城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

秋月城址(福岡県)

2011-07-18 | 城(城址)歩き
7月17日、光雲神社参拝後は、山城歩きに備えてシャツと靴を替え、
朝倉市にある 秋月城址 へと向かった。

すでに13:00をまわっていたため、やむなく高速道路を使った。
14:20 秋月城址に到着。



いきなり城址前に着いたはいいが、駐車する場所がなかったので、
杉の馬場という道を通り、有料の秋月駐車場に駐車した。

そこから歩いて再び城址へと向かった。



現在、城址は秋月中学校となっている。
日曜なので学校は休みだし、ひっそりとしているものと思っていたが、
城址周辺と城下町は観光地となっているため、意外に多くの人がいた。

野鳥橋を渡って、城址へと向かう。
野鳥川 の水音が、とても涼しく感じた。

【野鳥川】

城址までの小道、杉の馬場 は桜の名所となっていて、
春には大勢の観光客が訪れる。
道沿いには茶店や売店が並んでいた。

山の中の静かな城址を想像していたため、
こんなに観光地として整備された場所とは思っていなかった。
正直、ちょっと驚いた。

【杉の馬場】

小さな川のせせらぎが聞こえてくると、
秋月城址の石垣と水堀が見えてくる。

【小石原川へと流れる小川】

秋月城と城下町の歴史は鎌倉時代に始まる。
建仁3年(1203)、原田種雄(たねかつ) は、
筑紫郡原田郷(現・福岡県筑紫野市原田) からこの地に移り、秋月姓 を名乗った。

秋月氏は本城を、標高約860mの 古処山(こしょさん) 山頂に置き、
古処山城跡 として城跡も残っている)
平時は山麓に居館を構えていた。
秋月氏は、秋月の町を囲む山々にいくつもの山城を構えていたが、
その中の 荒平城杉本城 に居館があったといわれている。

荒平城は、現在の秋月城址の北側に城跡が残っている。
杉本城は、現在の秋月城址の辺りにあったといわれ、
この城が秋月城の前身であったといわれている。

城は尾根と尾根の間の緩やかな谷だった場所を造成して高く盛り上げ、
その前面に石垣と堀が築かれた。

秋月氏は、16代・種実(たねざね) の時代、
九州征伐に乗り出した豊臣秀吉に敗れ、日向国高鍋に移封される。
これにより、約400年続いた秋月氏のこの地での活躍は終焉を迎えた。
そして、秋月城の前身である杉本城も廃城となった。

【石垣】

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで徳川軍は勝利し、
筑前国には 黒田長政 が配置される。
長政は叔父にあたる 黒田直之 の知行地として、秋月一万石を与えた。
直之は廃城となっていた杉本城を改修し、居館とした。

元和9年(1623)、長政の遺言により、二代藩主・忠之は、
弟(長政の三男)の 長興(ながおき) に秋月周辺5万石を与え、
ここに支藩・秋月藩 が誕生した。

【水堀】

少し歩くと 瓦坂(かわらざか)がある。
水掘を渡る通路だが、地面に瓦が埋まっていることから、こう呼ばれている。

【瓦坂】

瓦は縦に並べられて埋まっている。
こうすることにより、土が流れてしまうのを防いでいるとのこと。



この瓦坂は、
表御殿(現・秋月中学校校庭) の 大手門 へと通じる通路だった。



秋月城は 陣屋形式 の小規模な城で、
そのため 秋月陣屋 とも呼ばれる。

城下の縄張りは、この水堀を 内堀 とし、
北を流れる野鳥川を 外堀 とした。

【瓦坂からみた水堀のようす】

さらに石垣が続く。



ここの通路は舗装され、中学校の校庭に到る。
水掘中の石垣は残されている。



長く続く石垣の飛び出した場所には、櫓でもあったのだろうか。



現在、秋月中学校の校庭となっている場所は、
表御殿 があった場所で、ここで藩の政治が行われていた。



校内にも、苔生した石垣が残る。



さらに堀に沿って歩くと、長屋門(ながやもん)がある。
正しくは 内馬場裏御門 という。
秋月城内で唯一、移設されずに現地にそのまま残る建物となる。

【長屋門①】

長屋門脇の石垣。
櫓台のような石垣なので、秋月氏の時代の門の跡だろうか?



この長屋門は、昭和62年より3年間の修復工事と発掘調査が行われ、
古い礎石が発見されたことから、原形に近い形で復元できたということだった。

【長屋門②】

この長屋門から城内に入った。

【長屋門裏側】

現在、梅園 と呼ばれる場所は、
黒田時代の 奥御殿跡 となる。

発掘調査の結果、礎石、水路、井戸、厠などが残っており、
明治維新時の絵図面とほぼ一致することが確認できたらしい。

【奥御殿跡】

一段高くなった場所に慰霊塔が建っていた。

【慰霊塔】

梅園から中学校校庭が見える。
奥御殿からみる表御殿はどんな風に見えたのだろうか。



梅園から 黒門(くろもん) がある場所まで歩いた。

【黒門①】

この門は、もとは秋月氏の本城である 古処山城搦手門(からめてもん) だったもので、
秋月藩成立後の元和9年(1623)、現・秋月中学校前の瓦坂の奥に移設され、大手門 となった。

さらに明治13年(1880)、垂裕神社(すいようじんじゃ) の門として現在の場所に移された。

【黒門②】

城址近くには、秋月郷土館がある。
敷地内には秋月藩・戸波家の旧家屋と庭園、郷土美術館、歴史資料館などがある。
(入場料500円を支払った際、秋月城の図が載っている資料をもらえる)

ここで本物を見れるとは思わなかった、島原の乱を描いた 島原陣図屏風
黒田長政が戦闘中に溺れそうになった時、その冑が目印となり、
無事に救出されたといわれる 兜鍪の冑(とっぱいのかぶと) など、
貴重な展示物を見ることができた。

【秋月郷土館】

同じく敷地内には、秋月藩士・戸波半九郎の屋敷跡がある。
戸波家は黒田長興と共に秋月入りした、六兵衛定次を祖とする秋月藩の上級武士だった。
秋月藩高禄の武家屋敷の特徴を備えた、貴重な資料となっている。

【戸波半九郎の屋敷跡】

明治2年(1869)の版籍奉還後、
秋月藩第12代当主・黒田長徳(ながのり) は秋月藩知事となるも、
明治4年(1871)の廃藩置県の際に免職となった。

ここに、約270年間続いた秋月支配は幕を閉じることになる。

今回、秋月城址を歩いて、
城址周辺にも多くの史跡があったが、時間の関係で行けなかった。
古処山城跡、荒平城跡、武家屋敷など見たい場所がたくさんあった。
また、とても自然の美しい場所だった。

『筑前の小京都』とよばれる秋月城下町、
今度はもう少しゆっくりと見物したいと思う。

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