城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

黒崎城址(福岡県)

2011-08-14 | 城(城址)歩き
8月14日(日)、盆休みの二日目。
福岡県北九州市にある、黒崎城址 へと向かった。

黒崎は北九州市八幡西区の中心街で、黒崎駅周辺の地域を指す。
かつては北九州の副都心として栄えたが、
近年は商業施設の閉鎖などが相次ぎ、商業機能は大幅な縮小傾向にあるという。

国道3号線を走り、黒崎に着くと大きな駅ビルが見えた。
縮小傾向にあるとはいえ、まだまだ賑やかな繁華街のようには見える。
駅に着く手前、藤田三丁目の交差点を左折する。
高架をくぐって道なりに行くと、やがて小高い山が見え始めた。
周囲は工場などが多く、そこに城山グランドと書かれた看板があったので、
目指す城址は、この山に違いないと思った。

そこから山を上る道を探し、少し迷うも城山公園の駐車場にたどり着いた。

【城山公園駐車場】

この城山は、道伯山(どうはくさん) といい、
かつては 筑前六端城 の一つである、黒崎城 があった。
駐車場からすぐの場所に、石垣跡 を見ることができた。

【石垣跡①】

【石垣跡②】

【石垣跡③】

【石垣跡④】

駐車場側にまわり込むと、段々状になった石垣跡もあった。

【石垣跡⑤】

【石垣跡⑥】

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦 の功により、
筑前52万石の大名となった 黒田長政 は、
翌年から本城である、福岡城 の築城にとりかかる。
同時に豊前との国境の守りを固めるため、筑前六端城 といわれる、
若松城、大隈城、鷹取城、小石原城、左右良城、そしてここ黒崎城を築いた。

城主には、禄高一万六千石となった黒田二十四騎の一人、
井上周防守之房(いのうえすおうのかみゆきふさ) が任ぜられた。
九州の関ヶ原といわれる 石垣原の合戦 では、
大友軍の参謀格である 吉弘統幸 を槍の一騎打ちで破った、
勇猛果敢な人物である。

筑前六端城とは、豊前中津城主・細川忠興(39万石) の勢力に睨みを効かすためのもので、
特に黒埼城は、重要な拠点の一つだった。
如水の時代から、黒田家に仕えてきた之房だが、
長政の時代になっても、変わらぬ信頼関係がうかがえる。

【黒崎城址の石碑】

城の本丸であっただろう場所は、芝のきれいな公園となっている。
人は誰もいない。 数羽のカラスの鳴き声が響くだけの静かな公園だった。





一段低くなった場所は、城の 二ノ丸 だろうか。



いたる所に石が転がっている。
かつては城の石垣だったものだろう。

元和元年(1615)、幕府の 一国一城令 により、
黒崎城は廃城となり、城郭は破壊された。
元文3年(1738)には、現在の黒崎駅付近の新田開作のため、
堤防の石にこの城の石垣が使用された。



山の斜面の階段を下りてみた。



階段を下りる途中にあった、これも石垣の残骸だろう。



住吉神社という、小さな神社に行き着いた。

【住吉神社の鳥居】

城の石垣に使われたような、割られた石で造った小さな菜園の痕跡があった。



さらに遊歩道になっている、山の斜面に沿って歩いた。



広いグランドに出た。
この辺りはきれいに整備された緑地公園となっている。
特に何もなさそうなので、来た道を戻ることにした。



戻る途中、舗装道路の下に石垣を見つけた。
本丸近辺以外で、城の遺構らしきものを見つけたのはこれくらいだった。



城が廃城となった後、城主・之房は、城の西麓の屋敷から陣原(じんのはる)の屋敷に移り、
寛永11年(1634)、八十歳という高齢で没した。
現在、その陣原にある 舎月庵 は、之房の屋敷跡だといわれている。

之房は晩年、自らを 道伯(道柏とも) と号した。
道伯山の名はここから付いたものだろう。
その城山の眺望から、
かつてこの城は、洞海湾の海上を監視する役目も担っていたであろうと想像できる。
腕組みをし、じっと城下を見据える、之房の姿が目に浮かぶようだった。

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