城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

長岩城址(大分県)

2012-01-23 | 城(城址)歩き
2012年1月22日(日)

大分県中津市耶馬渓にある 長岩城址
建久9年(1198)、豊前国守護職・宇都宮信房 は、弟の 重房 に下毛郡野仲郷を与えた。
重房は姓を 野仲 と改め、この地に長岩城 を築く。
その後、野仲氏の所領は宇佐郡、下毛郡の一部にまで拡大。
この城は野仲氏22代、約390年間の居城となった。

長岩城は高い山や深い谷、岩壁などの天険の要害を取り入れ、
石塁砲座塹壕などを築いて城の防備を強化している。
戦国時代の地方豪族の山城としてはとても規模が大きく、
九州最大を誇るといわれている。

この日、その長岩城址へと向かった。
山国川沿いの国道212号線を進み、県道2号に入る。
やがて川原口バス停付近の左に大きな 『長岩城址』 の看板がある。
駐車場などはなく、道の脇のちょっとしたスペースに車をとめた。

山道入口には柵が張られており、立入が禁止されているのかと思ったが、
これは農作物を荒らす猪や鹿に対する防御柵で、登城者はこれを外して山道に入る。

この日は人影を見ることはなく、
どうやら登城者は自分一人のようだった。



登城口手前には津民川が流れている。
英彦山辺りを源流とする、山国川の支流となる。



記帳所があり、川に架かる木橋を渡って登城口へと向かう。





登城口からすぐの所に防御柵があった。
これも猪や鹿の進入を防ぐためのもので、外して山中へと入る。



柵を入ってすぐに 一之城戸 があった。

【一之城戸】

山道に沿って石垣があり、周囲に多くの石が見られた。
この辺りの石垣はいつのものかは分からない。



林の中には多くの石が散らばっている。



しばらく歩くと
山の斜面に沿って三ヶ月形に掘られた 三ヶ月塹壕 の跡があった。

【三ヶ月塹壕】

すぐ側には石塁があり、そこは ニ之城戸 となる。
他にも二十余箇所に点在する石塁の長さは、延700m余にも達するらしい。

【ニ之城戸】

ニ之城戸の石塁から進行方向にも石塁が見える。



山道には岩がごろごろ転がっており、歩きにくい場所があった。



しばらく行くと杉の木の隙間から石塁が見え始める。
三之城戸 の石塁は、きれいなカーブを描きながら本丸へと伸びていた。
まるで天に昇る龍のうねりのようで迫力があった。

【三之城戸石塁】

大きな岩がある場所へ出た。
ここは分岐になっており、本丸へ向かうには右側へと進む。
左側へ進むと砲座跡などがあるが、まずは本丸へと向かった。



三之城戸の石塁が続く。
これらは重要文化財となっており、
『壊さないように触れないように』 など注意書きがあった。



本丸へ向かって山道を上って行く。
一旦、石塁は途切れるが、今度は平らな石を積んだ新たな石塁が見え始める。



山道は石塁の先端を回り込む。



そこには 東之台 という開けた場所があった。
陽が射して明るかった。

【東之台】

苔のような植物がびっしりと生え、東之台全体が黄緑色に明るく見えた。



山道は石塁に沿って伸びている。



三之城戸の石塁よりも長く、どうやら頂上(本丸)まで伸びているようだ。



それにしても長く続く石塁には圧倒された。
よくぞこの山の中にこれだけのものを築いたものだと思う。

この城のあまりに広大な城域と土木量は地方豪族が単独で築いたと考えがたく、
それ以前に築かれた古代の城の転用ではないかといわれている。



来た道を見下ろすとこのような感じ。
苔が敷き詰められた緑色の場所は、今歩いてきた東之台。



石塁は更に上に向かって続く。



石塁に沿って、竪堀 が掘られている。
これは敵の侵入を困難なものにしている。

【竪堀跡】

石塁には往時の原形が完全に遺っているものもあるという。



竪堀を見下ろしたところ。



竪堀と並行する山道を上りきると、本丸入口に着いた。



本丸入口となる 虎口(城門)。

【本丸虎口(城門)】

虎口を入って左側の 腰曲輪

【腰曲輪】

城の修復記念碑。



本丸に到着。

【本丸】

本丸周囲に腰曲輪が配置されている。



長岩城(永岩城)は標高540.7mの所にある。

【本丸②】

本丸には 礎石 が見られた。

【礎石】

本丸からみる腰曲輪。

【腰曲輪②】

腰曲輪からみる本丸石垣。



もう一つの本丸虎口。

【本丸虎口(城門)②】

本丸からもと来た山道を下り、陣屋跡方面へと行ってみた。
少し行くと石塁が見え、そこが 陣屋跡 だった。
杉林の中にひっそりと遺構がある。

【陣屋跡】

天正16年(1588)、長岩城は 後藤又兵衛 率いる黒田軍の精鋭3500騎の大軍に攻められる。
その時の城主である 野仲鎭兼 は一族郎党、及び与力雑兵1500余と共に籠城。
勇戦するも敵の圧倒的な数によって力尽き、城は落城してしまう。
野仲一族は自決し、一族滅亡となり、この城も廃城となった。

この城址はとにかく石塁の造形美が素晴らしかった。
うねるように続く石塁は、ずっとその場で見ていたい気持ちだった。
そしてここが実際戦場となった城跡であることが、更に魅力を深めている。

岸岳城址(佐賀県)

2012-01-09 | 城(城址)歩き
2012年の最初の城址散策は、1月8日、佐賀唐津の 岸岳城址 へと向かった。

城は北波多村の東端、相知町との境界をなす 岸岳(標高約300m)に築かれている。
細長く伸びる尾根を削って平らにし、延々1kmの 連郭式曲輪 が配列されている。



近くに、中国東晋時代の桃花源記に登場する理想郷 『桃花源』 が表現された場所があった。
城跡とは何の関係もないものだと思う。



比高200m程の登山口に駐車場があり、そこに車をとめた。
駐車場からは二通りの道があるが、まずは舗装された道から行ってみた。



舗装道路から登山口に入り、しばらく歩くと案内板が見えてくる。



なるほど、細長い縄張の城跡となっている。



階段を上って行くようになっているが、草が鬱蒼と茂り、ちょっと躊躇してしまった。



階段を上りきると、標識が立っていた。
とりあえず先に、向かって左側の旗竿石に行ってみた。



割と急な上りになっている。
ロープを使い、岩を登る所もあった。



岩にびっしり生えていた植物。



旗竿石(はたざおいし) と伝わる岩。
城の物見の場所といわれる。
岩の上に直径数センチの丸い筒状の穴があり、そこに旗を立てたとされる。
分かりやすいように竿が立っていた。

【旗竿石】

玄界灘を一望できる。とあるが…
眺めはよかった。



再び標識に戻り、今度は反対側の本丸跡へと向かう。
目の前に岩があり、その左脇を進むようになっていた。



岩から3分程で 三ノ堀切跡 がある。
堀切には木橋が架かっていて、往時もこのようにして堀切を渡ったものと思われる。
ここから橋を渡った先は、城の 三ノ丸 となる。

【三ノ堀切に架かる木橋】

木橋から下の堀切を覗きこんだところ。

【三ノ堀切跡】

しばらく行くと低い石垣のようなものが見られた。
何かの土台かもしれない。



いきなり景色が見渡せる場所に出た。
測量時に三角点となった場所だった。





ここまではまだ城の三ノ丸となる。
二ノ丸に向かって、林の中を進む。



三ノ丸と二ノ丸の仕切となる、ニノ堀切 に到着。

【ニノ堀切】

このニノ堀切壁面に積まれた石垣は、戦国時代から残る本格的な石垣跡らしく、
切石 が積み上げられている。

【ニノ堀切壁面石垣①】

石垣は戦国時代以降のものだが、中世山城の面影も残す、重要な城郭遺跡となる。

【ニノ堀切壁面石垣②】

所々が崩れている。



堀切の中央に立ってみる。
左手が三ノ丸方面。 右手は二ノ丸方面。
敵が攻めてきた時、ここを越えるのは容易ではないだろう。



二ノ丸側からニノ堀切を覗きこんだところ。
ちょうど看板があった辺り。
石垣の向かって左側、鎖が張られている道を歩いてきた。



二ノ丸に入り、さらに林の中を歩く。
迷うことはないと思うが、登山道を示す赤テープが随所に見られる。



城跡全体に石が多く見られた。



埋まっている石垣跡。
崩れた石垣には、切石の跡が見られた。



二ノ丸 の看板がある、開けた場所に出た。

【二ノ丸跡①】

薄暗い林の中を歩いてきたので、広い場所に出てちょっとホッとした。

【二ノ丸跡②】

埋め門跡(うずめもんあと) とされる場所。
埋まっているので、これが門であるかは確認できない。

【埋め門跡】

二ノ丸の開けた場所から3分程歩くと 井戸跡 があった。





井戸跡を過ぎると本丸跡までは近い。
木々の間から陽光が射し、林の中も明るくなってきた。



本丸跡への山道から少しそれた方向を示す、やぐら跡 の看板があった。
せっかくなので、ちょっと行ってみることにした。



やぐら跡まで100m。
落葉が敷き積もる、少々角度のある斜面を下りて行くため、足がズルズルと滑る。
滑り落ちても落葉の絨毯を滑るだけなので、さほど危険ではないが、
木々に摑まり、用心しながら下りていった。

やがて木々の隙間に石垣が見えた。



山の斜面から突き出るように石垣があった。
櫓台となる石垣だろう。

【やぐら跡】

また何度か落葉の上を滑りながら、本丸への山道に戻った。

木に札が打ちつけてあった。
何か書かれていたのだろう。



陽光が明るい広場に出た。
ここが 本丸跡 となる。 中央に竹竿が一本立っていた。

【本丸跡】

本丸跡では久しぶりに青空が見れた。
ここはとても気持ちのいい場所だったので、
お茶を飲んだり、持ってきたチョコバーを食べたりしてのんびり休んだ。



ここ岸岳城の築城の時期は南北朝時代、1336~1392年頃と考えられている。
上松浦党 の棟領である 波多氏 17代が約450年間、盛衰を極めた城となる。

文禄2年(1593)には豊臣秀吉によって波多氏は改易され、
唐津藩主・寺沢広高 が領主となり、城は廃城となった。



本丸跡を歩いてみると石積みの祠があった。
お供えのカップに水を注ぎ、手を合わせた。



何か書かれてあるが、『波多』 の文字が読める。



のんびり休んだ後は、もと来た山道を戻った。
城の案内板まで戻り、そこから来た道と別の方へ行くと祠があった。



ここで、今日も無事に城址歩きができたことに御礼を言い、手を合わせる。
鬼子岳城址というのは、あて字だろうか。
この道はそのまま駐車場まで行けた。

岸岳城址では貴重な当時の石垣などが見れ、
山歩きとしてもとても面白い場所だった。