城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

岩屋城址(福岡県)

2010-11-04 | 城(城址)歩き
11月3日の文化の日。
福岡県の大野城址は以前から城歩きをしてみたい場所だったので、
この日は天気もよかったので出かけた。

現地に着くと登山コースになっているため、多くの登山者がいた。
車で山道を上っていると、道沿いに岩屋城址があったので、行ってみることにした。

本丸跡へ行くには、道路から少し山を登っていくことになる。

【岩屋城祉本丸への階段】

それほど登らないうちに、本丸跡(甲の丸)に着いた。

岩屋城は戦国時代に宝満城の支城として、高橋鑑種(あきたね)によって築かれた。
しかし、主である大友宗麟に叛き、城を追われる。
新たに城主となったのが、当時23歳の吉弘鎮理(しげまさ)で、後の高橋紹運である。

天正14年(1586)、39歳となった紹運は、北上する5万の島津軍と籠城戦を戦った。
圧倒的な数の島津軍に対し奮戦するも、徐々に本丸まで攻め込まれ、
城兵763名とともに自刃した。

このインパクトのある石碑を見ると、島津軍との戦いで籠城戦を挑み、
壮絶な死を遂げた紹運のイメージが浮かんでくる。

この石碑は、昭和30年に紹運の家臣の子孫によって建てられたということ。

【岩屋城祉石碑】

本丸跡には数人の登山者の人達がいた。

【本丸跡】

天気がよかったので、本丸からの見晴らしはとてもよかった。
手前、中心からやや右に大宰府政庁跡が見える。

【本丸跡からの景観】

本丸跡の近く、少し山を下ると高橋紹運とその勇士の墓があった。

【高橋紹運の墓①】

紹運率いる岩屋城兵763人が討死したのに対し、
島津軍の死傷者は4500人にも及ぶという。

【高橋紹運の墓②】

この後、しばらく島津軍の勢いは続くが、
九州に上陸した豊臣秀吉の大軍の前に、徐々に衰退していくこととなる。

とったりとられたりの戦国時代なので、このような支城にこそドラマがあるんだなと感じた。
狭い範囲しか見ることができなかったが、
とても濃密な空気を感じることができた時間だった。


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