城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

大野城址と水城址(福岡県)

2010-11-05 | 城(城址)歩き
11月3日、岩屋城祉をみた後は、
同じく四王寺山(しおうじやま)の一帯にある、大野城址を見物した。

大野城は朝鮮式山城で、今から約1350年前、天智4年(665)に築城されたとされる。
山の頂上域全体を囲むように土塁や石垣などの城壁を巡らせ、
尾根の部分は土塁、谷の部分は石垣を築いている。
城壁は総延長8Kmにも及び、途中4ヶ所に城門を設けた造りになっている。
その内側には、ほとんどが高床式倉庫の建物群があった。

【①大野城址と周辺の大宰府史跡図】

天智2年(663)、白村江(はくそんこう・現在の朝鮮半島・錦江近郊)の戦いで、
百済・日本の連合軍は、唐と組んだ新羅に大敗を喫した。
唐と新羅の侵攻を恐れた日本は、北部九州に城を築いて防衛ラインをつくる。

南方の基山には基肄(きい)城址があり、この大野城と同時に築城され、
前年に造られた水城(みずき)とともに大宰府を守る役目を果たした。

【岩屋城址からみた基山・矢印は基肄城址】

岩屋城址から、まず始めに着いたのは焼米ヶ原。
倉庫群跡(尾花礎石群)の周辺から、炭化した米が見つかったことからこの名が付いた。

【土塁上の山道】

【焼米ヶ原周辺】

城祉南側から北側へ。
最も観てみたかった百聞石垣。
林道を車で走っていると、道沿いにあった。

【百聞石垣】

大野城の城壁は、大半が土を高く盛り上げた土塁で囲んでいるが、
起伏の激しい地形のため、谷間は石を積み上げた石塁とし、
急斜面には石垣を用いた造りとなっている。



百聞石垣は大野城の北の要に位置し、全長150m以上、城内最大の規模を誇る。



石垣の上に行ける階段があり、それを登ってみた。



林道からみると、左手から右手へ上がっていくように石垣が伸びている。



外壁面の角度は75度前後あるらしい。



昭和48年の水害により、石垣の前を流れる川が氾濫。
土砂崩れも重なり、石垣は多大な被害を受けた。

復旧工事に併せて発掘調査を行うと、
石垣の基礎や川の中から城門の礎石と考えられる石材が発見された。

【百聞石垣の前を流れる川】

平成13年より、石垣保存のため、修理が始められた。
が、平成15年の集中豪雨により山林が崩壊。
これにより、石垣は再び甚大な被害を受ける。
その後、復旧に取り組んだ結果、現在のような姿によみがえったとのこと。

しばらく百聞石垣を眺めた後は、水城跡へと向かった。

水城(みずき)は天智3年(664)に造られた、古代の防衛施設で、
現在の大野城市と大宰府市にまたがって所在している。

【水城跡(①の図拡大)】

唐・新羅からの侵攻を恐れた日本は、博多湾近くにあった役所を内陸部、現在の大宰府市に移し、
その防衛のため、福岡平野の最も狭い場所に土塁と濠からなる水城を造った。

発掘調査の結果、長さ約1.2km、土塁の高さ8~9m、幅は最大80m、
濠の幅は60m、深さ約4mの規模であったと推定される。

【水城跡と周辺の遺跡図】

たどり着いたのは西門跡近くの土塁跡。
すぐ近くにJR鹿児島本線・水城駅があった。



駅の有料駐車場に車をとめ、この土塁周辺を歩いてみた。
ちょっとした広場があり、水城跡の説明板があったので便利だった。



小高い丘のようになっている上成土塁。

【水城土塁跡(上成土塁)】

登ってみると城址の石碑があり、土塁の上は歩けるようになっていた。



上成土塁を下り、広場になっている場所を歩いた。
ここは下成土塁ということになる。(写真の左側の林が上成土塁)



御笠川方面に歩いて行くと、西鉄大牟田線の線路がある。
(福岡方面⇔二日市方面)

【西鉄大牟田線】

再び、歩いてきた道を戻る。 下成土塁は緩やかな坂になっている。
(今度は写真の右側が上成土塁)

【水城土塁跡(下成土塁)】

町中のただの小高い丘のように見える水城の跡だったが、歴史的価値は高い。
大野城址とともに国の特別史跡に指定されている。



まだ水城跡全体の三分の一も見てないが、時間がなかったので次へ向かった。
西門跡、東門跡などはまたの機会に歩いてみたい。

岩屋城址(福岡県)

2010-11-04 | 城(城址)歩き
11月3日の文化の日。
福岡県の大野城址は以前から城歩きをしてみたい場所だったので、
この日は天気もよかったので出かけた。

現地に着くと登山コースになっているため、多くの登山者がいた。
車で山道を上っていると、道沿いに岩屋城址があったので、行ってみることにした。

本丸跡へ行くには、道路から少し山を登っていくことになる。

【岩屋城祉本丸への階段】

それほど登らないうちに、本丸跡(甲の丸)に着いた。

岩屋城は戦国時代に宝満城の支城として、高橋鑑種(あきたね)によって築かれた。
しかし、主である大友宗麟に叛き、城を追われる。
新たに城主となったのが、当時23歳の吉弘鎮理(しげまさ)で、後の高橋紹運である。

天正14年(1586)、39歳となった紹運は、北上する5万の島津軍と籠城戦を戦った。
圧倒的な数の島津軍に対し奮戦するも、徐々に本丸まで攻め込まれ、
城兵763名とともに自刃した。

このインパクトのある石碑を見ると、島津軍との戦いで籠城戦を挑み、
壮絶な死を遂げた紹運のイメージが浮かんでくる。

この石碑は、昭和30年に紹運の家臣の子孫によって建てられたということ。

【岩屋城祉石碑】

本丸跡には数人の登山者の人達がいた。

【本丸跡】

天気がよかったので、本丸からの見晴らしはとてもよかった。
手前、中心からやや右に大宰府政庁跡が見える。

【本丸跡からの景観】

本丸跡の近く、少し山を下ると高橋紹運とその勇士の墓があった。

【高橋紹運の墓①】

紹運率いる岩屋城兵763人が討死したのに対し、
島津軍の死傷者は4500人にも及ぶという。

【高橋紹運の墓②】

この後、しばらく島津軍の勢いは続くが、
九州に上陸した豊臣秀吉の大軍の前に、徐々に衰退していくこととなる。

とったりとられたりの戦国時代なので、このような支城にこそドラマがあるんだなと感じた。
狭い範囲しか見ることができなかったが、
とても濃密な空気を感じることができた時間だった。