城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

日田三丘の城址(大分県)

2011-05-05 | 城(城址)歩き
大分県日田市には、日田三丘とよばれる、
日隈山(ひのくまさん)、月隈山(つきくまさん)、星隈山(ほしくまさん)がある。
いずれも川の侵食によって形成された残丘(侵食残丘、水蝕残丘)なので、
山とはいってもどれも小さな山だが、それぞれに城址がある。

5月の連休は、カラっと晴れた4日の日に日田へ出かけた。

まずは日隈山の日隈城址(ひのくまじょうし)に着いた。

現在ここは、亀山公園(きざんこうえん)となっており、
連休ということで、多くの家族連れやバーベキューを楽しむ人達が来ていた。
公園内には石造りの小川が流れており、庭園のような趣の公園だった。

この城は安土桃山時代、日田盆地を流れる三隈川(みくまがわ)沿岸に築かれた平山城だった。
江戸時代の洪水や火災などにより、
現在では 『豊西記』 などをもとに著した 『亀山抄』 などで当時の情景を伺えるのみとなった。

【亀山公園】

公園内に入ると、山の登り口に鳥居があった。



楠公九州宗社』 とある。
頂上にある日隈神社には、後醍醐天皇楠正成らが奉られている。



階段を上ると公園内の賑やかさが遠くなり、少し落ち着いた空気になる。



上りきったところに 『穴井六郎衛門の碑』 という大きな石碑が建っていた。

穴井六郎衛門とは、日田郡馬原村の民で、
延享の飢饉の際、代官の重税に苦しむ日田・玖珠の民を救うべく、
村民630人の血判状を持ち、命がけで江戸幕府に直訴したという人物。
帰郷後に捕らえられ、浄明寺の川原にて斬首されたという。

この碑はその穴井六郎衛門を偲び、大正14年に建てられたというもの。

【穴井六郎衛門碑】

先日、城井城址に行った時と比べ、山の緑も多くなり、とても爽やかな空気を感じた。
新緑がきれいで、ついつい何でもない場所でも写真を撮ってしまう。



公園内には、イチイガシ、ムク、エノキなど、
数百年の樹齢をもつ大木が生い茂っている。



新緑の並木道は、城の二段の腰曲輪となっている。



日田の地では、早くから俳諧がさかんに行われていた。
江戸終末に至るまで、多くの俳人を輩出しており、
その中でも傑出した岩崎魚将、井上柿巷、古賀晨生ら三人の句が刻まれた石碑があった。

【近代三俳人句碑】

山頂に近い、ここも曲輪らしき山道。
この城は山頂本丸から段状に二ノ丸と三ノ丸がある、梯郭式平山城であったといわれる。



山頂の日隈神社に着いた。
日隈城祉と記された石塔がある。
ここが城の本丸ということになるだろう。



文禄3年(1594)、
朝鮮出兵時の失態により、改易処分となった豊後当主・大友吉統に代わり、
蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として入封されてきた、
宮城豊盛(宮木長次郎、長次ともいわれる)によって城は築かれた。

当時、日隈山一帯を境内としていた真光寺を麓に移して築かれ、
商家や市を田島村(現日田市大原八幡宮付近)から竹田村(現日田市隈町付近)に移し、
城下町を形成した。

慶長元年(1596)には毛利高政が移封され、城の増築を施した。
高政は大坂城築城で石垣奉行を務めるなど、築城名人としても知られた人物。
望楼式五層六階の天守、三層の月見櫓などが建てられたといわれている。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦時、
東軍勝利を知った後も、当時の中津領主・黒田如水は九州の西軍方を攻め続けた。
如水の重臣・栗山備後は、高政の角牟礼城(現玖珠郡玖珠町)とここ日隈城に進軍する。
しかし、すでに高政が東軍に寝返っていたことから、難なく和議が成立。
城は開け渡され、一時、栗山氏が日田郡を治めることとなった。

慶長6年(1601)、小川光氏(みつうじ)が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封となる。
城は再び毛利高政の預かりとなるが、
翌年、 高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなった。

元和2年(1616)以降、一国一城令により、この城も寛永年間(1624~1645)に破城したとされるが、
貞享元年(1683)の城としての残存を意味する記述もあるため、定かではない。

【日隈神社】

同じく敷地内にある、松方神社跡

明治元年(1868)、初代日田県知事となった松方正義氏は豆田町の整備を行い、
孤児収容所として養育館を創設。 (一説には我が国の孤児院発祥の地といわれる。)
その事業は全国的にも注目を集め、その後、明治政府の要人として活躍。
のちに第4代内閣総理大臣となった。

後世の松方氏を慕う日田郡民により、
大正13年(1924)、この場所に生祠を建て、経済・養蚕・家内繁盛・子宝の神として称えた。



何ヶ所かに大きな石灯篭がある。



山を下り、いったん公園の外に出た。
ツツジがきれいに咲いている。



また別の鳥居から入ってみた。



水天宮。



大手門跡



現在、保存されている遺構は、唯一ここに枡形の石垣が残るのみ。
当時の城の詳しい様子などは、ほとんど分かっていないとのこと。

【大手門跡・石垣】

【大手門跡・枡形】

大手門跡から三隈川沿いを歩いた。
三隈堰と島内堰によって、歩道に溢れんばかりの水が満々と湛えられている。



こちらは日隈山、南東方向の入口。



石造りの庭園のような・・・なかなか趣のある入口となっていた。



その入口付近の三隈川の流れ。

三隈川は、もとは日田川とよばれていたが、
日隈山、月隈山、星隈山の間を流れていることから三隈川とよばれるようになった。

日田盆地には、この三山以外にも、石井町に隈山という残丘もある。
関ヶ原合戦時の資料などを読むと、黒田軍が落としたこの辺りの城の名が、隈城となっているので、
この隈山にあった城なのではないか・・・と思ったが、
日隈城を隈城ともよんでいたらしい。



ここから対岸へ、橋が架かっている。



木の橋から、この 『緑橋』 へと続いている。

【緑橋】

緑橋を渡りきった場所は、右岸・大分県日田市の隈町(くままち)の一画。
後ろには川を渡る舟が着く、舟着場があった。



再び、南東入口から日隈山に入った。
三隈川から、北へと流れる支流・庄手川へと続く。



その緩やかな流れに沿って歩いた。



稲荷神社。



稲荷神社から続く壁面には、奇岩が露出している。



公園に戻った場所に、大きな石の灯篭があった。
これで日隈山をぐるりと一周したことになる。



北東方面からみる日隈山。

【日隈山(日隈城祉)】

日隈山の対岸を歩いてみると、汲場(くんば)とよばれる場所があった。
昭和初期頃まで近辺の人々が使用した、共同の洗い場だということ。
かつてはこのような場所がたくさんあったらしい。



川沿いの歩道の案内板には、
~日隈山は三隈川を分流させており、ここに立てば川の流れの中心に立つ心地がする~
と書かれてある。

豊富な水と緑の情景が美しい城址だった。



次は星隈城祉(ほしくまじょうし)へと向かった。

日隈城祉(亀山公園)から車で15分位だったと思う。
国道386号沿いに、こんもりとした木の生い茂った丘が見えた。

【星隈山(星隈城祉)】

5~6台分だったと思う・・・小さな駐車場があった。
頂上まで上れる石段を上った。



・・・ 足元をかなり注意しながら、頂上に着いた。
写真は撮らなかったが、小屋のような八幡社があった。
ここが一応、城の本丸ということになるだろう。



石塔や祠がいくつか建っていた。
左は星隈公園記念碑。



慶長6年(1601)、小川光氏(みつうじ)が日田北部の領主となり、
月隈山に築城する際、ここに一時の仮の城を置いたといわれている。



堀切跡 ・・・か?



上ってきた石段とは別の石段を下りた。
目の前は竹林になっている。



小さな祠があった。



別方向にも行けたが、特に何もなさそうだった。
山を下りた場所に鳥居があった。



この星隈城祉は日田盆地の北を流れる花月川と、
南を流れる三隈川との合流点にある。

【花月川】

日田盆地の西の入口に位置し、
三隈川の流れは日隈城祉へ、
花月川の流れは、これから向かう月隈城祉へと流れる。



別の方向からみた星隈山。



城の遺構は何も残っていなかったが、
山の周辺には、あまり建物が建っていないため、
かつての城のたたずまいは何となく想像できた。



日田三丘、最後は月隈城祉(つきくまじょうし)へと向かった。

到着すると、ここも人が多かった。
駐車場は広かったので、少し待つととめることができた。

小さな公園があり、復元された白壁の石垣がある。



石垣に沿って歩き、右へ曲がると水堀があった。

【水掘】

城祉入口が見えてきた。
奥は高校野球で有名な日田林工。



月隈城祉(月隈公園)入口。



入口を入ってすぐ、月隈神社の鳥居がある。



鳥居の右手にある公園は、城の三ノ丸にあたる。
ゲートボール場として使用されているようだ。

【三ノ丸跡】

慶長6年(1601)、日田代官・小川壱岐守光氏により、城は建てられた。
この時、月隈山に建てられたこの城は、丸山城とよばれた。

元和2年(1616)には美濃の大垣城より、石川忠総が入封。
丸山城を改築し、永山城とした。
その時、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町と改名した。

寛永10年(1633)、中津藩の預かりをへて、幕府直轄領となる。

寛永16年(1639)、小川正長小川氏行が初代代官となり、永山城は廃城となる。
麓に日田陣屋(日田代官所)が置かれる。
(現在、陣屋跡は住宅地となり、遺構は残っていない)

江戸中期、揖斐政俊の時に西国筋郡代役所となる。
この郡代役所は、最後の西国筋郡代となった33代代官・窪田鎮勝によって、
幕府歩兵部隊の 『制勝隊』 が解散される、明治元年まで続いた。

鳥居から入ってすぐ目を引いたのが、山の壁面にある無数の横穴。
これは千数百年前の豪族の古墳だと考えられている。
(日下部氏の古墳だという見解もある)

【山腹壁面の横穴】

その横穴の上には、天守台らしき石垣が見える。



文化14年(1817)、新たに日田代官となった塩谷正義は、
金比羅社の建立のため、この永山城祉を整備したところ、山腹にいくつもの横穴が発見された。
人夫に掘らせたところ、内部には古い人骨が散乱していた。





代官はその骨を集めて山の下に改葬し、その上に 『帰安碑(きあんひ)』 を建てた。
この帰安碑の碑文は、江戸時代の儒学者・広瀬淡窓によって記されたもの。
淡窓は教育者、漢詩人でもあった。
ちなみに現大分県知事の広瀬勝貞氏は、淡窓の子孫だということ。

【帰安碑】

横穴墓は頂上近くまで続いた。



上りきった広場には、月隈神社があった。
ここは城の二ノ丸にあたる場所。

【月隈神社】

そして、本丸表門にあたる石垣がある。
この石垣は天守台だったともいわれる。

【本丸表門石垣①】

調査によると、1680年代に築かれたものとされている。

【本丸表門石垣②】

【本丸表門石垣③】

【本丸表門石垣④】

石垣の脇から本丸跡へと向かう。
樹齢150年(推定)のモミの木があった。



本丸表門石垣の上。
櫓台とされていることから、櫓門だったのか?
また、それが天守だったかは分からないようだ。



本丸跡
奥にある高台が天守台だという説もある。
やはり、その方がしっくりくる。



本丸表虎口付近にも石垣がある。

【本丸の石垣】

川の丸石を使用した、野面積みの石垣。



最後に立派な石垣を見れたので、ちょっと満足した。
元来た道を下り、三ノ丸跡を通って、最初の復元された石垣の場所に出た。

今日の城歩き、3つの城祉では、
日隈城祉は、城の地形、自然に囲まれた環境、などが興味深く、
星隈城祉は、仮の城としての静かな佇まい、
月隈城址では、遺構を多く見ることができた。

3つの城祉はそれぞれ特色があり、とても面白い城歩きだった。