城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

人吉城址(熊本県)

2010-09-21 | 城(城址)歩き
八代城址から約1時間、熊本県人吉市の人吉城址に着いた。

この城はもとは平氏の代官がいた城だったが、
建久9年(1198)に人吉荘(荘園)の地頭となった相良長頼が城主となった。
城の修築の際、三日月の文様のある石が出土したため、別名・三日月城または繊月城とも呼ばれる。
室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、さらに芦北・八代・薩摩方面へと進出し、
戦国大名として勢力を拡大する。

駐車場から近かったこともあり、最初に来たのは清兵衛門跡。



第21代・相良頼寛の家老・相良清兵衛(犬童頼兄)は主君22,000石に対し、8,000石をも領していた権力者だった。
そのため横暴な振る舞いが多く、相良家ではこの権力を制しきれず、
幕府に対して罪状をあげて訴え出た。
その結果、清兵衛は幕府により津軽藩へ追放される。

その際、人吉で留守居をしていた清兵衛の養子・田代半兵衛は、
主君への仕打ちに対し不平を抱き、清兵衛の屋敷(御下屋敷)に閉じこもって反抗する。

藩は屋敷を焼き討ちにし、清兵衛の一族全員が討ち死に、または自害し、121名が死亡する。
これを 『御下の乱』 という。

清兵衛門から入ると相良神社がある。
てっきりここが清兵衛屋敷かと思いきや、ここではない別の場所で、
資料館の地下に清兵衛屋敷の地下室の遺構があった。

【相良神社】

神社から少し歩き、御館跡へ。

【御館跡近くの石垣】

二ノ丸、三ノ丸の西側麓に位置する代々の城主の館跡。

【御館跡】

御館の裏口にあたる場所。 堀合門が見える。

【御館跡・堀合門付近】

堀合門は御館の北側に位置する裏門になる。
明治4年(1871)の廃藩置県後、城外の士族である新宮家に移築され、
人吉城唯一の現存する建物として、市の有形文化財に指定されている。

門跡の発掘調査では、門柱を建てた2つの礎石跡とその両側にあった排水溝とが確認されている。
この門は以前の位置での発掘結果や移築された門、絵図に描かれた姿をもとに、
平成19年に塀や排水溝とともに復元された。

【堀合門】

堀合門の横の草地には米蔵跡がある。
西側に大村米蔵跡、東側に欠米蔵跡がある。
ともに瓦葺で、4間×10間の長い建物だった。
発掘調査では、御用米、免田納米、上村納米と記された木札が出土された。

排水溝も復元されている。

【大村米蔵跡・欠米蔵跡】

文久2年(1862)に城下町の鍛冶屋から出火があり 『寅助火事』 と呼ばれる大火となった。
御館北辺の石垣上には長櫓があったが、この火事により焼失した。

翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くし、
その石垣の上端の部分の石をはね出す 『武者返し』 と呼ばれる突出部を付けた。

【御館北辺の石垣】

この工法は西洋の築城技術で、五稜郭(北海道)や龍岡城(長野県)などの西洋式城郭で採用されているが、
旧来の日本の城郭で採用されたのは、ここ人吉城のみであるらしい。

【武者返し】

武者返しの石垣の正面にある水ノ手門跡。

慶長12年(1607)から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。
水運を利用するため、川に面した石垣には7つの船着場が造られたが、
その中で最大のものが水ノ手門となる。

【水ノ手門跡①】

当時の水ノ手門はこのような様子だった。

【水ノ手門の再現模型写真】

球磨川に架かる水ノ手橋からみた水ノ手門跡。

この門は寛永17年(1640)頃から幕末まで、
球磨川に面する城門だった。

【水ノ手門跡②】

間米蔵(あいだこめぐら)は、大村米蔵、欠米蔵と同じく切妻造りの瓦葺きの建物。
水ノ手門西側にあった間村(あいだむら)の年貢を納めたと考えられる蔵。
この蔵も文久2年(1862)の寅助火事で焼失した。
その後、再建されるも明治初期の払い下げにより解体された。

【間米蔵跡】

左手前は間米蔵跡。 右は武者返しの石垣。
左へ進むと水ノ手門跡があり、
奥へ進むと堀合門、大村米蔵跡、欠米蔵跡がある。
その更に奥へと進む。



御下門は 『下の御門』 とも呼ばれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸への登城口に置かれた門となる。

【御下門跡①】

大手門と同じく櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)、桁行10間(20m)の櫓を渡し、
その中央下方3間分を門としていた。

【御下門石垣】

門を入った場所には出入り監視のための門番所があった。

【御下門跡②】

石段を上がって行く。



石垣が見えはじめる。 ここは中ノ御門跡。
この門も櫓門式となっており、見張りのための番所が置かれていた。

【中ノ御門跡の石垣】

【三ノ丸跡石垣】

天正17年(1589)第13代当主・相良長毎(ながつね)により、近世城としての築城が始まる。

ここ二ノ丸は、城主の住む御殿が建てられた城の中心となる場所だった。
御殿は北側を正面とするよう配置され、建物は計6棟からなった。
建物はすべて板葺で、廊下や小部屋でつながり、中庭が造られていた。

周囲の石垣上には瓦を張り付けた土塀が立ち、北東部の枡形には中ノ御門があり、他に十三間蔵などがあった。
北辺には御殿から三ノ丸へ下る 『埋御門』(うずみごもん)が、土塀の下に造られていた。

【二ノ丸跡】

二ノ丸から三ノ丸を時計回りに見渡す。

三ノ丸は二ノ丸の北・西部に広がる曲輪で、於津賀社(おつがしゃ)と2棟の塩蔵、
中ノ御門近くに井戸と長屋を配置するのみで、大きな広場があるだけだった。

【三ノ丸跡】

周囲には当初から石垣は造られず、自然の崖を城壁としており、『竹茂かり垣』 と呼ばれる竹垣で防御している。
これはこの城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐためでもあった。

【三ノ丸跡/塩蔵跡・於津賀社跡方面】

【三ノ丸跡/井戸跡辺り】

二ノ丸から見た本丸石垣。

【本丸石垣】

二ノ丸から本丸へ、石の階段を登る。

【本丸へ】

本丸ははじめ 『高御城』(たかおしろ) と呼ばれていた。
位置的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、
寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、歴代藩主の位牌が安置された。
他にも御先祖堂、山伏番所、時を知らせる太鼓屋などがあった。

礎石跡は二階建ての護摩堂のもの。
中世には 『繊月石』 を祀る場所であったように、主に宗教的空間として利用されていた。

【本丸跡】

本丸はそれほど広くはないが、二ノ丸、三ノ丸の広さには驚いた。
何もない広場だからそう感じたのかもしれないが、人吉城は想像していたよりも大きかった。
特に二ノ丸からの眺めがよく、一休みしていつまでも眺めていたい景色だった。

本丸から再び来たコースを下り、御下門跡から出た。(本丸へ登城するにはこの門から入るしかない)
駐車場に戻る際、御館への入口となる石橋をみた。

ここは御館の南側にある正面入口となる。
溜池に架かる石橋を渡った所に本御門が建ち、その内側右手に門番所を置いて、出入りの監視をしていた。

【御館御門橋】

車を歴史館駐車場まで移動し、大手門跡付近の櫓を見物する。

胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所だったので、
石垣の上に櫓を渡し、下に門を設けた。
大手門櫓は正保年中(1644~1648)に建てられ、享保5年(1720)に造り替えられ、
明治初期の払い下げで撤去された。

【大手門跡】

城の正面口である大手門脇にある長屋風の櫓は多聞櫓。
江戸時代前期の1640年代に建てられ、宝永4年(1707)の大地震で傾いたため修理されている。

【多聞櫓①】

幕末には 『代物蔵』 として使用され、寅助火事でも焼失を免れたが、
廃藩置県後の払い下げで撤去された。

【多聞櫓②】

建物は石塁に合わせ鍵形となっており、梁間2間(4m)、桁行25間(50m)で、
瓦葺の入母屋造りの建物となっている。

【多聞櫓③】

中は見学できるようになっている。
廊下があり、3部屋に分かれている。

【多聞櫓内部】

角櫓は胸川が球磨川に合流する、人吉城北西隅の要所に建てられた櫓。
元は藩の重臣・相良清兵衛の屋敷地だったが、寛永17年(1640)の御下の乱で屋敷は焼失。
直後に櫓が建てられた。
瓦葺きの入母屋造りで、梁間3間半(7m)、桁行11間(22m)。
櫓は文久2年(1862)の寅助火事でも焼失せず、明治初期の廃藩置県で払い下げられ撤去された。

【角櫓】

御下の乱で死亡した清兵衛一族の死体は筏(いかだ)に積まれ、
矢黒の亀ヶ淵の川原に埋葬され、この供養碑が建てられた。
昭和48年に河川改修のため、現在の場所に移転された。

【御下の乱供養碑】

角櫓(手前)、長塀、多聞櫓(右奥)。
いずれも平成5年に復元された。



明治10年の西南の役では、人吉隊と官軍との激戦の舞台となった。
幾度の戦火、災害に耐えた城跡には色んなドラマがあった。

八代城址(熊本県)

2010-09-20 | 城(城址)歩き
9月19日には熊本県の八代、人吉へ城跡を見に行った。
別府ICから八代市までは高速道路を使って3時間半くらいかかった。

八代城址は今は本丸と北ノ丸の石垣のみが残っており、周囲を水掘が囲んでいる。

小西行長が南肥後の拠点として築いた麦島城は、元和元年(1615)の一国一城令後も存続が許された。
しかし、元和5年(1619)に地震によって倒壊。
当時、熊本藩主だった加藤忠広(清正の三男・二代目熊本藩主)は幕府の許可を得て、
城代・加藤正方に命じ、新たに城を築く。 これが現在の八代城となる。
以降、明治維新まで肥後国の一国二城体制(もう一つは熊本城)が続くことになった。

城址周辺は車で簡単に1周できた。
城跡は城址公園となっていて駐車場もあったので、結構楽に城歩きができた。

駐車場から一番近い、高麗門跡から入城した。

【高麗門石垣】

欄干橋は本来、木造の太鼓橋だったが、今はコンクリートの橋が架かっている。

【欄干橋跡】

ここは八代城本丸正門にあたる表枡形門の一ノ門があった場所で、
高麗門または欄干橋門とも呼ばれていた。



この枡形門は四方を石垣で囲み、2箇所に門を設けたもので、
高麗門を通り、右に直角に曲がった場所に二ノ門である頬当門があった。
このつくりは外部からの敵が直進して城内に入るのを防ぐ為のもの。

【高麗門枡形】

【高麗門跡石垣】

外に見えるのは八代市役所。

【城内からみた高麗門跡】

しばらく城内を歩くと、埋み門(うずみもん)跡があった。
この門は、本丸から北ノ丸へと通じる裏枡形門の二ノ門となる。
両側の石垣の上に平櫓を渡し、その下部に門を設けていたとのこと。

【埋み門跡】

埋み門跡から一旦外へ。
ここには裏枡形門の一ノ門となる廊下橋門があった。

【廊下橋門跡】

再び城内に入ると大きな石垣があり、これが天守台となる。 高さは約12m。

【城内からみた大天守台】

本丸の北西隅に外観5層6階の大天守があり、
渡り廊下を通じて2層2階の小天守がつながっていた。

【小天守跡】

ということは、この通路が大・小天守をつなぐ渡り廊下があった場所なのだろう。

【渡り廊下跡】

大天守跡へ。

【大天守跡入口】

大天守は寛文12年(1672)に落雷によって焼失し、その後は再建されていない。



大天守跡の天守台石垣には 『天皇陛下御展望址』 と記された石碑が建っていた。



大天守台からみた水堀。

【水堀】

本丸石垣の上は通路になっていた。
右下は水堀、下を見るとかなり恐いのですぐに左側の階段から降りた。

【本丸石垣上通路】

しばらく本丸内を歩く。

寛永9年(1632)に加藤氏が改易されると、豊前小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、
その父・細川忠興(三斎)が八代城に入城する。
正保2年(1645)に忠興は没し、その時の藩主・細川光尚は八代城を細川家筆頭家老である
松井興長に預けた。
以降は松井氏が八代城を治め、八代の発展に尽くした。

明治3年(1870)に八代城は廃城となるも、
13年に南北朝時代の後醍醐天皇の皇子・懐良親王顕彰のため、本丸に八代宮を設置することとなった。

【八代宮】

舞台脇の櫓は梁間4間、桁行9間の建物で、再建後は桁行12間となったため十二間櫓ともよばれる。
二層二階の櫓で、東側の宝形櫓との間に三十間櫓とよばれる平櫓が続いていた。

かつて城内には能の舞台が設けられており、そこからこの名が付いたのだろうと思う。
能の舞台は、現在は相撲場になっている。

【舞台脇の櫓跡】

舞台脇の櫓跡からみた八代宮入口に架かる橋。

【舞台脇の櫓跡より】

宝形(ほうぎょう)櫓は方形櫓ともいい、屋根が仏事によくみられる、頂上に路盤宝珠をのせる宝形造りで、
この櫓の二階は仏殿になっていたものと考えられている。



磨(みがき)櫓は高麗門の南側にあり、本瓦葺の入母屋造りの屋根の平櫓だった。
南側の宝形櫓との間には、十六間の長さの総白塗込めの塀が続いていたとのこと。

ここから高麗門を見下ろすと、枡形の様子がよく分かる。



城内の相撲場を横切り、八代宮の入口に架かる橋から再び城外へ。
向かって左側にもう少し進んだ石垣上には、かつては月見櫓が建っていた。

【八代宮入口の橋】

堀沿いに歩くと大小天守台がみえてきた。

先ほどの本丸石垣上通路は、この写真の向かって右側の石垣の上。
上からだとかなり恐かったが、ここから見るとそれ程でもない。(笑)

そして中央が小天守台、奥が大天守台。

【大小天守台】

天守台上の左隅に天皇陛下御展望址の石碑が見える。

石垣の石材は石灰岩で、築城当時は白く輝いていたといわれる。
確かに何となく白い部分が残っていた。

【大天守台①】

松井神社側の交差点から見た天守台。

【大天守台②】

さらに歩いて廊下橋を通り過ぎた辺りから見た石垣。
かつて手前の石垣隅上には三階櫓が存在し、奥の廊下橋付近には北九間櫓があった。

【本丸石垣】

やはり城の東北方向は鬼門か、正方形が欠けたような形。

【本丸東北方向から】

ここで駐車場に戻り、城跡一周完了。

子供達が水掘を泳ぐ鯉にエサをあげていたり、部活の学生達がランニングをしていたり、
御宮では結婚式を挙げていたりと、八代城址は八代市民の憩いの場所でもあった。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★

【おまけ】

八代城址から人吉市へ向かった。 ここから一時間弱かかる。
ふと通り過ぎた看板に 『松中信彦記念館』 とあった。
ホークスファンならここを通り過ぎるわけにはいかないと思いUターン。(笑)

八代といえば、すぐにホークス秋山監督と松中選手を思い出す。
記念館は物産館と同じ敷地にあった。



記念のボールやWBC時に着ていたユニホーム、松坂との対決で折られたバットなど、
なかなか興味深いものが展示されていた。

入館者は自分ひとり。
もの好きもいるもんだと受付の(多分)地元のおじさんが話しかけてくれた。
しばらく話していて、八代城を見に来たことを話した。
多分、さらにもの好きな奴がいるもんだ。 と思われたに違いない。(笑)

熊本城②(熊本県)

2010-09-13 | 城(城址)歩き
昨年9月に熊本城に来たのをきっかけに、城歩きを始めて1年。
その時は時間もなく、天守閣近辺しか見れなかった。

今回美術館に来たこともあり、熊本城内をゆっくりと歩いてみようと思った。
ところが美術館を出る頃になって突然大雨が降り始め、しばらく館内で雨がやむのを待った。
15分位で雨はやみ、色々気にかけてくれた受付の人に礼を言って退館した。

今回は美術館から二ノ丸広場の周囲を歩き、入城することにした。

最初に二ノ丸御門跡。
かなりのどしゃ降りだったので、地面はぬかるみ、階段を滝のように水が流れてゆく。
熊本城は石垣が素晴らしいことで有名。
この門跡も立派な石垣だった。

【二ノ丸御門跡】

この門を出ると旧細川刑部邸が近い。

【二ノ丸御門跡石垣】

さらに二ノ丸広場周辺を歩くと、北大手門に着く。
ここから見えるのは戌亥(いぬい)櫓。
西出丸の北西に位置する隅櫓。 石垣の向こう側が西出丸。

【戌亥櫓①】

明治4年頃に取り壊されるも、平成15年に復元された。

【戌亥櫓②】

奥に見えるのが、宇土櫓と天守閣。

【戌亥櫓③】

二ノ丸広場から見る天守閣と宇土櫓。
ここからの景色は熊本城パンフレットの表紙にもなっている。

【宇土櫓と天守閣】

西大手門から入城。 奥に見えるのは元太鼓櫓。

【西大手門】

西出丸の長い石垣。 奥に見えるのは戌亥櫓。

【西出丸石垣】

西大手門前からみた堀。
北大手門辺りからずっと続く、ゴルフ場のような規模の大きな堀。

【西堀】

西向きの城である熊本城本丸全面を防備する西出丸には、
南・北・西の3つの大手門と隅櫓が設けられていた。

その中の西大手門から入城。

【西大手門】

西大手門に隣立する南大手門。
平成14年に復元された入母屋造りの櫓門。
3つの大手門中、最大の規模。

【南大手門】

この2つの門の間から奉行丸という曲輪が見れるが、今は柵が張られていた。
細川氏入国(1632)後、奉行所が置かれたことから、そう呼ばれていた。

この辺り、西出丸の門付近は観光客の往来が激しい。
防備の要である西出丸の規模もでかい。

そこから見える宇土櫓。
これもふつうの城では天守閣レベルの櫓。

【宇土櫓①】

頬当御門で、入城券を購入。 パンフレットなどもここでもらえる。
蛇の目の家紋の入った烏帽子形兜姿がかっこいい、城主・清正公が出迎えてくれた。(笑)

【加藤清正公?】

五郎の首掛石。
天草一揆の際、加藤清正に一騎打ちをいどみ、戦死した木山弾正の遺子と伝えられる横手五郎は、
父の仇を討つため、築城人夫となって城内に入る。
しかし素性がばれ、井戸掘りをしているときに生き埋めにされた。

これは築城当時に五郎が首に掛けて運んだと伝えられる石。
重さ1800キログラム。(!)

【首掛石】

宇土櫓は創建当時から残る唯一の多層櫓。
地上五階地下一階。 国の重要文化財。

天守西御丸五階櫓、平左衛門預五階櫓などと呼ばれていたとされる文献が残るが、
江戸中期頃から小西行長の宇土城天守を移築したものとされ、この名が付いた。
しかし後に調査の結果、この熊本城内で創建されたものであることがわかった。

往時の熊本城はこのような天守閣レベルの櫓が林立する、難攻不落の巨大要塞だった。
46000枚もの屋根瓦の中には、400年の歳月を耐えた加藤家の桔梗紋をもつ瓦も残されている。

【宇土櫓②】

宇土櫓内を見学。

戦闘時、押し寄せる敵に対して素早い対応をするため、
原則として櫓の城外側は廊下が設けられる。
このような廊下を 『武者走り』 という。

【宇土櫓内:廊下(武者走り)】

石落し。 石垣を登ってくる敵に対し、ここから石や煮えた油などを落とす。
小さな窓は鉄砲狭間。

【宇土櫓内:石落しと鉄砲狭間】

明治10年(1877)の城内火災では、西からの強風の風上に位置していたため、
幸運にも難を逃れた。

【宇土櫓内:部屋】

階段は急で狭い。
見学者は中央の手摺から右が登り、左が下り。

【宇土櫓内:階段】

鉄砲狭間。 ここから下に向かって鉄砲を撃つ。
他の城郭では三角形や丸形の狭間があるが、熊本城では主に長方形となっている。

【宇土櫓内:鉄砲狭間】

五階櫓や続櫓の窓の痕跡から、創建時には内側に板戸が付いており、
他の櫓の資料から、格子は漆喰塗りであった可能性があるということ。

【宇土櫓内:窓】

宇土櫓五階展望室から見た天守閣。



同じく展望室から見た景色。 南大手門、西大手門が見える。



宇土櫓を出ると、本丸内すぐに天守閣がある。
天守閣内は前回来たときに見学したので、今回はパスした。

【天守閣】

築城主・加藤清正は幾多の実戦経験から、籠城の際に備え、城内に120もの井戸を掘ったといわれている。
この井戸は深さ36m。
城内にはこの井戸の他に17の井戸が現存している。

【本丸井戸】

昨年来た時は本丸御殿の前にスロープがあり、そこから天守入口へと向かったが、
現在スロープはなく、御殿の下に通路ができていた。
そこから天守閣方面へと行かず、不開門方面へと向かった。

【本丸御殿地下通路:闇り通路】

不開門(あかずのもん)は昭和8年に国宝となり、戦後は国の重要文化財に指定されている。

古くから丑寅(東北)の方角は鬼門とされ、塞いでも開け放ってもだめということで、
築城の際に門は造るが、普段は閉鎖されていた。
そのため不開門と呼ばれ、死人や不浄物の搬出時にだけ用いられたという。

【不開門①】

外側に出てみると堅牢な石垣に囲まれた空間だった。

規模は小さいが、復元された南、西大手門と同じ形式の櫓門となっている。
往時の熊本城には18の櫓門が造られていたが、
江戸時代そのままに現存しているのは、この門のみとなっている。

【不開門②】

ここから城外を眺めると東竹ノ丸の平櫓が見えた。
この建物も国重要文化財。 安政7年(1860)に再建された。

【平櫓】

熊本城が築城された慶長年間(1596~1614)、櫓49、櫓門18、城門29がそびえていたが、
明治10年(1877)西南戦争勃発直前の火災により、大半が焼失した。

五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓はいずれも国重要文化財。
現在、熊本城には火災を免れた十三の建造物があり、そのすべてが重要文化財に指定されている。

【北十八間櫓】

東櫓御門跡からみた東十八間櫓。

【東十八間櫓】

しばらく歩くと国指定重要櫓群と書かれた看板がある。

東竹ノ丸の櫓群。
手前から、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓。

【源之進櫓:四間櫓:十四間櫓】

田子櫓と左に少しだけ見えるのが七間櫓。

【七間櫓:田子櫓】

東竹ノ丸からみた景色。 竹ノ丸へと下る通路が見える。
奥に見えるのは飯田丸五階櫓。

【東竹ノ丸より】

昨年は須戸口門から入城し、竹ノ丸を通ってここへきた。
二様の石垣は、加藤時代と細川時代の石垣の積み方の違いが比較できる。

その石垣の隅部、

向かって右は加藤時代のもの。
同じような大きさの石を積み重ねる 『重ね積み』

向かって左は細川時代のもの。
ほぼ長方形に加工した石を使用し、長い石と短い石を交互に積み重ねていく 『算木積み』

【二様の石垣】

石垣の平部、

手前は加藤時代のもの。
粗割りした不揃いの石をそのまま積み重ねる 『乱れ積み』

奥は細川時代のもの。
ほぼ同じ大きさに加工した石を横に並べて積み上げた 『布積み』

【二様の石垣と天守閣】

本丸南西に位置する飯田丸五階櫓。 築城当時に6棟あった五階櫓の1つ。
加藤清正重臣・飯田覚兵衛が預かっていた曲輪にあるため、この名が付いた。

石垣からの高さ14.3m。 この櫓も天守級の規模を誇る。

【飯田丸五階櫓】

入口を入るとすぐに本来の出入口である階段がある。
外から櫓へはここの石段を上がり、摺り戸を引いて入るつくりになっていた。

【飯田丸櫓内階段】

明治時代に取り壊されていたが、古写真などをもとに平成17年に復元された。
内部はまだ新しく、木の香りがした。

【飯田丸櫓内部】

櫓のすぐ脇にそびえる、推定樹齢800年、高さ30mのクスノキ。

【飯田丸クスノキ】

飯田丸から見た数寄屋丸二階御広間。 向かって左へ進むと西櫓門になる。

【数寄屋丸二階御広間①】

再び、二様の石垣前から・・・



数寄屋丸(すきやまる)へ。

二階御広間は一階が土間、二階には書院造りの座敷があり、
これは全国の城郭建築の中でもとてもめずらしいものらしい。

茶会、能、連歌などが行われた文化的遊興の空間であったといわれている。
復元の際、書院造りの建物、城内の櫓、絵図などが参考にされた。

【数寄屋丸二階御広間②】

遠めに数寄屋丸から見た天守閣もなかなかいい。
現在の天守閣は昭和35年(1960)に再建されたもの。

【天守閣】

宇土櫓と続く二階隅櫓。

再び入城した頬当御門から城を出た。

【二階隅櫓】

前回は主に天守閣の周辺しか見なかったが、
こうして城内を歩くと、壮大で見ごたえのある城だった。
特に石垣はどこを見ても素晴らしい。

まだ2、3見ていない建造物もあるし、城を外からも眺めてみたい。
熊本県民ではないけれど、九州一のこの城を誇りに思う。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★

【おまけ】

熊本城から車ですぐの桂花ラーメン。
熊本に来たら必ずここでラーメンを食べる。
スープはもちろん、麺が独特。
マイ定番! 美味しいよ~♪



他のメニューも食べたいけど、これは外せない・・・