城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

黒田家関連の寺と神社

2011-07-17 | 史跡散策
九州国立博物館で、『よみがえる国宝』 を観た後は、
3ヶ所の城址と寺・神社を見学しようと計画をたてた。
高速道路の料金も元に戻ったので、
今までのように、その場その場で行き場所を決めるということはせず、
前の日までにコースを決めてから、見てまわることにした。

福岡県内、
九州国立博物館(大宰府市石坂)⇒崇福寺(福岡市博多区)⇒光雲神社(福岡市中央区)
⇒秋月城址(朝倉市秋月)⇒益富城址(嘉麻市大隈)とその麓の麟翁寺

これを1日で回ろうと思う。
高速道路を使用するのは、出発地点の別府ICから大宰府ICのみ。
ちょっと詰め込みすぎかと思ったが、
連休なので帰りの時間は気にしなくていいかなと思った。

07:30 出発

09:20 九州国立博物館に到着
11:00 出発

11:50 博多区の 崇福寺(そうふくじ)に着いた。



崇福寺では、黒田家の墓所 を見学したかった。

まずは崇福寺の入口となる、山門 に着いた。
大正7年(1918)、福岡城の 本丸表御門 として建立されたものが、
ここへ移設された。
数少ない福岡城の建造物として、県の有形文化財に指定されている。

【崇福寺・山門】

そのまま車でこの門をくぐることができる。
ぶつけたら大変だ・・・と慎重にくぐった。

境内に入ると、車5~6台の駐車スペースがある。
子供達が遊んでいたり、参拝客も何人かいた。

【境内からみた山門】

崇福寺は仁治元年(1240)、
湛慧禅師(たんえぜんし)により創建される。

天正14年(1586)、島津氏と大友氏の 岩屋城の合戦 の際に焼失するも、
慶長5年(1600)に福岡藩初代藩主 黒田長政 によって現在の地に再建され、
黒田家の菩提寺 となった。

境内を逆時計まわりで歩いて行くと、
最初に 心宗庵 がある。

重要文化財の二尊像を安置し、
毎月4日、14日、24日の縁日には一般参拝ができるとのこと。

【心宗庵の門】

こじんまりとしていたが、庭の枯山水は清涼感があった。





さらに境内を歩いてゆくと、本堂、新旧書院、茶屋などに行ける門がある。
奥に見えるのは鐘楼。
後で見物しようと思ったが、すっかり忘れて帰ってしまった。



山門と同じく、県指定有形文化財の 唐門(からもん)。
名島城から移築したものと伝えられる。

【唐門】

黒田家の墓所 は一般墓地の奥にある。



墓所は平成8年に福岡市文化財保護指定となり、
平成11年には墓所の通用門となる、籐水門が完成した。

墓所を見学する場合は、この門の鍵を借りて入ることになっている。

【藤水門】

中へ入ると黒田家の墓塔が並んでいる。
こちらは、
四代・綱政、五代・宣政、六代・継高、七代・治之、九代・斉隆、十代・斉清の墓塔。



二代・忠之、三代・光之、八代・治高の墓所は、
同じ福岡県の博多区御供所町の 東長寺 にある。

そして、初代藩主・黒田長政 の墓塔。

長政は元和9年(1623)、参勤交代の途上に病で倒れ、
五十五歳で生涯を閉じた。

後に、『黒田騒動』 の立役者となる 二代藩主・黒田忠之 は長政の嫡子。

【黒田長政墓塔】

最も間近で見たかった、
藩祖・黒田(官兵衛)如水 の墓塔。

如水は関ヶ原合戦の4年後の慶長9年(1604)、
京都伏見城下にあった 黒田家伏見屋敷 にて、五十九歳の生涯を閉じる。
(福岡の地で没したとの説もある)

如水死後、遺骸は 京都大徳寺 境内の塔頭龍光院に葬られ、
分骨を受けて、ここに眠っている。

【黒田如水墓塔①】

如水愛用の 朱塗合子形兜 の色を連想させる、赤茶けた墓塔。

【黒田如水墓塔②】

如水の墓塔のすぐ横には、正室・幸圓(こうえん)の石塔がある。
如水は生涯一人の妻しかもたなかった。
幸圓は、晩年は剃髪し 照福院(しょうふくいん) と号した。
亡骸は福岡市 円応寺 に葬られる。

その隣の石塔は、二代・三代・四代・五代藩主の正室のもの。

【左側:照福院石塔】

墓所は、昭和25年に墓地の改葬が行われる以前は、現在の5倍もの広さだった。
二十数基あった墓塔は、十二基に整理されている。

如水・長政父子の墓塔をみることができ、ちょっと感動した。
その墓前で手を合わせることができたのも、貴重な経験となった。

12:20 崇福寺を出発。
次は福岡市中央区の福岡城址近く、光雲神社(てるもじんじゃ)に向かった。

12:50 迷いながら到着。
神社の場所を探すよりも、西公園に向かえばよいことを後で気付いた。

公園内はタクシーの休息場所になっているようで、数台が昼休みの休息中だった。
進んで行くと、神社への案内板がある。
神社の鳥居に着くと、その周辺が駐車スペースとなっていた。

ここは黒田如水・長政父子を祀る神社で、
二人の法名、龍光院(りゅうこういん) と 興雲院(こううんいん) から一文字ずつ取って名付けられた。

【光雲神社】

この神社は福岡城内にあったが、明治40年に現在の地に移された。
昭和20年に戦災で社殿が焼失するも、昭和41年に再建された。



鳥居をくぐるとすぐ右手に、長政の 大水牛兜の像 がある。
朝鮮出兵で 福島正則 と不仲となった長政は、
関係修復のため、戦後に兜を交換した。
長政はこの大水牛兜を渡し、
正則からは 一の谷形兜 が贈られたといわれる。

【大水牛兜の像①】

直江兼続の 『愛』 の兜と同じく、
黒田長政は 『一の谷形兜』、
福島正則は 『大水牛兜』、
と、彼らのトレードマークとなっている。

【大水牛兜の像②】

大水牛兜の像と並んで建っている 母里太兵衛(もりたへえ) 等身大の像。
黒田武士では最も有名な人物。

福島正則から勧められた大杯の酒を飲み干し、
見事、名槍 日本号 を勝ち取った。
そのことは 黒田節 の中でも唄われている。

像の右手には日本号、左手には大杯を構えている。
同じような格好をした黒田武士の博多人形をよく見る。

【母里太兵衛の像】

光雲神社は六代藩主・黒田継高(つぐたか)の時代に、
福岡城内(本丸天守台下)に二人を祀ったことが始まりとされる。

【光雲神社】

賽銭箱に200円入れたら、ギャッ!ギョワッ! と恐ろしい音が・・・
「何か悪いことしたかっ!? 少ないのか!?」 と焦ったら、
これは賽銭を入れたら、鶴の鳴き声がするという仕組みになっていた。

【賽銭箱】

13:10 光雲神社を出発

14:20 秋月城址に到着
15:30 出発

ここから嘉麻市大隈にある、益富城址を目指した。

16:10 益富城址の麓の 麟翁寺(りんのうじ)に到着。

麟翁寺は、黒田武士・母里太兵衛 が自らの菩提寺として建立した。
ここには 母里太兵衛の墓 があり、一度見てみたかった。

寺の山門は、益富城の 搦手門(からめてもん) を移設したもの。

【麟翁寺・山門】

【麟翁寺・本堂】

境内の御地蔵さんの背後には、名槍・日本号の模型? が飾られている。
これはほぼ刀身部分で、これに実物は3.5mもの柄がある。
以前、福岡市博物館で展示されている実物を見ると、
柄の部分に施された貝殻の細工が美しい槍だった。

初めは第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)のものだったこの槍は、
足利義昭⇒織田信長⇒豊臣秀吉⇒福島正則と渡り、
最後は大酒を飲み干した母里太兵衛に渡る。

ここぞという時にキメて魅せた太兵衛は、
黒田武士の象徴的存在となった。



そして、母里太兵衛の墓
母里但馬守友信(もりたじまのかみとものぶ)之墓』 とある。
一万八千石の所領を受け、一城を預かる身となった時、
通称の太兵衛を改め、但馬守 を名のった。
友信は本名。



これが? と思うほど小さな墓だった。
周囲に大きな墓石の墓が並んでいるので、何度も見直したが、
やっぱりこの墓がそうだった。

ここでもしっかり参拝した。
黒田武士の英雄がここに眠っていると思うと、ちょっと感慨深かった。

【母里太兵衛の墓】

黒田の武士で、太兵衛と三人兄弟のように育ったといわれる、
栗山利安井上之房という二人の兄貴分の誰よりも先に太兵衛は亡くなっている。
(1615年没・六十歳)
やんちゃな末っ子という感じだったといわれる太兵衛の死は、
二人の兄貴分にとって、とても寂しいものだったと思う。

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