
1969年の阪急との日本シリーズ第4戦の四回無死一、三塁、三走・土井は重盗で生還。捕手・岡村はセーフの判定に抗議し、シリーズ史上唯一の退場となった
巨人の9年連続日本一(V9)に貢献し、オリックスの監督を務めた土井正三(どい・しょうぞう)氏が25日、都内の病院で膵臓(すいぞう)がんのため死去した。67歳。兵庫県出身。1965年に巨人に入団。川上哲治監督の下、不動の二塁手となり、王貞治氏、長嶋茂雄氏ら中軸につなぐ「2番打者」として活躍。前人未到の9連覇を支えた。23日の巨人リーグ3連覇を見届け、天国へ旅だった。
常勝巨人を支えた「2番・セカンド、土井」が天国へと旅立った。原監督率いる巨人がV9以来となる3連覇を達成した2日後、栄光のV9戦士が天に召された。
土井さんは、午後4時過ぎに病院から都内の自宅に無言の帰宅。後輩の中畑清氏(55)ら巨人関係者が自宅を訪れ、原監督ら生前を知る関係者からの花も次々届いた。遺体と対面した中畑氏は「きれいな顔でした。ご苦労さまでしたということと、感謝を伝えた」と目頭を押さえた。
自宅前で会見した長男の健一さんによると、1カ月前に肺炎を併発して入院した際、医師から「あと1カ月はもたない」と宣告されていた。その報せに、監督の川上哲治氏(89)、長嶋茂雄・巨人終身名誉監督(73)、王貞治・ソフトバンク球団会長(69)、高田繁・ヤクルト監督(64)らV9メンバーのほとんどが病院に駆けつけた。
同じ時期に優勝マジックが点灯した巨人の戦いと並行するように、病との最後の闘いを続けた。V3を決めた23日の巨人戦は気力を振り絞って病床でテレビ観戦。午後4時44分、「優勝が決まったよ」と健一さんが伝えると、その目は原監督の胴上げをしっかりと見つめていた。「どこまで分かっていたかは分かりませんが…」。
それから約43時間後に容体が急変。25日午後0時24分、家族に看取られながら逝った。「最後は話すこともままならかった。眠るように息を引き取りました」。
今月7日に病院に駆けつけた高田氏に、呼吸器を外せない状況にもかかわらず、最後に外し手を握りかえして『ありがとう』と感謝の気持ちを表した。2週間ほど前に見舞った長嶋氏から「夢じゃないよ! おれだよ」と声を掛けられると、涙を浮かべて喜んだ。「同じ時代を生きてきた仲間がいってしまったと思うと、寂しくてなりません」と長嶋氏は惜別の情をにじませる。
長い闘病生活だった。2007年3月には、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けた。同年6月8日には病院から一時外出の許可を得て、東京ドームでの交流戦「巨人-楽天」での、球団通算5000勝セレモニーに長嶋氏らV9メンバーとともに参加。「V9の仲間たちともう一度グラウンドに立ちたいという気持ちが強くなった」とのコメントを残した。
今年に入ってからは「あと1カ月、あと1カ月」と自らに言い聞かせながら過ごす一方、食欲も旺盛でステーキを口にすることも。テレビのグルメ番組を見ては「“あれが食べたい、これが食べたい”と話していた」(関係者)ように、生命力にあふれていたが…。
土井さんは兵庫・育英高から立大へ進学。V9が始まった1965年に巨人に入団し1年目からレギュラーに定着。1メートル72、62キロの小柄な体から「オレにはONのような打力はない」と自ら脇役を望んだ。通算242犠打をマークしたバントの名手、進塁打など巧みな打撃ができる2番打者として、王、長嶋の前でチャンスメーカーを務めた。
伝説のプレーとして語り継がれるのは、69年の阪急との日本シリーズ第4戦(後楽園)。四回無死一、三塁から、一走・王との重盗で三走の土井さんが本塁へ突入。一瞬、捕手・岡村のブロックにはね飛ばされたかに見えたが、判定はセーフ。審判に抗議した岡村がシリーズ史上唯一の退場となるなど、球場は異様なムードに包まれたが、翌日の新聞には土井さんの足が本塁に触れた瞬間が写っていた。
引退後も長嶋、王監督のもとで通算11年コーチを務め、91年から3年間はオリックスの監督も務め、イチローも指導。名手・土井が、今度は天国から巨人軍の活躍を見守っていく。(サンスポ)
巨人の名二塁手と言われた土井氏がお亡くなりになりました。
正直、自分は晩年しか記憶にないのですが渋いプレーが
記憶にありますね。