大分県日田市には、日田三丘とよばれる、
日隈山(ひのくまさん)、月隈山(つきくまさん)、星隈山(ほしくまさん)がある。
いずれも川の侵食によって形成された残丘(侵食残丘、水蝕残丘)なので、
山とはいってもどれも小さな山だが、それぞれに城址がある。
5月の連休は、カラっと晴れた4日の日に日田へ出かけた。
まずは日隈山の日隈城址(ひのくまじょうし)に着いた。
現在ここは、亀山公園(きざんこうえん)となっており、
連休ということで、多くの家族連れやバーベキューを楽しむ人達が来ていた。
公園内には石造りの小川が流れており、庭園のような趣の公園だった。
この城は安土桃山時代、日田盆地を流れる三隈川(みくまがわ)沿岸に築かれた平山城だった。
江戸時代の洪水や火災などにより、
現在では 『豊西記』 などをもとに著した 『亀山抄』 などで当時の情景を伺えるのみとなった。
【亀山公園】
公園内に入ると、山の登り口に鳥居があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/3c/9560b7d58da71e59f38520a5369007e6.jpg)
『楠公九州宗社』 とある。
頂上にある日隈神社には、後醍醐天皇、楠正成らが奉られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/55/4e9078e5374b222b58b79f4d9b51f6b9.jpg)
階段を上ると公園内の賑やかさが遠くなり、少し落ち着いた空気になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/c2/1307f9d0faf16331098c608dc34092f1.jpg)
上りきったところに 『穴井六郎衛門の碑』 という大きな石碑が建っていた。
穴井六郎衛門とは、日田郡馬原村の民で、
延享の飢饉の際、代官の重税に苦しむ日田・玖珠の民を救うべく、
村民630人の血判状を持ち、命がけで江戸幕府に直訴したという人物。
帰郷後に捕らえられ、浄明寺の川原にて斬首されたという。
この碑はその穴井六郎衛門を偲び、大正14年に建てられたというもの。
【穴井六郎衛門碑】
先日、城井城址に行った時と比べ、山の緑も多くなり、とても爽やかな空気を感じた。
新緑がきれいで、ついつい何でもない場所でも写真を撮ってしまう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/d1/1e597928138499ca3f767f98d8a9a16c.jpg)
公園内には、イチイガシ、ムク、エノキなど、
数百年の樹齢をもつ大木が生い茂っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/1f/3d240044433f2dceabef7107313db3c0.jpg)
新緑の並木道は、城の二段の腰曲輪となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/0e/79356892bb4991d48f8a317d07473e32.jpg)
日田の地では、早くから俳諧がさかんに行われていた。
江戸終末に至るまで、多くの俳人を輩出しており、
その中でも傑出した岩崎魚将、井上柿巷、古賀晨生ら三人の句が刻まれた石碑があった。
【近代三俳人句碑】
山頂に近い、ここも曲輪らしき山道。
この城は山頂本丸から段状に二ノ丸と三ノ丸がある、梯郭式平山城であったといわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/0b/c3f66e0cb8266838c0bbdb871e7b6817.jpg)
山頂の日隈神社に着いた。
日隈城祉と記された石塔がある。
ここが城の本丸ということになるだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/d9/d0e7f2b211b1580f6da56658bb9bc91b.jpg)
文禄3年(1594)、
朝鮮出兵時の失態により、改易処分となった豊後当主・大友吉統に代わり、
蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として入封されてきた、
宮城豊盛(宮木長次郎、長次ともいわれる)によって城は築かれた。
当時、日隈山一帯を境内としていた真光寺を麓に移して築かれ、
商家や市を田島村(現日田市大原八幡宮付近)から竹田村(現日田市隈町付近)に移し、
城下町を形成した。
慶長元年(1596)には毛利高政が移封され、城の増築を施した。
高政は大坂城築城で石垣奉行を務めるなど、築城名人としても知られた人物。
望楼式五層六階の天守、三層の月見櫓などが建てられたといわれている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦時、
東軍勝利を知った後も、当時の中津領主・黒田如水は九州の西軍方を攻め続けた。
如水の重臣・栗山備後は、高政の角牟礼城(現玖珠郡玖珠町)とここ日隈城に進軍する。
しかし、すでに高政が東軍に寝返っていたことから、難なく和議が成立。
城は開け渡され、一時、栗山氏が日田郡を治めることとなった。
慶長6年(1601)、小川光氏(みつうじ)が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封となる。
城は再び毛利高政の預かりとなるが、
翌年、 高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなった。
元和2年(1616)以降、一国一城令により、この城も寛永年間(1624~1645)に破城したとされるが、
貞享元年(1683)の城としての残存を意味する記述もあるため、定かではない。
【日隈神社】
同じく敷地内にある、松方神社跡。
明治元年(1868)、初代日田県知事となった松方正義氏は豆田町の整備を行い、
孤児収容所として養育館を創設。 (一説には我が国の孤児院発祥の地といわれる。)
その事業は全国的にも注目を集め、その後、明治政府の要人として活躍。
のちに第4代内閣総理大臣となった。
後世の松方氏を慕う日田郡民により、
大正13年(1924)、この場所に生祠を建て、経済・養蚕・家内繁盛・子宝の神として称えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/b7/416d8c680a6d5f0da0305e9d5d956382.jpg)
何ヶ所かに大きな石灯篭がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/f9/804ac503d41bb117c487bfd4b8367b3f.jpg)
山を下り、いったん公園の外に出た。
ツツジがきれいに咲いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/4a/fa5f7ba04c6cd38291475cd757180464.jpg)
また別の鳥居から入ってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/58/448882a1e9e7f5ce8432589956d9edaf.jpg)
水天宮。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/4f/9c02d31411418df438cb2a10d354f29f.jpg)
大手門跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/6f/13924ffa6831d4cd4ba5a21537f0d11c.jpg)
現在、保存されている遺構は、唯一ここに枡形の石垣が残るのみ。
当時の城の詳しい様子などは、ほとんど分かっていないとのこと。
【大手門跡・石垣】
【大手門跡・枡形】
大手門跡から三隈川沿いを歩いた。
三隈堰と島内堰によって、歩道に溢れんばかりの水が満々と湛えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/c9/22ff1adf0465db8f74ba487b733fa44b.jpg)
こちらは日隈山、南東方向の入口。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/96/8bc0c1d4427959595f60811a6c441d1f.jpg)
石造りの庭園のような・・・なかなか趣のある入口となっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/29/9312376a623449363a74d3a645f85862.jpg)
その入口付近の三隈川の流れ。
三隈川は、もとは日田川とよばれていたが、
日隈山、月隈山、星隈山の間を流れていることから三隈川とよばれるようになった。
日田盆地には、この三山以外にも、石井町に隈山という残丘もある。
関ヶ原合戦時の資料などを読むと、黒田軍が落としたこの辺りの城の名が、隈城となっているので、
この隈山にあった城なのではないか・・・と思ったが、
日隈城を隈城ともよんでいたらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/3c/84913d5483989e7614532043a4f9ba85.jpg)
ここから対岸へ、橋が架かっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/c3/6c0e74477ab77dcf00a2af072f51e095.jpg)
木の橋から、この 『緑橋』 へと続いている。
【緑橋】
緑橋を渡りきった場所は、右岸・大分県日田市の隈町(くままち)の一画。
後ろには川を渡る舟が着く、舟着場があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/31/671daa9529e750d50481f2b92be54b86.jpg)
再び、南東入口から日隈山に入った。
三隈川から、北へと流れる支流・庄手川へと続く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/f2/128ef08e552a7533514e9d5f980c572e.jpg)
その緩やかな流れに沿って歩いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/56/9de35e79721d8fc71bd50ba9f9ffd07d.jpg)
稲荷神社。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/fd/7d6e94dcc04b7e517cc903b2c64e360d.jpg)
稲荷神社から続く壁面には、奇岩が露出している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/73/310d098469653b6b9cf8ede5f984a7f5.jpg)
公園に戻った場所に、大きな石の灯篭があった。
これで日隈山をぐるりと一周したことになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/aa/d0bb6c3e29817f291acc27ee37663512.jpg)
北東方面からみる日隈山。
【日隈山(日隈城祉)】
日隈山の対岸を歩いてみると、汲場(くんば)とよばれる場所があった。
昭和初期頃まで近辺の人々が使用した、共同の洗い場だということ。
かつてはこのような場所がたくさんあったらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/72/808d2edd49ab28c90be301c1bf812c36.jpg)
川沿いの歩道の案内板には、
~日隈山は三隈川を分流させており、ここに立てば川の流れの中心に立つ心地がする~
と書かれてある。
豊富な水と緑の情景が美しい城址だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/49/148bb5d167ec6e98b350af64fdd58720.jpg)
次は星隈城祉(ほしくまじょうし)へと向かった。
日隈城祉(亀山公園)から車で15分位だったと思う。
国道386号沿いに、こんもりとした木の生い茂った丘が見えた。
【星隈山(星隈城祉)】
5~6台分だったと思う・・・小さな駐車場があった。
頂上まで上れる石段を上った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_gaan.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/namida.gif)
・・・ 足元をかなり注意しながら、頂上に着いた。
写真は撮らなかったが、小屋のような八幡社があった。
ここが一応、城の本丸ということになるだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/14/8cb717d07b49c8f04f426ef0c91280c2.jpg)
石塔や祠がいくつか建っていた。
左は星隈公園記念碑。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/dc/00c7fde6dcea5261c23000a20cf1f226.jpg)
慶長6年(1601)、小川光氏(みつうじ)が日田北部の領主となり、
月隈山に築城する際、ここに一時の仮の城を置いたといわれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/be/d288a199d745740baaf7fb808301f15b.jpg)
堀切跡 ・・・か?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/ff/0c0862b5081d64510e300b16a0e877a9.jpg)
上ってきた石段とは別の石段を下りた。
目の前は竹林になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/92/f5c8cb8d9b8fd8c7f2628b6d7dc8cbab.jpg)
小さな祠があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/b2/83fa400d2e33809003f4f629854b69eb.jpg)
別方向にも行けたが、特に何もなさそうだった。
山を下りた場所に鳥居があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/a8/725b2cdbc1c7eeb351030b84857e9a92.jpg)
この星隈城祉は日田盆地の北を流れる花月川と、
南を流れる三隈川との合流点にある。
【花月川】
日田盆地の西の入口に位置し、
三隈川の流れは日隈城祉へ、
花月川の流れは、これから向かう月隈城祉へと流れる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/d3/df6c48bc2a6342c4c653cda82a815b8c.jpg)
別の方向からみた星隈山。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/e0/dc820f770f0bbefa8312a94ac23e3c68.jpg)
城の遺構は何も残っていなかったが、
山の周辺には、あまり建物が建っていないため、
かつての城のたたずまいは何となく想像できた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/89/9557d05df495c40749e54cc17680e8a1.jpg)
日田三丘、最後は月隈城祉(つきくまじょうし)へと向かった。
到着すると、ここも人が多かった。
駐車場は広かったので、少し待つととめることができた。
小さな公園があり、復元された白壁の石垣がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/6f/feb0157489e6e6de17536aea6a60c0af.jpg)
石垣に沿って歩き、右へ曲がると水堀があった。
【水掘】
城祉入口が見えてきた。
奥は高校野球で有名な日田林工。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/32/760ec323747b294b260b06570b1d04c4.jpg)
月隈城祉(月隈公園)入口。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/a7/4405dc3a931edc05a42aa6eff42f0c37.jpg)
入口を入ってすぐ、月隈神社の鳥居がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/1d/3acc6169c4f2ae11f91c86362a78c1ef.jpg)
鳥居の右手にある公園は、城の三ノ丸にあたる。
ゲートボール場として使用されているようだ。
【三ノ丸跡】
慶長6年(1601)、日田代官・小川壱岐守光氏により、城は建てられた。
この時、月隈山に建てられたこの城は、丸山城とよばれた。
元和2年(1616)には美濃の大垣城より、石川忠総が入封。
丸山城を改築し、永山城とした。
その時、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町と改名した。
寛永10年(1633)、中津藩の預かりをへて、幕府直轄領となる。
寛永16年(1639)、小川正長・小川氏行が初代代官となり、永山城は廃城となる。
麓に日田陣屋(日田代官所)が置かれる。
(現在、陣屋跡は住宅地となり、遺構は残っていない)
江戸中期、揖斐政俊の時に西国筋郡代役所となる。
この郡代役所は、最後の西国筋郡代となった33代代官・窪田鎮勝によって、
幕府歩兵部隊の 『制勝隊』 が解散される、明治元年まで続いた。
鳥居から入ってすぐ目を引いたのが、山の壁面にある無数の横穴。
これは千数百年前の豪族の古墳だと考えられている。
(日下部氏の古墳だという見解もある)
【山腹壁面の横穴】
その横穴の上には、天守台らしき石垣が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/3f/10e796f2d7c72cf37f202bdf98357444.jpg)
文化14年(1817)、新たに日田代官となった塩谷正義は、
金比羅社の建立のため、この永山城祉を整備したところ、山腹にいくつもの横穴が発見された。
人夫に掘らせたところ、内部には古い人骨が散乱していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/c7/14cde5eec042b5d5e03d69de91a5eb4a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/2a/4e4d6c45bd26799be179050f4bae3b78.jpg)
代官はその骨を集めて山の下に改葬し、その上に 『帰安碑(きあんひ)』 を建てた。
この帰安碑の碑文は、江戸時代の儒学者・広瀬淡窓によって記されたもの。
淡窓は教育者、漢詩人でもあった。
ちなみに現大分県知事の広瀬勝貞氏は、淡窓の子孫だということ。
【帰安碑】
横穴墓は頂上近くまで続いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/bd/080ab709afdcec2d641f73726aa1e45f.jpg)
上りきった広場には、月隈神社があった。
ここは城の二ノ丸にあたる場所。
【月隈神社】
そして、本丸表門にあたる石垣がある。
この石垣は天守台だったともいわれる。
【本丸表門石垣①】
調査によると、1680年代に築かれたものとされている。
【本丸表門石垣②】
【本丸表門石垣③】
【本丸表門石垣④】
石垣の脇から本丸跡へと向かう。
樹齢150年(推定)のモミの木があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/34/6c7c602ae75f7b87a2d9b3907cc600fb.jpg)
本丸表門石垣の上。
櫓台とされていることから、櫓門だったのか?
また、それが天守だったかは分からないようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/a1/dc8d98355ac01625f2b6d65cba3b6906.jpg)
本丸跡。
奥にある高台が天守台だという説もある。
やはり、その方がしっくりくる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/27/93f26086b6daf7c5736b28e7f26ed548.jpg)
本丸表虎口付近にも石垣がある。
【本丸の石垣】
川の丸石を使用した、野面積みの石垣。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/6f/e37cca2277a85043153ade04ec853930.jpg)
最後に立派な石垣を見れたので、ちょっと満足した。
元来た道を下り、三ノ丸跡を通って、最初の復元された石垣の場所に出た。
今日の城歩き、3つの城祉では、
日隈城祉は、城の地形、自然に囲まれた環境、などが興味深く、
星隈城祉は、仮の城としての静かな佇まい、
月隈城址では、遺構を多く見ることができた。
3つの城祉はそれぞれ特色があり、とても面白い城歩きだった。
日隈山(ひのくまさん)、月隈山(つきくまさん)、星隈山(ほしくまさん)がある。
いずれも川の侵食によって形成された残丘(侵食残丘、水蝕残丘)なので、
山とはいってもどれも小さな山だが、それぞれに城址がある。
5月の連休は、カラっと晴れた4日の日に日田へ出かけた。
まずは日隈山の日隈城址(ひのくまじょうし)に着いた。
現在ここは、亀山公園(きざんこうえん)となっており、
連休ということで、多くの家族連れやバーベキューを楽しむ人達が来ていた。
公園内には石造りの小川が流れており、庭園のような趣の公園だった。
この城は安土桃山時代、日田盆地を流れる三隈川(みくまがわ)沿岸に築かれた平山城だった。
江戸時代の洪水や火災などにより、
現在では 『豊西記』 などをもとに著した 『亀山抄』 などで当時の情景を伺えるのみとなった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/57/734530465801d48d32ddd7ab72d6d44c.jpg)
公園内に入ると、山の登り口に鳥居があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/3c/9560b7d58da71e59f38520a5369007e6.jpg)
『楠公九州宗社』 とある。
頂上にある日隈神社には、後醍醐天皇、楠正成らが奉られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/55/4e9078e5374b222b58b79f4d9b51f6b9.jpg)
階段を上ると公園内の賑やかさが遠くなり、少し落ち着いた空気になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/c2/1307f9d0faf16331098c608dc34092f1.jpg)
上りきったところに 『穴井六郎衛門の碑』 という大きな石碑が建っていた。
穴井六郎衛門とは、日田郡馬原村の民で、
延享の飢饉の際、代官の重税に苦しむ日田・玖珠の民を救うべく、
村民630人の血判状を持ち、命がけで江戸幕府に直訴したという人物。
帰郷後に捕らえられ、浄明寺の川原にて斬首されたという。
この碑はその穴井六郎衛門を偲び、大正14年に建てられたというもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/1c/8805d4d9120684d9b8edd93d0869e28d.jpg)
先日、城井城址に行った時と比べ、山の緑も多くなり、とても爽やかな空気を感じた。
新緑がきれいで、ついつい何でもない場所でも写真を撮ってしまう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/d1/1e597928138499ca3f767f98d8a9a16c.jpg)
公園内には、イチイガシ、ムク、エノキなど、
数百年の樹齢をもつ大木が生い茂っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/1f/3d240044433f2dceabef7107313db3c0.jpg)
新緑の並木道は、城の二段の腰曲輪となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/0e/79356892bb4991d48f8a317d07473e32.jpg)
日田の地では、早くから俳諧がさかんに行われていた。
江戸終末に至るまで、多くの俳人を輩出しており、
その中でも傑出した岩崎魚将、井上柿巷、古賀晨生ら三人の句が刻まれた石碑があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ba/5fb81e8b3ea33fe368623d361fb6a6af.jpg)
山頂に近い、ここも曲輪らしき山道。
この城は山頂本丸から段状に二ノ丸と三ノ丸がある、梯郭式平山城であったといわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/0b/c3f66e0cb8266838c0bbdb871e7b6817.jpg)
山頂の日隈神社に着いた。
日隈城祉と記された石塔がある。
ここが城の本丸ということになるだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/d9/d0e7f2b211b1580f6da56658bb9bc91b.jpg)
文禄3年(1594)、
朝鮮出兵時の失態により、改易処分となった豊後当主・大友吉統に代わり、
蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として入封されてきた、
宮城豊盛(宮木長次郎、長次ともいわれる)によって城は築かれた。
当時、日隈山一帯を境内としていた真光寺を麓に移して築かれ、
商家や市を田島村(現日田市大原八幡宮付近)から竹田村(現日田市隈町付近)に移し、
城下町を形成した。
慶長元年(1596)には毛利高政が移封され、城の増築を施した。
高政は大坂城築城で石垣奉行を務めるなど、築城名人としても知られた人物。
望楼式五層六階の天守、三層の月見櫓などが建てられたといわれている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦時、
東軍勝利を知った後も、当時の中津領主・黒田如水は九州の西軍方を攻め続けた。
如水の重臣・栗山備後は、高政の角牟礼城(現玖珠郡玖珠町)とここ日隈城に進軍する。
しかし、すでに高政が東軍に寝返っていたことから、難なく和議が成立。
城は開け渡され、一時、栗山氏が日田郡を治めることとなった。
慶長6年(1601)、小川光氏(みつうじ)が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封となる。
城は再び毛利高政の預かりとなるが、
翌年、 高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなった。
元和2年(1616)以降、一国一城令により、この城も寛永年間(1624~1645)に破城したとされるが、
貞享元年(1683)の城としての残存を意味する記述もあるため、定かではない。
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同じく敷地内にある、松方神社跡。
明治元年(1868)、初代日田県知事となった松方正義氏は豆田町の整備を行い、
孤児収容所として養育館を創設。 (一説には我が国の孤児院発祥の地といわれる。)
その事業は全国的にも注目を集め、その後、明治政府の要人として活躍。
のちに第4代内閣総理大臣となった。
後世の松方氏を慕う日田郡民により、
大正13年(1924)、この場所に生祠を建て、経済・養蚕・家内繁盛・子宝の神として称えた。
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何ヶ所かに大きな石灯篭がある。
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山を下り、いったん公園の外に出た。
ツツジがきれいに咲いている。
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また別の鳥居から入ってみた。
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水天宮。
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大手門跡。
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現在、保存されている遺構は、唯一ここに枡形の石垣が残るのみ。
当時の城の詳しい様子などは、ほとんど分かっていないとのこと。
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大手門跡から三隈川沿いを歩いた。
三隈堰と島内堰によって、歩道に溢れんばかりの水が満々と湛えられている。
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こちらは日隈山、南東方向の入口。
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石造りの庭園のような・・・なかなか趣のある入口となっていた。
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その入口付近の三隈川の流れ。
三隈川は、もとは日田川とよばれていたが、
日隈山、月隈山、星隈山の間を流れていることから三隈川とよばれるようになった。
日田盆地には、この三山以外にも、石井町に隈山という残丘もある。
関ヶ原合戦時の資料などを読むと、黒田軍が落としたこの辺りの城の名が、隈城となっているので、
この隈山にあった城なのではないか・・・と思ったが、
日隈城を隈城ともよんでいたらしい。
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ここから対岸へ、橋が架かっている。
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木の橋から、この 『緑橋』 へと続いている。
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緑橋を渡りきった場所は、右岸・大分県日田市の隈町(くままち)の一画。
後ろには川を渡る舟が着く、舟着場があった。
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再び、南東入口から日隈山に入った。
三隈川から、北へと流れる支流・庄手川へと続く。
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その緩やかな流れに沿って歩いた。
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稲荷神社。
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稲荷神社から続く壁面には、奇岩が露出している。
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公園に戻った場所に、大きな石の灯篭があった。
これで日隈山をぐるりと一周したことになる。
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北東方面からみる日隈山。
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日隈山の対岸を歩いてみると、汲場(くんば)とよばれる場所があった。
昭和初期頃まで近辺の人々が使用した、共同の洗い場だということ。
かつてはこのような場所がたくさんあったらしい。
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川沿いの歩道の案内板には、
~日隈山は三隈川を分流させており、ここに立てば川の流れの中心に立つ心地がする~
と書かれてある。
豊富な水と緑の情景が美しい城址だった。
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次は星隈城祉(ほしくまじょうし)へと向かった。
日隈城祉(亀山公園)から車で15分位だったと思う。
国道386号沿いに、こんもりとした木の生い茂った丘が見えた。
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5~6台分だったと思う・・・小さな駐車場があった。
頂上まで上れる石段を上った。
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・・・ 足元をかなり注意しながら、頂上に着いた。
写真は撮らなかったが、小屋のような八幡社があった。
ここが一応、城の本丸ということになるだろう。
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石塔や祠がいくつか建っていた。
左は星隈公園記念碑。
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慶長6年(1601)、小川光氏(みつうじ)が日田北部の領主となり、
月隈山に築城する際、ここに一時の仮の城を置いたといわれている。
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堀切跡 ・・・か?
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上ってきた石段とは別の石段を下りた。
目の前は竹林になっている。
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小さな祠があった。
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別方向にも行けたが、特に何もなさそうだった。
山を下りた場所に鳥居があった。
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この星隈城祉は日田盆地の北を流れる花月川と、
南を流れる三隈川との合流点にある。
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日田盆地の西の入口に位置し、
三隈川の流れは日隈城祉へ、
花月川の流れは、これから向かう月隈城祉へと流れる。
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別の方向からみた星隈山。
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城の遺構は何も残っていなかったが、
山の周辺には、あまり建物が建っていないため、
かつての城のたたずまいは何となく想像できた。
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日田三丘、最後は月隈城祉(つきくまじょうし)へと向かった。
到着すると、ここも人が多かった。
駐車場は広かったので、少し待つととめることができた。
小さな公園があり、復元された白壁の石垣がある。
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石垣に沿って歩き、右へ曲がると水堀があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/7c/dd2f3ff03e2bf4a4bfc6ba6dc81e3be9.jpg)
城祉入口が見えてきた。
奥は高校野球で有名な日田林工。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/32/760ec323747b294b260b06570b1d04c4.jpg)
月隈城祉(月隈公園)入口。
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入口を入ってすぐ、月隈神社の鳥居がある。
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鳥居の右手にある公園は、城の三ノ丸にあたる。
ゲートボール場として使用されているようだ。
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慶長6年(1601)、日田代官・小川壱岐守光氏により、城は建てられた。
この時、月隈山に建てられたこの城は、丸山城とよばれた。
元和2年(1616)には美濃の大垣城より、石川忠総が入封。
丸山城を改築し、永山城とした。
その時、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町と改名した。
寛永10年(1633)、中津藩の預かりをへて、幕府直轄領となる。
寛永16年(1639)、小川正長・小川氏行が初代代官となり、永山城は廃城となる。
麓に日田陣屋(日田代官所)が置かれる。
(現在、陣屋跡は住宅地となり、遺構は残っていない)
江戸中期、揖斐政俊の時に西国筋郡代役所となる。
この郡代役所は、最後の西国筋郡代となった33代代官・窪田鎮勝によって、
幕府歩兵部隊の 『制勝隊』 が解散される、明治元年まで続いた。
鳥居から入ってすぐ目を引いたのが、山の壁面にある無数の横穴。
これは千数百年前の豪族の古墳だと考えられている。
(日下部氏の古墳だという見解もある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/26/b476a9da296ff9bdcf824a19778f0e32.jpg)
その横穴の上には、天守台らしき石垣が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/3f/10e796f2d7c72cf37f202bdf98357444.jpg)
文化14年(1817)、新たに日田代官となった塩谷正義は、
金比羅社の建立のため、この永山城祉を整備したところ、山腹にいくつもの横穴が発見された。
人夫に掘らせたところ、内部には古い人骨が散乱していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/c7/14cde5eec042b5d5e03d69de91a5eb4a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/2a/4e4d6c45bd26799be179050f4bae3b78.jpg)
代官はその骨を集めて山の下に改葬し、その上に 『帰安碑(きあんひ)』 を建てた。
この帰安碑の碑文は、江戸時代の儒学者・広瀬淡窓によって記されたもの。
淡窓は教育者、漢詩人でもあった。
ちなみに現大分県知事の広瀬勝貞氏は、淡窓の子孫だということ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/be/96ba4f7469e91668284e3bf9560ae48a.jpg)
横穴墓は頂上近くまで続いた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/bd/080ab709afdcec2d641f73726aa1e45f.jpg)
上りきった広場には、月隈神社があった。
ここは城の二ノ丸にあたる場所。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/a6/9e62b1d29d9fd626c15775ef29ff3c3b.jpg)
そして、本丸表門にあたる石垣がある。
この石垣は天守台だったともいわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/c6/e9350c02980f7cc7324871d9a5a51d0f.jpg)
調査によると、1680年代に築かれたものとされている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/dd/9da505288217cfbefa41cc70256577b1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/3b/ad485f22d1a74ca984f13e5b4c806802.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/c0/a1a86e10554574c96d1408924a9f238d.jpg)
石垣の脇から本丸跡へと向かう。
樹齢150年(推定)のモミの木があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/34/6c7c602ae75f7b87a2d9b3907cc600fb.jpg)
本丸表門石垣の上。
櫓台とされていることから、櫓門だったのか?
また、それが天守だったかは分からないようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/a1/dc8d98355ac01625f2b6d65cba3b6906.jpg)
本丸跡。
奥にある高台が天守台だという説もある。
やはり、その方がしっくりくる。
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本丸表虎口付近にも石垣がある。
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川の丸石を使用した、野面積みの石垣。
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最後に立派な石垣を見れたので、ちょっと満足した。
元来た道を下り、三ノ丸跡を通って、最初の復元された石垣の場所に出た。
今日の城歩き、3つの城祉では、
日隈城祉は、城の地形、自然に囲まれた環境、などが興味深く、
星隈城祉は、仮の城としての静かな佇まい、
月隈城址では、遺構を多く見ることができた。
3つの城祉はそれぞれ特色があり、とても面白い城歩きだった。