城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

宇土城址(熊本県)

2011-09-19 | 城(城址)歩き
9月18日、連休の日曜日、この日は曇り。
熊本県宇土市にある 宇土城址 へと向かった。

宇土城 は、天正16年(1588)、肥後南半国(宇土・益城・八代)の領主となった、
キリシタン大名の 小西行長 によって築城された。
行長は、関ヶ原の合戦 の際は西軍として戦ったため、
敗戦後、石田三成安国寺恵瓊 らとともに、京の六条河原で斬首される。
その後は、肥後一国(球磨・天草を除く)の領主となった 加藤清正 が、
宇土城の城主となった。

現地に着くと墓地があり、小道を挟んで向かいの小高い丘が城址だった。
城址は城山公園として整備されている。



最初の駐車場所は墓地に訪れる人が使用していたので、小道をさらに奥へと進んだ。
この小道は 内堀跡 、墓地が 二ノ丸跡 となる。



少し行くと、広い城山公園駐車場があった。
ここに石垣があったが、最近造られたもののようだった。



黒っぽい石垣は、どことなく熊本城の石垣のような色で、いい感じではある。



この石垣の上は、城山公園となっている。



車を降り、歩いて墓地の方へ戻ってみると、
今度は古いものらしき石垣があった。
宇土城跡の石垣 と書かれた立札が立っている。

【石垣①】

【石垣②】

発掘調査では、本丸に約2mの盛り土があり、
行長 の時代のものが、その下から出てきた事などから、
この石垣は、清正 の時代に積み上げられたものだとされている。

【石垣③】

道端に咲いていた彼岸花。
そういえば、もうすぐ御彼岸か・・・。



本丸跡へは、二ヶ所の駐車場のどちらからも上れるようになっている。
広い駐車場の方から上った。

芝がきれいに刈り込まれた、城址公園広場。
ここが宇土城 本丸跡 となる。

【本丸跡】

城は東西550m、南北500m、面積20万㎡の規模を誇る。
内堀によって囲まれた本丸は、標高約16mの丘の上に位置し、
西側に二ノ丸、南・東側に三ノ丸が配置されている。
これらを大規模な外堀が取り囲み、堅固な縄張りとなっている。

【宇土城と城下町想像図】

本丸跡には、これといって城の遺構らしきものはなかったが、
初代城主 小西行長 の像が建っていた。



弘治元年(1555)、
堺(大阪府堺市)出身の商人・小西隆佐の子として、京都で生まれたとされる行長は、
キリシタンだった父の影響で、幼くしてキリスト教に入信する。

その後は備前国(岡山県)の土豪である 宇喜多直家 に仕え、
宇喜多家が 織田信長 に臣従すると、
天正8年(1580)頃から、信長配下の 羽柴(のち豊臣)秀吉 に仕える。
秀吉の下では、室津(むろつ)、塩飽(しあく)、小豆島(しょうどしま)を治め、
四国攻めや九州攻めなどで 水軍 を率いたことから 『海の司令官』 と称された。

天正16年(1588)には、秀吉から肥後国南部を与えられ、宇土城 の城主となる。
築城にともない、大規模な城下町の整備も行い、現在の宇土市街地の基礎をつくった。

文禄元年(1592)に始まる 朝鮮出兵(文禄・慶長の役) では、先鋒として出陣するも、
戦線が膠着すると、石田三成 とともに講和交渉を進めた。
しかし、この交渉は失敗し、さらに軍事優先の武断派 加藤清正 らとの対立が深まった。

慶長3年(1598)、秀吉の死後は、徳川家康 との関係を重視したとされるが、
2年後の 関ヶ原の合戦 では、石田三成 率いる西軍に参加。
主力として出陣するも西軍は敗れ、
行長は京の六条河原で斬首され、46年の生涯を終えた。

【小西行長の像】

関ヶ原の合戦の際、城は行長の弟・行景(ゆきかげ) が守っていた。
そこを 加藤清正 の軍に攻められ、交戦状態だったが、
西軍が敗れたとの一報が入り、城は明け渡された。
行景は自刃。
西軍の総大将・毛利輝元 に預けられていた嫡男も殺害され、
行長の家は途絶えることとなった。

城址のすぐ側には、宇土高校があり、
部活動をする生徒達の声がずっと聞こえていた。

その宇土高校側、本丸東側から下へ降りれるようになっていた。

本丸跡から一段低くなっていた場所。
腰曲輪らしき跡。



階段があったので、丘の斜面を下りてみた。
正面には宇土高校のグランドが見えた。



斜面を下りると、それほど高くはない石垣の上に立っていた。
飛び降りることもできるが、上るのが困難そうなので、本丸跡へと戻った。

本丸跡となる城址公園広場からの眺めは、
それほど高い場所ではないため、素晴らしい眺めというほどではないが、
見晴らしはいい。



再び駐車場に戻り、東側に歩いて行くと、
石垣と堀の跡があった。

【南東隅の石垣】

【堀の跡】

本丸東側にも石垣が残っている。



熊本城に建つ 宇土櫓 は、
江戸中期頃に宇土城の天守を移築したものとされていたが、
後の調査結果から、熊本城内で創建されたものであることが分かった。
ここ、宇土城に建っていた天守とは全く関係ないようだ。

【熊本城:宇土櫓】

関ヶ原の合戦後、肥後一円は加藤清正の領地となり、この城にも城代が置かれた。
清正はここを隠居地として宇土城の普請を始めるが、
慶長16年(1611)に死去してしまう。

翌17年には、幕府の命により城は破却。
のち、天草・島原の乱後は徹底的に破壊された。

正保3年(1646)には、宇土細川藩 によって治められるも、
築城は許されず、陣屋 を構えるのみとなり、
以降、ここに城が建つことはなかった。

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