得に応じ、有信は子の有栄を人質に差し出し降伏する。
(1609年、有信死去の際は主君・義久は有信の棺の前で自ら焼香し、その死を惜しんだと言われている。)

その後、秀吉の九州平定により、高城は秋月氏の領するものとなるも、
元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

今では小さな公園となった高城だが、
2度の大きな合戦を耐えた堅固な砦として、
また、それを守り抜いた名将・山田有信の名とともに強く印象に残った。