5月4日、大分県玖珠郡玖珠町の角埋山(つのむれやま)にある角牟礼(つのむれ)城祉へ出掛けた。
道路に案内標識もあり、場所はすぐに分かるが、山城だけにどんどん山道を登って行かなければならない。
角牟礼城は石垣のある山城で、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。
1585~1586年の島津氏と大友氏の戦いでは、島津軍の数度の猛攻に耐え、唯一落城しなかった城として知られる。
山頂付近の三ノ丸駐車場に着くと、すぐに石垣が見えた。
1593年には豊臣秀吉が文禄の役で失態をおかした大友義統を除国。
豊後国は秀吉直轄の地となり、ここ玖珠郡に毛利高政を入部させた。
以後、高政は6年の間に本格的な築城を目指す。
現存する門跡や石垣は発掘調査により、この頃に築かれたものと考えられる。
【三ノ丸跡の石垣①(駐車場)】
辺り一面に石垣と崩れた石がゴロゴロ転がっており、ちょっと驚きの光景だった。
【三ノ丸跡①】
ここから、末廣神社へと続く道がある。
【三ノ丸跡の石垣②】
【三ノ丸跡②】
【縄張り図】
この城祉で最も立派な石垣とある搦手門跡石垣とその付近の石垣。
穴太(あのう)積みの特徴をよく残す石垣とある。
【搦手門跡石垣①】
【搦手門跡石垣②】
確かに…この辺りの石垣は素晴らしいと思う。
状態もいいし、苔生し方がいい感じ。
【搦手門跡石垣③】
井戸曲輪跡。これは多分、井戸の跡だと思う。
【井戸曲輪跡】
地元つのむれ会が立てた旗。
後で知ったが、今日はおとぎ登山という行事をやっていて、
猿の格好をした人達、子供達がゲームをしていたりと、ちょっと賑やかだった。
展望台からの景色もよかったが、木々のひらけた間から見えるここの景色も味がある。
この石垣は北東の方向へずっ~と伸びている。
城の縄張り図をみると水ノ手曲輪の石垣ということになると思う。
【水ノ手曲輪跡石垣①】
【水ノ手曲輪跡石垣②】
櫓跡。あまり大きな櫓ではなさそうだ。
【櫓跡】
神社があった。
【角牟礼神社】
多分、二ノ丸跡の石垣だと思う。
【二ノ丸跡石垣】
展望台からの景色。町全体と山々が見渡せる。
展望台から林道を歩いて本丸跡へ向かう。
本丸跡。標高577mの角埋山の山頂にあたる。
【本丸跡案内板】
周囲に土塁が巡らされ、北側には石垣がある。
発掘によって南側に階段状の虎口、東隅に櫓建物が検出されている。
【本丸跡】
(伝)大手門跡。西側にある城門。
【大手門跡①】
今のところ大手門跡となっているが、城全体の縄張りから、ここを大手門とするには疑問があるということらしい。
【大手門跡②】
下を覗きこむ。これも門の跡。
【大手門跡③】
関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封。
一時、黒田如水の預かり地となるが、代わって伊予の水軍大将だった来島長親(のち康親)が入部。
しかし、来島氏は小大名である為に城をもつことが出来ず、この城はそのまま廃城となった。
城をもつ事ができなかった来島氏は角埋山の麓に陣屋を構える。
【森陣屋】
角牟礼城祉の荒々しい造りの石垣をみると、当時の人々の力強さが伝わってきた。
この城が静かに山奥にたたずんでいる様子は、ちょっと感慨深かった。
道路に案内標識もあり、場所はすぐに分かるが、山城だけにどんどん山道を登って行かなければならない。
角牟礼城は石垣のある山城で、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。
1585~1586年の島津氏と大友氏の戦いでは、島津軍の数度の猛攻に耐え、唯一落城しなかった城として知られる。
山頂付近の三ノ丸駐車場に着くと、すぐに石垣が見えた。
1593年には豊臣秀吉が文禄の役で失態をおかした大友義統を除国。
豊後国は秀吉直轄の地となり、ここ玖珠郡に毛利高政を入部させた。
以後、高政は6年の間に本格的な築城を目指す。
現存する門跡や石垣は発掘調査により、この頃に築かれたものと考えられる。
【三ノ丸跡の石垣①(駐車場)】
辺り一面に石垣と崩れた石がゴロゴロ転がっており、ちょっと驚きの光景だった。
【三ノ丸跡①】
ここから、末廣神社へと続く道がある。
【三ノ丸跡の石垣②】
【三ノ丸跡②】
【縄張り図】
この城祉で最も立派な石垣とある搦手門跡石垣とその付近の石垣。
穴太(あのう)積みの特徴をよく残す石垣とある。
【搦手門跡石垣①】
【搦手門跡石垣②】
確かに…この辺りの石垣は素晴らしいと思う。
状態もいいし、苔生し方がいい感じ。
【搦手門跡石垣③】
井戸曲輪跡。これは多分、井戸の跡だと思う。
【井戸曲輪跡】
地元つのむれ会が立てた旗。
後で知ったが、今日はおとぎ登山という行事をやっていて、
猿の格好をした人達、子供達がゲームをしていたりと、ちょっと賑やかだった。
展望台からの景色もよかったが、木々のひらけた間から見えるここの景色も味がある。
この石垣は北東の方向へずっ~と伸びている。
城の縄張り図をみると水ノ手曲輪の石垣ということになると思う。
【水ノ手曲輪跡石垣①】
【水ノ手曲輪跡石垣②】
櫓跡。あまり大きな櫓ではなさそうだ。
【櫓跡】
神社があった。
【角牟礼神社】
多分、二ノ丸跡の石垣だと思う。
【二ノ丸跡石垣】
展望台からの景色。町全体と山々が見渡せる。
展望台から林道を歩いて本丸跡へ向かう。
本丸跡。標高577mの角埋山の山頂にあたる。
【本丸跡案内板】
周囲に土塁が巡らされ、北側には石垣がある。
発掘によって南側に階段状の虎口、東隅に櫓建物が検出されている。
【本丸跡】
(伝)大手門跡。西側にある城門。
【大手門跡①】
今のところ大手門跡となっているが、城全体の縄張りから、ここを大手門とするには疑問があるということらしい。
【大手門跡②】
下を覗きこむ。これも門の跡。
【大手門跡③】
関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封。
一時、黒田如水の預かり地となるが、代わって伊予の水軍大将だった来島長親(のち康親)が入部。
しかし、来島氏は小大名である為に城をもつことが出来ず、この城はそのまま廃城となった。
城をもつ事ができなかった来島氏は角埋山の麓に陣屋を構える。
【森陣屋】
角牟礼城祉の荒々しい造りの石垣をみると、当時の人々の力強さが伝わってきた。
この城が静かに山奥にたたずんでいる様子は、ちょっと感慨深かった。
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