城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

益富城址(福岡県)

2011-07-19 | 城(城址)歩き
秋月城址を15:30に出発。
福岡県嘉麻市大隈の 益富城址(ますとみじょうし) を目指した。

30分程で城址近くまで来ると、
道路脇に 『益富城址大手門』 という案内板があった。
予定外のコースだったが、せっかくなので行ってみようと思い、
案内板の指示する場所へ向かった。

すると、善照寺 というお寺に着いた。

【善照寺】

ここに、益富城の 大手門 が移設されているようだ。



お寺の山門は新たに造られたようで、
益富城の大手門は、善照寺の旧山門として残っていた。

【益富城・大手門】

門には立て札があり、
『寛文8年(1668)、益富城正門(大手門) を移築』 と書かれてある。

古文書記載によると、このお寺は室町時代後期にはその名が記されており、
九州討伐時、豊臣秀吉 が益富城に在陣した際には、
本願寺教如(きょうにょ)(本願寺顕如の長男) を同行させたとある。

また、善照寺となった後には、
慶長9年(1604)には 黒田長政
慶安元年(1648)には 黒田長興 もこのお寺を訪れたようだ。



すぐに善照寺をあとにした。

16:10 益富城の 搦手門 を山門とする、麟翁寺(りんのうじ) に到着。
ここでは、黒田武士・母里太兵衛 の墓を拝むことができた。

【益富城・搦手門】

まだ充分に空は明るかったが、先を急いだ。

16:35 益富城址 到着。

城址は、城山自然公園として整備されていた。
駐車場に車をとめる。 他に車はなく、人影もなかった。
駐車場トイレ脇に、城址案内板があった。



すぐに、別曲輪跡 があった。

益富城は、標高187mの山頂に築かれた山城で、本丸、二ノ丸、馬屋から成る。
東側に 出丸 を設け、
両脇を固めるように、5箇所の 別曲輪 が配置されている。
これらは東の豊前方面に対する、賢固な防御として築かれた。

【別曲輪跡①】

城の形は出丸を頂点にした三角形となっており、
規模は50,000㎡程と推定されている。



それほど高くはない山城なので、上り坂もほとんど苦にならなかった。



二箇所目の別曲輪跡

【別曲輪跡②】

益富城は永享年間(1430年頃)、
大内氏第11代当主・大内盛見(もりみ・もりはる とも) により築城される。
その後、永禄年間(1560年頃)には、毛利元就 の領有となり、
家臣の 杉七郎忠重(すぎしちろうただしげ) が城番となった。

天正年間(1580年頃)には、古処山城を本拠とする 秋月氏 の支城の一つとなる。
しかし、秋月氏は 豊臣秀吉 による九州討伐で敗れ、
その後は 早川長政(長敏) が城番を務めた。
その長政も関ヶ原合戦で西軍に着いたため、敗戦後、城も土地も没収された。

二ノ丸手前の 空堀 は秋月時代に造られたもの。
深い横溝を堀り、攻めてくる敵を遮断する目的で造られた。

【空堀(横堀)跡】

慶長5年(1600)、城は 黒田氏 の領有となり、
福岡藩 筑前六端城 の一つとなった。
そして、この時は黒田家に仕えていた 後藤又兵衛基次 が城主となった。

慶長11年(1606)、後藤又兵衛の出奔後、母里太兵衛 が城主となる。
元和元年(1615)、母里太兵衛が没すると、同年、一国一城令により、
黒田氏は本城である福岡城のみ残され、六端城はすべて破却される。
益富城も廃城となった。

城の東側の防御を固めた、
黒田時代(後藤又兵衛・母里太兵衛時代)に造られた 石垣跡
ほとんどの石は崩れ落ちていて、石垣の形は成していない。

【石垣跡】

石垣は、花崗岩(かこうがん) の巨礫(きょれき)を切り出したものが使われた。
石を割った跡がはっきりとわかる。

【崩れた石垣】

石垣跡のすぐ側にある、水ノ手曲輪跡
秋月時代、天然の水を貯めておく貯水池として整備された。
水は飲料水として使用された。

【水ノ手曲輪跡に転がる石】

斜面をトタン屋根のように畝状(うねじょう)に掘った 畝状竪堀跡
正面から攻めてくる敵の動きを封じる空堀跡に対し、
こちらは左右から攻めてくる敵の動きを封じた。
空堀と同じく、秋月時代に造られたもの。



城の頂上までは大して時間はかからなかった。



二ノ丸入口に到着。



二ノ丸から本丸にかけて見渡すと、なかなか広い。

まずは、黒田時代に建てられた櫓の跡。
二ノ丸での戦闘と防御のためのものだった。

【二ノ丸櫓跡】

搦手門(現・麟翁寺山門) 跡と推定されている 枡形の虎口
黒田時代の二ノ丸出入口となった場所。

【二ノ丸枡形の虎口①】

その枡形虎口の修復された石垣。
戦闘面を重視した造りとなっていた。

【二ノ丸枡形の虎口②】

石垣の石が転がるその奥、土を盛り、防御を固めた 土塁 の跡。
土塁を張り出させ、そこから敵に向かって矢を放つ、横矢跡 も見られる。

【横矢跡と崩れた石垣】

土塁と石を積んだ 石塁 で、防御を強化した。

【石塁①】

【石塁②】

二ノ丸には、枡形虎口付近の櫓の他、
横矢辺りにもう一つ、櫓状の建物があったとされている。



本丸での戦闘に備えた、本丸櫓 の跡。
他にも礎石のある本格的な瓦葺の建物、多聞櫓と呼ばれる長屋状の建物などの跡が残る。
すべて黒田時代のもの。

【本丸櫓跡】

こちらも戦闘面を重視した造りになっている、枡形の虎口
黒田時代に 追手門(おうてもん) があった場所と推定されている。

【本丸枡形の虎口】

本丸にあった展望台。
上ってみようかと思ったがやめた。

【展望台】

この城には、秀吉の一夜城 の話が伝わる。

天正15年(1587)、秀吉は30万の軍勢とともに 小倉城 に入った。
まずは秋月攻略のため、秋月二十四城の一つ、岩石城 を1日で陥落させる。
勢いもそのまま、ここ大隅にも攻め寄せた。

岩石城陥落の知らせを受けた 秋月種実 は、種長(種実の長男)の守る 古処山本城 へと逃れる。

秀吉は、秋月の本城を無血開城させるため、
まずは嘉麻・穂波の村々にかがり火を焚かせ、
次に大隅の民に町中の戸や障子を運ばせ、一夜にしてここに仮の城を築いた。
その光景を秋月の城から見た秋月父子は、村々のかがり火を放たれた火だと思い、
一夜にして城を築いた秀吉を恐れ、戦わずして降伏した。

秀吉は協力した大隅の民に、愛用の陣羽織と佩刀(はいとう)を与え、
永代貢税(長期間の貢税)を免除した。

【櫓?一夜城?(笑)】

秋月の本城・古処山が正面に見える。

二ノ丸には、白米流しの跡 という遺構も残っている。
窪みから麓に向かって白米を流し、滝のように見せかけ、
豊富な水とこれだけのことを短期間でやってしまう戦力をアピールし、秋月氏を驚かした。

現代に伝わる秀吉という人物らしい話だと思う。

【本丸跡から古処山を望む】

7月17日、かなり急いで回ったコースだったが、
最後の益富城は当時の遺構も多く、城址歩きが楽しめた。
秋月城址と違い、とうとう人と会うことがなかったので、
城址貸切気分で、本丸からの眺めをのんびりと楽しんだ。

17:30 益富城址をあとにした。

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