城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

広島~山口・・・萩城城下町

2010-08-24 | 史跡散策
この2日間は快晴でとにかく暑かった。
15日14:00
萩城址見学は旅の最終目的だったが、せっかくなので城下町も見学した。
幕末ブームもあって、観光客が多い。
町中の駐車場はいっぱいだったが、近くの中央公園駐車場に車をとめる事ができた。

始めに桂小五郎こと木戸孝允の旧宅を見学。

天保4年(1833)、萩藩医・和田昌景の長男としてここに生まれた。
8歳で桂家の養子となるも、養母が死去したため、
江戸へ出るまでの約20年間をこの家で過ごした。

初名は桂小五郎。 33歳の時に藩の命により、木戸貫治と改名。
翌年には木戸準一郎と改めた。 木戸孝允は実名。

青年の頃には吉田松陰に学び、30歳の頃には藩の要職につく一方で、
京都に赴き、国事にも奔走した。

慶応2年(1866)には坂本竜馬の仲介により、
討幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。

明治新政府では多大な功績により、西郷隆盛、大久保利通とともに、
『維新三傑』 と呼ばれる。

明治10年(1877)西南戦争の最中、45歳で京都にて病死した。

桟瓦葺二階建の木戸孝允旧家は、昭和7年(1932)に国の史跡に指定された。

【木戸孝允旧家】

木戸孝允旧家からすぐの場所に円政寺(えんせいじ)という寺があった。
ここは高杉晋作、伊藤博文が勉学に励んだという寺。

江戸時代には、法光院(ほうこういん)とよばれ、藩主毛利家の祈願寺だった。
明治時代に入り、別の場所にあった円政寺とこの法光院が合併し、今の円政寺という名前になった。

【円政寺鳥居前】

伊藤博文の母・琴子とこの寺の住職とは従兄妹同士であったため、博文は一年間ここに預けられた。
門には毛利の家紋・一文字三星が掲げられていた。

【円政寺山門】

円政寺から少し歩くと石井茶碗美術館などがあり、高杉晋作が生まれた家がある。

【高杉晋作生家の門①】

この時の一番人気。 多くの見学者がいた。

【高杉晋作生家の門②】

この旧宅は家禄200石を受けていた晋作の父・高杉小忠太の家で、
座敷、次の間、居間、玄関、台所などが当時のまま残っている。

玄関は狭い。

【玄関】

玄関横の小室。
全体的に小さな造りのように感じる。

【小室】

裏庭に残る井戸。
晋作誕生の際に産湯として使用されたといわれている。

【初湯の井戸】

庭園に残る鎮守堂。
家を守護するもの。 晋作遺愛品とある。

【鎮守堂】

座敷には色々と展示物があった。
ここは人だかりができていて、少々観るのに時間がかかった。

【座敷】

他にも吉田松陰、伊藤博文、久坂玄瑞ゆかりの建物、松下村塾などを観たかったが、
暑さと疲れで断念した。
萩の城下町を見学し、こんなにも幕末の志士がここから巣立ったことに改めて驚いた。

★1泊2日の小旅行を終えて★

14:50 萩の城下町を後にした。
持ってきたポロシャツは2枚とも汗が乾いてなかったので、
駐車場で、城下町売店で購入した高杉晋作Tシャツに着替えた。

今回のおみやげ。
広島のもみじ饅頭。 中身がクリーム、チョコクリームなどが入った詰め合わせ。
広島カープの包装がされたものもあったが、今回は別のもの。
長州揚げ。 ビン詰めのホタルイカの塩辛。
特に今回一番気に入ったのが、東行庵で買った晋作餅。
大宰府の梅ヶ枝餅に似た焼き餅で、普通のとシソが巻いてあるものがあった。
その場で焼きたてを食べるのもよし、
帰って冷やして食べても美味しかった。

2日間の旅で、5つの城を観に行くことが第一の目的だったので、
結構、名所の近辺を素通りした所があった。
心残りはいずれまた行く機会があるだろうと思うことにして、
城や城址だけでなく、最近少し興味を持ちはじめた幕末史にも触れることができ、
とても満足した小旅行だった。

広島~山口・・・萩城(山口県)

2010-08-23 | 城(城址)歩き
東行庵では少しの時間、売店で買い物をし、11:40頃に萩市へと出発した。
萩市の萩城城下町近辺には、12:40頃に到着。

萩城址の駐車場に車をとめると観光案内図をもらった。
萩出身の偉人といえば、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文らがいる。
城下町には、そんな偉人らの旧家などがあるため、観光客が多かった。

東門跡、指月小橋の架かる場所からみた修理中の石垣。

【時打櫓跡】

まず第一の目的である萩城址を見学した。
二ノ丸南門から入城。

【南門跡】

しばらく行くと、築城主・毛利輝元の像があった。
輝元は毛利元就の孫にあたる。

豊臣政権下では五大老を務める。
関ヶ原合戦では西軍総大将となるも、密かに東軍の家康に釘をさされ、参戦しなかった。
合戦後は中国6カ国から防長2カ国(周防・長門)に減封される。

慶長9年(1604)広島城を退去。
居城を萩に選定し、指月山(しづきやま)の麓に築かれたのが萩城である。
萩開府にあたり、城下町建設を推進、萩藩経営の安定に腐心した。
寛永2年(1625)73歳で没し、萩城三ノ丸の天樹院に葬られる。

【毛利輝元像】

南門からしばらく歩くと内堀があり、本丸門がある。

【本丸門】

萩城は山の麓にある平城と指月山の頂上にある山城とを併せた平山城。
奥に見えるのが指月山。

【萩城址碑】

向かって右側に見える本丸石垣。
本丸南北には内堀が掘りめぐらされている。

【本丸石垣】

向かって左側に見える本丸石垣。
奥が天守台。明治7年(1874)まで、ここには天守閣が建っていた。

【本丸石垣・天守台】

明治初期の天守閣の写真。
270年間毛利氏13代にわたり、萩城の象徴として威容を誇っていた。

【天守閣古写真】

本丸からみた天守台石垣。 鋭角な扇形になっている。

【天守台石垣】

【天守台へ】

天守台上には天守閣礎石があった。

【礎石】

天守台からみた内堀。 奥が入城してきた本丸門。

【内堀①】

西側の内堀。

【内堀②】

毛利氏はこの指月山を埋め立てて築城。
慶長13年(1608)に城は完成。
この時から260年間にわたり、その森林は城内林として保護された。
そのため山を覆う森林はよくその姿を留め、国内でもまれな成熟した森林となった。

その指月山は国の天然記念物に指定されている。

【指月山】

天守台からの眺め。 この日は晴天、青空が気持ちよかった。



本丸西側からみた天守台。

【天守台】

本丸内にある、花の江茶亭。
元藩主・毛利敬親別邸にあった茶室を明治20年に移築したもの。
幕末には敬親が茶事にことよせて、家臣とともに国事の密議をひらいた場所でもある。

【花の江茶亭】

この場所は藩主居館の奥書院にあたり、庭石、池、築山は当時のまま残っている。

【庭】

この石碑は大正8年(1919)、公爵・毛利元昭により建てられた、萩城の来歴を記したもの。

【萩城址碑】

第13代・敬親の代に至り、幕末の多端な国事の処理に不便な為、
文久3年(1863)4月、藩府は山口に移された。
その後、明治6年(1873)、政府から萩城払い下げ令が下り、
翌年、天守閣、櫓などすべてが解体された。

関ヶ原合戦後、毛利氏は徳川幕府にこの地へ封じられ、
約300年近く経った幕末、吉田松陰に教えを受けた、桂小五郎、高杉晋作ら長州藩が
毛利の一文字三星の旗を掲げ、討幕へと突き進む。

石垣のみが残った荒廃した萩の城だが、そんな熱い血が流れる人々のエネルギーを感じた。

広島~山口・・・東行庵(とうぎょうあん)

2010-08-22 | 史跡散策
岩国から山陽道に入り、再び南下、途中 9:40下松SAで休憩し、
更に南下、中国道美袮西ICで高速道路を降りる。
11:15 に下関市にある高杉晋作の墓所・東行庵に到着した。

最近、NHK大河『龍馬伝』 を観ているおかげで、幕末あたりの歴史にも興味をもち始め、
特に、今まで 「長州藩士で龍馬に鉄砲を渡した人」 くらいしか知らなかった、高杉晋作という人をもう少しよく知りたかった。

ここ東行庵の東行とは、高杉晋作の号し。(晋作という名も通称らしいが)

東行庵前には意外に広い駐車場があり、
小じんまりながら、売店などもある観光地となっていた。

【東行庵入口看板】

【入口案内板】

高杉晋作は天保10年(1839)8月20日、萩城下にて長州藩士・高杉小忠太の長男として生まれる。

高杉家は代々、長州藩上士の家柄で、藩の要職に就く人物を多く輩出してきた。
幼少時代は私塾で学び、14歳で藩校明倫館に入学。
しかし、そこで教わる面白みに欠ける学問に興味を示さなかった。

19歳の時、友人である久坂玄瑞に誘われ、吉田松陰のもとを訪れる。
その松陰の生きた学問に衝撃を受け、松下村塾に入門した。

文久2年(1862)には、幕府貿易視察団に加わり上海に渡航。
ヨーロッパの半植民地化した街を見て衝撃を受ける。



帰国後、文久3年(1863)6月、
下関を外国船から防御するため、奇兵隊を結成。
総督に任命される。

一時脱藩した罪で野山獄に投ぜられるも、
元治元年(1864)には四国連合艦隊の下関砲撃事件にあたり許され、
講和条約の正史となって戦後処理に大きく貢献した。

禁門の変後、藩の首脳は保守派によって占められたため、危険を感じ、一旦九州に脱出。
再び機を見て帰国し、奇兵隊を指揮し転戦、保守派を一掃して藩論を討幕に統一した。

慶応2年(1866)1月には、薩摩藩との薩長同盟に尽力。
同年6月、幕府による第二次長州征伐(四境戦争)では全藩を指揮し、
自らは奇兵隊などと共に幕府の軍艦4隻を奇襲攻撃、これを撃沈するなどし、
小倉口攻めにも活躍した。

しかし、同年7月頃から体調を崩し、翌年4月に下関の新地にて結核により病没する。
27年と8ヶ月の短い生涯だった。

ちょうどその半年後、幕府が朝廷へ大政奉還することとなった。

【高杉晋作(東行)の墓】

高杉晋作に信頼され、奇兵隊で共に行動した福田公明の墓。
晋作の墓のすぐ側に建てられている。

【福田公明の墓】

奇兵隊は日本で最初の身分を問わない軍隊で、『志』さえあれば入隊が許された画期的な軍隊だった。
維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くは10~20代の青年隊士だったので、
子孫もなく、墓も無縁仏となって荒廃するケースが多かった。

これを嘆いた東行庵3代目庵主・谷玉仙尼は昭和46年に墓地を開き、
各地から隊士の墓を集めて供養した。

【奇兵隊及び諸隊士・顕彰墓地】

~長州は奇兵隊の国である。~

作家・司馬遼太郎は著『街道をゆく』の中で、
長州は武士と庶民が一丸となって維新を成し遂げた。と記している。

【司馬遼太郎文学碑】

~おくれてもおくれても、又君たちに誓ひしことを、あに忘れめや~

高杉晋作は慶応元年(1865)8月、下関の新地町に日本で最初の招魂社(しょうこんしゃ・現在の神社)を創建。
亡き同志を偲び、この歌を詠んだ。

【高杉晋作歌碑】

晋作の側室おうのは、晋作が維新に奔走する際もよき伴侶となり、
幕府に追われる際も、共に危険をくぐり抜けた。

体調を崩した晋作は、下関郊外に小さな家を建て、療養生活を余儀なくされるが、
その際、愛人であったおうのを伴っている。

晋作の死後、おうのは出家して梅處尼(ばいしょに)と名乗り、
東行庵初代庵主となった。

明治42年8月7日、67歳で死去する。

【梅處尼の墓】

晋作の残した業蹟が記された顕彰碑。

~動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し~

同じ萩出身、伊藤博文が晋作を評した言葉。
短い生涯を激しく生きた晋作の人生をよく表していると思う。
碑に刻まれた字は、明治の三筆といわれた杉孫七郎のもの。

【高杉晋作顕彰碑】

明治24年、生前の功労に対し、正四位が贈られた。

【贈正四位と刻まれた部分】

墓と同じく、晋作の碑のすぐ横に建つ、福田公明の碑。
晋作の死後は北越に従軍。
病気のため、明治元年11月14日、下関で没す。

【福田公明顕彰碑】

少し離れた小高い場所には、晋作の像がある。

【高杉晋作(東行)像①】

文久3年(1863)3月16日、晋作が頭を剃って東行と号した時に詠んだ歌。

~西へ行く人をしたひて東行く、心の底そ神や知るらむ~

西行を慕い、頭を丸めたが、自分の心は東へ行く、その心は神のみが知っている

【高杉晋作(東行)像②】

像の正面にある歌碑。元治元年(1864)晋作25歳晩秋の作(自筆)が刻まれている。



~焦心録に題す~

内憂外患吾が州に迫る 正に是れ邦家存亡の秋

将に回天回運の策を立てんとす

親を捨て子を捨つる 亦何ぞ悲しまん



ここには、高杉晋作、福田公明ほか、数十もの奇兵隊及び諸隊士の墓が建っていた。
その一つ一つの墓の側には、誰の墓でどういう人物なのかが書かれた木板が打ってあり、
若くして命を失った隊士と、その墓を各地を奔走し、この場所に集めて供養した庵主に心を動かされた。

広島~山口・・・岩国城(山口県)

2010-08-21 | 城(城址)歩き
小次郎像から車ですぐの岩国城登山口に着いた。

城近くまで車で登れる道はないかとナビ検索するも、
他に行き道はなかったので、山登りの決心をした。
更に「城(頂上)まで45分」といういやな看板を見つけた。(涙)

長距離運転のため、サンダルを履いていたので、別に持ってきた靴に履き替える。
7:45 山頂の岩国城目指して登り始めた。

朝早くから登山コースを行く、何人かの年配の人達とすれ違い、挨拶した。
皆、ペットボトルを持っており、タオルを首に巻いている。
いつもの日課をこなしているような、慣れた感じの人達ばかりだった。

天気もよく暑かったので、すぐに汗が噴き出した。
飲み水もタオルも車に置いてきてしまったことを後悔した。

【登山道】

30分くらい登ったところで、白い建物が見えた。
でも、それがロープウェイ乗場だと分かってガッカリ。
営業時間になると城近くまで、このロープウェイで来れるようになっていた。

城まで300mという看板があり、ここまで来たらもうすぐだと気合を入れる。
かなり疲れたが、逆にそれが気持ちよかった。
何だかんだで、日々のウォーキングが役にたっているなと思った。

やがて石垣が見えてきた。

【二ノ丸石垣】

そして、大手門に到着。

【大手門】

門をくぐった二ノ丸広場から見た天守は、青空に映えていた。

【天守閣①】

現在の天守閣は復興天守閣で、すぐ北側に旧天守台があった。
こちらが実際に、築城時に天守閣があった場所。
古式穴太積みと呼ばれる石積みを基本とし、
戦国時代に地方独自の石積み技術が加わった形で造られている。

【旧天守台】

関ヶ原合戦の敗北により、毛利一族である吉川広家は周防の地に減封される。
そこで、新たな居城として建てられたのが岩国城。
合戦後に建てられた城としては珍しく山城となっている。

【天守閣②】

1615年、一国一城令により、わずか7年で城は破却される。
その後、城跡は石垣の一部を残すのみで、360年間そのままの状態だった。

やがて昭和36年に城の復元工事に着手。1年後に竣工となった。

【天守閣③】

山麓からの景観を意識して、現在の天守はこの場所に建てられた。

【展望園地からみた天守閣】

休憩所があり、そこの自動販売機で冷たい水を買った。
二ノ丸、本丸内には誰もいなかったので、ゆっくりと休憩した。
時間外に来てしまったので、残念ながら天守内には入れなかった。

10分くらい休憩し、山を降りた。
だいぶ日が昇ってきていたので、すぐにまた汗が噴き出し始めた。
気が付くと明るいグレーのポロシャツの上半分の色が変わっている。

途中、山からの水が出ている場所があった。
誰もいなかったので、頭から水を浴びた。
これはかなり気持ちよかった。

車に戻って、昨日着ていたポロシャツに着替えた。(2枚しか持ってこなかったのは失敗)
9:00 城をあとにした。



今回の城巡りで最もきつかった城歩きだった。
睡眠不足の影響もあるけど。

広島~山口・・・毛利元就歯廟と佐々木小次郎像

2010-08-20 | 史跡散策
玖珂PAでは寝たり起きたりを繰り返し、朝6:00前には出発準備を始めた。
この日も晴れ。今日も暑い1日になりそうだと思った。

朝10時頃でないと岩国の城も開いてないだろうと思い、
先に毛利元就歯廟へと向かった。
熊毛ICで高速道路を降り、玖珂PAからは40分位で着いた。

朝陽が眩しかったが、ちょうど翳りになった場所に石碑は建っていた。



1603年、関ヶ原合戦後の領地配分によって、毛利元政(元就の七男)は三丘領主となって入部。
その年が、父・元就の三十三回忌と生母・乃美の方(元就側室)の三回忌にあたったため、
この供養塔が建てられた。

【毛利元就歯廟①】

向かって右が元就公歯廟。左は乃美の方の宝篋印塔。

【毛利元就歯廟②】

元政は肌身離さず持っていた、父・元就の遺歯をここに埋め、
冥福を祈ったといわれる。

7:00 少し早いかな。と思いつつも岩国へ向かった。



7:30 佐々木小次郎像前に到着。

吉川栄治(1892~1962)著 『宮本武蔵』では、武蔵の宿敵の佐々木小次郎は岩国で生まれ、
錦帯橋の畔の柳や燕を相手に 『燕返し』を編み出したとされている。



ふと小次郎像をよく見ると、刀のところに何やら城が。
この時点で、岩国城の場所が把握できていなかったため、
「まさか、これが岩国城だとすると、この山を登らないといけないのか・・・」
と思わず苦笑い。



付近には吉川資料館があり、行ってみたかったが、朝早くてまだ開いていなかった。
結局、やはり山頂の城が岩国城で、早朝の山登りをしなければならなくなった。

広島~山口・・・三原城址(広島県)

2010-08-18 | 城(城址)歩き
15:00に福山城を発ち、1時間程で三原市に到着。
福山で折り返し、また広島市方面へ向かってきたことになる。

ここでは三原城址を見学した。

この城跡は三原駅と隣接・・・というか同化しているという感じで、天守台が残されていた。
駐車場は付近の30分80円という所に車をとめた。

瀬戸内海を掌握していた小早川隆景が、毛利水軍の拠点として築いたのがこの三原城。
この城は1567年、沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつなぎ、
海に向かって船入を開き、城郭及び軍港としての機能を果たしていた。
満潮時には海に浮かんでいるように見えたため、浮城と呼ばれていた。



豊臣政権下で隆景は筑前に移されるが、
秀秋に家督を譲るとここを隠居の城とし、大改修を行った。
江戸時代には広島藩支城として、筆頭家老・浅野忠吉の家が代々城主を務めた。

【本丸天守台①】

この天守台は山城から平城へ移行する時代の初期に築かれた。
まだ天守閣をつくる概念のなかった頃のもののため、
一度も天守は築かれなかったが、多聞櫓で連結した二重隅櫓が築かれていた。

【本丸天守台②】

この天守台は日本一の規模を持ち、広島城天守閣なら6つも入る程の広さがある。

【本丸天守台③】

明治27年(1894)に三原駅が開業。鉄道が本丸を貫くように建設された。

三原駅構内の三原城天守台跡入口。
ここから外に出ると天守台へ登る階段がある。



2004年から堀の景観を壊さずに、周囲を公園化する工事がされているらしいが、
まだ空き地のまま縄が張ってある場所が多く、工事はあまり進んでないようだ。

【階段からの景色】

【天守台石垣①】

天守台に登ると、確かに広かった。
ちょっとした公園のようになっている。

【天守台】

すぐ横に三原駅のホームがある。

【天守台駅方面】

天守台から駅のバスロータリーが見える。

【天守台より展望】

そのロータリーは隆景広場と名付けられている。

【隆景広場】

隆景広場の中心に建つ隆景の像。

小早川隆景は毛利元就の三男。兄は吉川元春。
元就の政策として、毛利両川という言葉があり、
それぞれ吉川家に送られた元春、小早川家に送られた隆景を示す。
二人をそれぞれの家に養子として送り、正統な血を絶やすことで両家を支配した。

【小早川隆景像】

堀を1周しようとすると、途中駅のガード下に入ってしまう。
そこでも立派な石垣が見られる。
駅のガード下に石垣が現存しているのは、何とも珍しい光景だった。

【天守台石垣②】

このような形でも、城の一部分を残しているのは、
小早川隆景が意外に有名な武将だからか。
なんて思いながら、16:30 三原市を後にした。

広島~山口・・・福山城(広島県)

2010-08-17 | 城(城址)歩き
12:10位に原爆ドームを後にして、約2時間。
広島市内から多少の渋滞と寄り道もしながら、14時15分位に福山市の福山城に着いた。

ふくやま文学館駐車場に車をとめる。
この日はとても暑かった。
広島城で歩き回り、汗だくになったシャツは既に乾いていたが、
城の裏御門に着く頃には、また汗が吹き出しはじめた。

【駐車場から見えた天守閣】

とにかく見えている天守に向かって歩くと、
裏御門から入城することになった。

【裏御門へ】

【裏御門跡】

すぐに本丸に到着。
本丸北隅の位置に天守閣がある。

【天守①】

1619年、広島城の無断修築によって福島正則が改易されると、
安芸には浅野長晟、備後には水野勝成が入封。
その水野氏の居城として築かれたのが、この福山城になる。
以後、水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代がこの城で藩治を行った。

【天守②】

明治6年、この城は廃城となる。
天守閣、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿以外の建物はほぼ取り壊される。
更に昭和20年の戦災により天守閣、御湯殿が焼失した。

やがて昭和41年に市制50周年記念事業として、天守閣、御湯殿、月見櫓が復元された。

【天守③】

いつもは最後に天守閣内を見学するが、暑いので先に中を見学するこにした。

天守閣は福山城博物館となっている。
県重要文化財の水野勝成所用・革包茶系威二枚胴具足、
烏帽子型の金箔押鯰尾形兜などがインパクトがあった。

五重六階地下一階の天守閣の最上階は展望台となっている。

福山駅方面。
本丸正面に見えるのが御湯殿。右手が筋鉄御門。
奥に駅のホームが隣接しているのが見える。

【福山駅方面】

こちらは手前がふくやま美術館。
奥にはケルン大聖堂。(笑)
ヴァレンタイン教会から日本で唯一正式認定された教会だそう。
インパクトありすぎ。

【美術館方面】

天守閣を出て、本丸の建物をみる。

本丸西南隅の伏見櫓は国の重要文化財。
1622年、築城にあたり将軍徳川秀忠が伏見城から移築させたもの。
梁に伏見城での呼び名「松ノ丸ノ東やぐら」と墨書で印されているということ。
天守を除き、熊本城・宇土櫓と並んで現存最古の櫓の一つ。
伏見城の確かな遺構として貴重な建物。

【伏見櫓】

伏見櫓とともに国の重要文化財である筋鉄御門(すじがねごもん)。
同じく伏見城から移築したものといわれている。
柱の角に筋鉄を施し、扉に数十本の筋鉄を打ちつけた堅固な造りとなっているため、
この名が付いたとされる。

【筋鉄御門】

御湯殿は、もとは伏見城内にあった御殿とともに移築された建物。
国宝に指定されていたが、昭和20年の戦災で焼失。
昭和41年に天守閣、月見櫓とともに復元された。
一部は石垣上に張り出しており、内部は物見の段と風呂の間とに分かれていた。
さぞ見晴らしのいい風呂なんだろう。

【御湯殿】

本丸御殿跡。
この御殿に居住していたのは初代城主・水野勝成と二代目・勝俊まで。

【御殿跡】

本丸西側に位置する鐘櫓。
時の鐘と半時(1時間)の太鼓をうっていたといわれている。

【鐘櫓】

本丸東側に位置する鏡櫓。
明治6年、廃城の際に取り壊されたが、昭和48年に外観復元される。
福山城博物館の文書館として昭和49年開館する。

【鏡櫓】

この月見櫓も伏見城内のものを移築したもの。
明治初期に取り壊されるも、昭和41年、天守閣とともに外観復元された。
追手側(南側)も入江方面も展望できる本丸南東隅に築かれ、
藩主等の到着を見極める役割をしていた。

【月見櫓】

裏御門から来てしまったので、本来は本丸正門である筋鉄御門から本丸の外へ出た。
本丸下段に帯曲輪のように二ノ丸があり、そこを歩いてみた。

【二ノ丸からみた筋鉄御門】

夏は緑の葉が邪魔で写真を撮るのが難しい・・・

【二ノ丸からみた伏見櫓】

福山藩阿部家7代目藩主・阿部正弘の像。
この人は・・・

江戸幕府老中首座。
当時、日本近海を脅かしていたイギリス、アメリカ、ロシアなどの外国船の牽制の為、
品川、浦賀などの港に砲台を設置。
薩摩藩の御家騒動に介入。島津斉彬を藩主とした。
安政の改革を断行。

など、幕末まで日本の為に改革を行った人物。

大河ドラマ 『篤姫』 で草刈正雄が演じた人物ということで、あぁ、あの人か・・・と思い出した。
『龍馬伝』 では升毅が演じているということで・・・今頃気付く。
今後、注意して観たいと思う。(笑)

【阿部正弘像】

鐘櫓はここからみる方がいい。

【二ノ丸からみた鐘櫓】

【二ノ丸からみた天守閣】

城内の建物は築城にあたり、
京都伏見城、あるいは神辺城(広島県神辺市)から移築されたものが多いという点が興味深かった。
思わぬところで幕末の勉強にもなった。
そして広島城と同じく、
昭和の戦争の名残がこの城の歴史の中に随所に見られる点が印象に残った。

広島~山口・・・広島城(広島県)

2010-08-16 | 城(城址)歩き
8/14~16日は盆休み。
14・15日の二日間で、広島・山口の5つの城(と城跡)を観に出かけた。

14日朝5:50には別府から高速道路に入った。
途中の渋滞はほとんどなく、関門橋まで来ると九州しばしのお別れ…という感じ。
そして最初の目的地、広島城に着いたのは9:50位だった。

【関門海峡に架かる関門橋】

城には駐車場がなく、近くの合同庁舎の地下駐車場に車をとめた。
まずは天守の見える堀の周りを歩いた。

【天守①】

天守の周りをぐるりと半周。
広島城天守閣は高さ26.6m、天守台12.4m、あわせて39.0m。

【天守②】

戦国時代1588年、毛利輝元は上洛し、豊臣秀吉に謁見。
その際、大阪城・聚楽第を見物し、
城下町と一体化して政治・経済の中心となって機能する城郭の必要性を痛感したといわれている。
そして、翌年より広島城築城にとりかかった。

1590年末には堀と城塁がとりあえず完成し、翌年、輝元は入城する。

【天守③】

やがて関ヶ原合戦で西軍大将だった輝元は敗れ、代わって福島正則が入城。
この時に城の外堀、外郭などの整備が進められ、広島城は完成する。

【天守④】

しかし1619年、洪水によって破損した城を無許可で修築したことを理由に領地を没収。
代わって浅野長晟が入城する。
以後、明治時代1869年までの約250年間、浅野氏12代が城主を勤めた。

【天守⑤】

水掘に浮かんでるように見える天守と本丸石垣。

【天守と本丸石垣】

【本丸石垣櫓台】

裏御門(跡)から本丸入城。

【裏御門跡】

この礎石は昭和33年、天守閣の再建に際し、元天守閣の柱下から掘り起こし、
本丸内上段のこの場所に移された。

【元天守閣から移動された礎石】

本丸の上段にあたるこの場所には礎石のほか、広島大本営跡などがあり、石碑などが多い。
天守もここにあるので、そっちに向かった。

【天守台石垣】

天守閣の前に来た。
大学生の団体か?見物客が多い。外国人も多かった。

【天守閣入口正面①】

天守閣内部は歴史博物館となっていて、様々なものが展示されていた。

明治7年の火災により、本丸御殿が焼失。
大天守、中・裏御門、二ノ丸のみを残すことになった。

その後、大天守は昭和6年に国宝に指定されるが、
昭和20年1945年、広島に原子爆弾が投下され、城内の建造物はすべて壊滅してしまう。
展示物の中には、その原爆によって倒壊した天守閣の写真もあり、あらためてその凄まじさを感じた。

現在の天守閣は昭和33年1958年に外観を復元して建てられたもの。

【天守閣入口正面②】

天守閣最上階の展望室からみた景色。
中央図書館、県庁方面。原爆ドームの頭も見えた。

【天守閣からの展望①】

反対側の景色。

【天守閣からの展望②】

本丸と二ノ丸を繋ぐ通路にある、中御門跡。

【中御門跡石垣①】

【中御門跡石垣②】

通路の途中にあるのが、被爆樹木マルバヤナギ。

【中御門跡】

通路を渡りきるとそこは二ノ丸になる。
被爆したユーカリの木があった。

【被爆したユーカリの木】

広島城二ノ丸は本丸から独立した馬だしの機能をもち、出撃の際の拠点となった。
その二ノ丸には正面に表御門、南西隅の平櫓、南東隅に太鼓櫓あり、
それらを結ぶように長い多聞櫓が建っていた。

これらの建物は明治以後も残っていたとされるが、昭和20年原爆投下により失われてしまった。

【表御門】

表御門は平成4年、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓は平成6年に復元された。

【多聞櫓・太鼓櫓】

この二ノ丸の建物の内部は資料館となっていて、無料で見学できる。

【多聞櫓内】

原爆投下で焼失するまで約350年間存続していた表御門。
焼失後、残っていた礎石の上に、焼失前の図や写真をもとにして復元されている。

【表御門】

表御門から城外へ。
二ノ丸建造物を外側から観ながら、広島城を後にすることにした。

【太鼓櫓】

【多聞櫓・太鼓櫓】

11:40に広島城を出発。車で10分程で原爆ドームに着いた。

昭和20年8月6日、ここ広島に原子爆弾が投下された。
約1週間前、地元大分でも出勤前の朝8時15分にサイレンを聞いた。
その時に 「原爆ドームも見て来なければ」 と思った。

多くの人が訪れていた。
親子連れや外国人の人も多くいた。
自分は小学生の時に修学旅行で訪れている筈だったが、ほとんど記憶にない。



原爆ドームとよばれるこの建物は、旧広島県産業奨励館の残骸。
戦前は美術展などが行われていたが、
戦争が始まってからは行政機関、統制組合などの事務所として使用されていた。



原子爆弾はこの建物の真上約600メートルの空中で爆発。
その1個の爆弾によって、20万をこえる人々の命が失われ、
半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。

そう説明が刻まれた石盤には次の文章が続く。

この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、
国内外の平和を願う人々の寄金によって補強工事を施し、これを永久に保存する・・・



原爆ドーム=広島平和記念碑は、ユネスコの世界遺産に登録され、
二度とこのような惨禍が起こらないよう、戒めや願いをこめて 『負の遺産』 とよばれている。



ちょうどこの写真を撮っている背後には本川(旧太田川)が流れており、
被爆した人々が熱さのあまり、この川に入っていったという話を思い出し、恐怖を感じた。

B-29爆撃機は、近くのこの川に架かるT字型の相生橋(あいおいばし)を目標に定め、原子爆弾を投下した。



近代的なビルの挟間に残る原爆ドームだが、そこの空間は特別なものだった。
世界中で唯一、原爆の犠牲となった国の民として、
今日ここに来て感じたヒリヒリとした感覚は、心に刻んでおかなければいけないと思った。