パーソナルコンピュータの発祥
現在、私たちは身の回りに多数の電子機器群に囲まれた生活を送っている。モバイル端末である携帯電話、PDAやデジタルカメラ、GHP、ICカード、医療系ペースメーカーなど欠かせない存在となっている。それら電子機器が飛躍的に成長してきたのも、1948年に誕生した トランジスタの成功が大きい。
それまでは膨大な数の真空管を使い、1つの機械を作っていた。代表的なものに 1946年に完成した ENIAC がある。それから約50年。さらに部品の小型化は進み、1つのチップに何千万個分ものトランジスタが集積できるまでに技術が発達してきたのである。
1976年になると、NEC が送り出したコンピュータ、TK-80 が発売された。 TK-80は、マイコンブームのはしりとも言える存在で、現在のパーソナルコンピュータの基礎を作ったとも言える。発売のねらいは文字通り、技術者を養成するためであった。TKとは「トレーニングキット」の略。80は Intel 8080 の セカンドソースとしてNECが開発した uPD8080A から由来する。トレーニングキットという名称からも分かるように、マイクロコンピュータとはどのようなものか、実際に組み立てて分かってもらう事を目的にしたコンピュータであった。
その頃は、ラジオ、オーディオ、アマチュア無線の送・受信機の自作が盛んに行われており、ラジオ技術、CQ、トランジスタ技術などの技術雑誌には、4あるいは8bitのマイクロコンピュータの製作記事がいろいろと発表され、製作記事で使われた基盤の通信販売が行われるなど、コンピュータを作ろう、あるいは作ってみたいという基盤は出来上がっていた。コンピュータを動かすための基本的なプログラム(BIOSに相当)は、わずか 768バイトのモニターROMに収められていた。その後、日立のベーシックマスターや、SHARPのMZ-80Kの発売などがあるものの、日本初の本格的パーソナルコンピュータと呼べるものは、NECのPC-8001と言える。機械語は 0 と 1 で扱うが、それでは分かり難いので16進数でプログラミングしていく。これは初期の大型コンピュータも変わりらなかった。 大型コンピュータは、時代が進むにつれて人間が理解しやすい記号に置き換えたアセンブリ言語、さらに進化して Fortran や COBOL などが開発された。 プログラミング言語では、それらを総称して高級言語と呼んでいる。
しかし、TK-80にはそのような高級言語はなかった。いや、高級言語を入れるようなスペースが無かったのである。
「教材」として開発された TK-80 は、コンピュータの仕組みを理解してもらうためものであったが、一般には個人用のコンピュータとして認知されていたための大きな誤解を生んだ。 マイコンブームの起爆剤として大ヒットした TK-80は、1977年に発売された世界で初の本格的パーソナルコンピュータ Apple の AppleII に比べると、天と地の差で、AppleII はそれと比べると、あらかじめBASIC言語が入っており、家庭用テレビにカラー表示できるなど、個人用コンピュータとしては十分な能力を持っていました。 この年は、他社からも本格的パーソナルコンピュータが発売されるなどして、「コンピュータ元年」と言われた年であった。
個人用コンピュータの完成
同じくNECよりCOMPO BS(電源と外部記憶装置にカセットデッキを採用し、それらを ケースに収めた形状のコンピュータ)が発売され、個人用コンピュータの基礎が出来たといえる。その後NECでは新しい次世代のコンピュータを開発しようと考えていた。初の本格的パーソナルコンピュータといえる、PC-8000シリーズである。
PC-8001もまた、BASICを搭載することになるが、BASICのメーカーは何処にするのか決定しておらず、BASICのメーカーは、現在ではもっともメジャーな Microsoft の BASIC と、NEC の社内で開発された BASIC を搭載するか、といった所まで話が進んでいた。
Microsoftはビル・ゲイツらが起こした会社で、当時アメリカでのBASICのシェアが非常に大きく、勢力も十分な物であった。現在に至りMicrosoft Windowsなどによって大企業に成長している。
NEC社内で開発されたBASICは、Microsoftのそれと比べて高速な事が証明されていたが、NECはMicrosoft製のBASICを採用した。PC-8001の発売を成功させるためには、Microsoftの知名度を取るべきと言った意見があったためである。
PC-8001は、Microsoft BASIC が採用され、メインメモリ16KB、CPUに ザイログZ80互換 の uPD780C/14MHz 、そして目玉の8色カラー表示と、パーソナルコンピュータとしては申し分ない性能であった。
価格は、168,000円に設定し20万円を切っているという、驚異的な価格は、以前にICなどの集積回路分野を担当していたからなしえたことと言える。なぜなら、ICなどの集積回路は6年ごとに1桁値段が安くなると言う定説があり、それを狙って安く値段を設定できたのである。TK-80との最大の違いは、TK-80の教材用の制作キットとしてではなく、パーソナルコンピュータとして最初からの周辺機器に対応していることだったのである。
1979年に「マイクロコンピュータ ショウ'79」が開催され、そこにPC-8001も姿を見せた。PC-8001の制作プロジェクトが始まった頃は、TK-80の様な売れ方はしないだろうと考えられていたが、予想に反してショウでは大反響。 その後、マイコン雑誌でもPC-8001の特集が組まれ、高い評価が与えられた。PC-8001は発売前から予約が殺到し、生産が全く追いつかないと言う事態にまで発展し、1979年 8月の発売以来、数ヶ月入手できない日々が続いたようである。
世界的の動向
PC-8001の発売は、大成功を納めまた。その頃、世界のコンピュータではどうなっていたのであるうか。
世界のコンピュータの代表的メーカー、IBMのルーツは1896年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼる。その後、タイムレコーダと自動計り機のメーカーをまとめた CTR を設立。第二次世界大戦後の1924年には、現在のIBM(International Business Group) に社名変更された。
紙に穴をあける装置と、それを仕分ける装置、仕分けたデータを処理する装置をまとめた、「パンチ・カード・システム」をレンタル制で供給する商品によって、IBMは勢力を伸ばしていった。
IBMはその後もパンチカードシステムのノウハウを生かして、電子計算機の分野で大きな発展を遂げた。代表的な物に、UNIVAC、7000Series、事務用の1400Series、System360などが挙げられる。
IBMもまた、1980年にはパーソナルコンピュータの開発に着手していた。当時は Apple の AppleII が大きなシェアを獲得していた。 AppleII は、内部のアーキテクチャを公に公開しており、外部メーカによる周辺機器の発売など、 サードパーティーが入りやすい環境が整えられていたためである。
後の 1981年8月、IBMは 16bitパソコン IBM PC の発表に至っている。 CPUに Intel 8088、メモリは16KB(最大で256KB) 、ROMに納められたMicrosoft BASIC、ビジネスを意識した本格的なキーボード、5つある拡張スロットと、本格的な物に仕上がっていた。 外部記憶装置に当時一般的だったカセットテープレコーダも繋げられることもできが、グラフィックスに関しては、AppleIIの方が上であった。
しかし、オペレーティングシステムにMicrosoft BASICと、CP/Mとの互換性を持った PC-DOSを柱とし、CP/M-86も提供するなど、ユーザーが選択出来るといった特徴もあった。そして、もっとも注目する点は、IBM PCの徹底したオープンアーキテクチャである。 回路図、技術情報から、BIOSの仕様に至るまで、全面的に公開していたのである。
PC-8801の発売
IBM PCが発売された頃、NECも 1981年 に2つのパーソナルコンピュータを発表している。一つは、コンピュータ入門機の PC-6001、もう一つはビジネス用途と言える PC-8801 である。PC-6001は、初めてコンピュータにさわると言った一般けに開発されたもので、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームや学習物などのアプリケーションを使えた。PC-6001もまた、Microsoft BASICを採用していたが、PC-8001のそれとは互換性が無く、PC-8001のソフトはそのまま使えなかった。一方、ビジネス用途で使うことを意識して作られた PC-8801 は、解像度を PC-8001 のレベルから大幅に高め、複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネス用途にも耐えられるようになっていた。しかし、実際の漢字ROMを標準搭載する所まではいかなかった。これは、他社メーカーである富士通の FM-8 と同じである。PC-8801は、パワーアップしたハードウェアを生かすため、Microsoft N88-BASICを採用。加えて、従来のPC-8001に搭載されていた N-BASIC を利用できる構造になっていた。発表された2機種は、どちらとも8bitパソコンではあったが、PC-8801においては 16bitパソコンである IBM PC に処理速度の面で勝っていた。PC-8801は、16bit パソコンの一歩手前まで来ていたのである。
PC-9801の発売とNECシェアの拡大
1982年10月、大ヒットシリーズPC-9801が発表された。PC-9801は、初の16ビットパソコンとして姿を現した。CPUにIntel 8086/5MHz、メモリ128KBというスペックに加え、 グラフィック処理スチップであるGDCや、PC-8801と互換のN88-BASIC(86)を内蔵していた。N88-BASIC(86)は、一時期著作権の関係で問題になりましたが、著作権名やライセンス料を支払うことによって和解し、発表に至った。PC-9801は、IBM PCと同じ16bitのCPUを採用していたが、IBM PCは Intel 8088 と言う内部は16bitで処理し、外部との通信は8bitで処理するCPUを採用。しかし、PC-9801はIntel 8086と言う内部/外部処理共に16bitのCPUを採用した。
PC-9801の滑り出しは好調ではあったが、当初ソフトウェアの本数が少なく、8bitパソコンを使ってきたユーザーが、より早いパソコンを求めてPC-9801に飛びつくと言った事はあったが、肝心のビジネス層にはなかなか受け入れられなかった。 しかし、しばらくするとPC-9801用と銘打った製品もソフトハウスから発売され、ようやく8bitパソコンに届くぐらいのソフトウェアの本数となった。この間は、NECとソフトハウスの大変な努力によってなしえたことだといえる。
アメリカでは 1982年 に IBM PC の新機種、XTの発表をしたが、XTは10MBのハードディスクを内蔵し、IBM PCのシェアはますます大きくなっていった。
Microsoftは大量の情報を階層化により効率的に管理できるMS-DOS 2.0の開発などを行っていました。 PC-9801には、このようなソフトウェアが必要だったと言える。既に MS-DOS 1.25はPC-9801用に用意していたものの、このような機能は搭載していなかった。
PC-9801のソフトウェアは、増えたと言っても依然とBASICで書かれており、そして売れるソフトはゲームであった。この頃、アメリカのIBM PCではOSにBASICではなく、CP/Mを採用し表計算やワードプロセッサ、データベースと多彩なビジネスソフトウェアが生まれ、 16bitパソコンになると、MS-DOSによって新たな時代が築かれようとしていた。
NECは、OSのターゲットとしてMS-DOSを選択。Microsoftからライセンスを会得し、PC-9801用に移植を行った。ソフトメーカに対し起動する際のバンドル料、つまりサブライセンス料は「いっさい対価を求めない」とした。それがソフトウェア普及のためには、最適な方法であった。
IBMの日本支社である、日本IBMもまた、漢字が表示できるパソコンを開発した。完成した機種は IBM PC/JX と名付けられ、1984年に発表。JXは CPU に Intel 8088を採用していたが、IBM PC/XTをベースに日本語化したもので、これが失敗の元だったといえる。 Intel 8088は外部とのやりとりは 8bit で行うため、16bit化の波に飲まれてしまったのです。
後に日本IBMは、IBM PC/ATをソフトウェアのみでグラフィックスを使って日本語化する、PC-100と似たようなシステムを採用したOS、DOS/Vによってようやく日本語対応マシンを築き上げることが出来た。1990年の出来事である。 PC/ATはPC/XTの最上位機種として発売されたマシンで、CPUにIntel 80286を採用、グラフィックスやインターフェイスを大幅に強化し、後に標準アーキテクチャとして生き続けることとなる。
同年にはAppleのMacintoshが発売されている。MacintoshのGUIは洗練されたイメージがあり、価格帯も $2,495 と決して高くはなかった。しかし、メモリ容量128KBと少なく、フロッピードライブの容量も400KBと少なすぎたのが原因で目標をはるかに下回る販売台数 の低迷に苦しめられた。ハードウェアの問題以外にも、ソフトウェアが少なすぎたという事も上げられる。グラフィックスをメインに使うコンピュータの割にはRAM容量が少なすぎたのである。
キラーソフト、日本語ワープロ登場
1985年に Justsystemは 元々PC/JX用だったソフトウェアを、PC-9801に移植したjX-WORD太郎という名前で発売。同年8月には、PC-9801用のワードプロセッサとして 一太郎 を発売。 一太郎の発売は大成功し、MS-DOS普及に大きく貢献した。この時点で、PC-9801は日本で圧倒的なシェアを占めていた。1980年代からおよそ10年間の間の話である。日本IBMからPC/ATに日本語を表示できるOS、DOS/Vが発表されるまでは、この状態が続いた。1995年までに、PC-9801シリーズは累計で1000万台の出荷を記録していった。
Microsoft Windows の発売と現在
1995年になると、Microsoft Windows95が発表されます。Windows95はWindows3.1の後継OSで、パソコンの普及に多大な貢献をすることになった。Windowsは、MS-DOS上にGUIを提供することを目的として開発されたもので、Windowsの源型ともいえる Windows1.0 は1983年に発売されている。しかし、Windows1.0はMacintoshのGUIなどと比べると桁外れに劣っていた。当時 8086 などのCPUでは、Windowsを動かす為には力不足だったためである。1987年には、ウインドウを重ね合わせることが出来る Windows2.0 を発表。しかし、Macintoshの見かけと使い勝手をコピーしていると訴えられ、Windowsの足を引っ張った。その後、1990年になってWindows3.0を発表。日本では 1993年の Windows3.1 によって、広く普及した。Windows95は、Windows3.1の使い勝手をさらに高めたOSで、機種間の差を取り払うために作られたOSである。 機種間の差を取り払うことは以前のバージョンでも行われていましたが、きちんとした規格を定めていなかったために、あまり機種間の差は取り除かれいなかった為、機種ごとOSが異なるといった状況も見られた。
Windowsは画面の情報をすべてグラフィックに任せるため、PC-9801の利点であるテキスト処理が生かされなくなる。そのため、PC-9801はDOS/Vの発表と共に徐々にシェアを落としていった。この時点で98の独自性は損なわれたのである。
1997年10月、NECはついに PC-9801 のアーキテクチャを捨て、PC/ATのアーキテクチャを取り入れたPC98-NXを発表、現在に至っている。これは、PC-9801を採用し続ける意味が問われたためです。この時点で、PC-9801のシェアは非常に落ちていた。現在では、WindowsXPの発売もあり、ユーザーはハードウェアとの密接な関係を知らなくても操作できるまでに便利になってきている。
現在、私たちは身の回りに多数の電子機器群に囲まれた生活を送っている。モバイル端末である携帯電話、PDAやデジタルカメラ、GHP、ICカード、医療系ペースメーカーなど欠かせない存在となっている。それら電子機器が飛躍的に成長してきたのも、1948年に誕生した トランジスタの成功が大きい。
それまでは膨大な数の真空管を使い、1つの機械を作っていた。代表的なものに 1946年に完成した ENIAC がある。それから約50年。さらに部品の小型化は進み、1つのチップに何千万個分ものトランジスタが集積できるまでに技術が発達してきたのである。
1976年になると、NEC が送り出したコンピュータ、TK-80 が発売された。 TK-80は、マイコンブームのはしりとも言える存在で、現在のパーソナルコンピュータの基礎を作ったとも言える。発売のねらいは文字通り、技術者を養成するためであった。TKとは「トレーニングキット」の略。80は Intel 8080 の セカンドソースとしてNECが開発した uPD8080A から由来する。トレーニングキットという名称からも分かるように、マイクロコンピュータとはどのようなものか、実際に組み立てて分かってもらう事を目的にしたコンピュータであった。
その頃は、ラジオ、オーディオ、アマチュア無線の送・受信機の自作が盛んに行われており、ラジオ技術、CQ、トランジスタ技術などの技術雑誌には、4あるいは8bitのマイクロコンピュータの製作記事がいろいろと発表され、製作記事で使われた基盤の通信販売が行われるなど、コンピュータを作ろう、あるいは作ってみたいという基盤は出来上がっていた。コンピュータを動かすための基本的なプログラム(BIOSに相当)は、わずか 768バイトのモニターROMに収められていた。その後、日立のベーシックマスターや、SHARPのMZ-80Kの発売などがあるものの、日本初の本格的パーソナルコンピュータと呼べるものは、NECのPC-8001と言える。機械語は 0 と 1 で扱うが、それでは分かり難いので16進数でプログラミングしていく。これは初期の大型コンピュータも変わりらなかった。 大型コンピュータは、時代が進むにつれて人間が理解しやすい記号に置き換えたアセンブリ言語、さらに進化して Fortran や COBOL などが開発された。 プログラミング言語では、それらを総称して高級言語と呼んでいる。
しかし、TK-80にはそのような高級言語はなかった。いや、高級言語を入れるようなスペースが無かったのである。
「教材」として開発された TK-80 は、コンピュータの仕組みを理解してもらうためものであったが、一般には個人用のコンピュータとして認知されていたための大きな誤解を生んだ。 マイコンブームの起爆剤として大ヒットした TK-80は、1977年に発売された世界で初の本格的パーソナルコンピュータ Apple の AppleII に比べると、天と地の差で、AppleII はそれと比べると、あらかじめBASIC言語が入っており、家庭用テレビにカラー表示できるなど、個人用コンピュータとしては十分な能力を持っていました。 この年は、他社からも本格的パーソナルコンピュータが発売されるなどして、「コンピュータ元年」と言われた年であった。
個人用コンピュータの完成
同じくNECよりCOMPO BS(電源と外部記憶装置にカセットデッキを採用し、それらを ケースに収めた形状のコンピュータ)が発売され、個人用コンピュータの基礎が出来たといえる。その後NECでは新しい次世代のコンピュータを開発しようと考えていた。初の本格的パーソナルコンピュータといえる、PC-8000シリーズである。
PC-8001もまた、BASICを搭載することになるが、BASICのメーカーは何処にするのか決定しておらず、BASICのメーカーは、現在ではもっともメジャーな Microsoft の BASIC と、NEC の社内で開発された BASIC を搭載するか、といった所まで話が進んでいた。
Microsoftはビル・ゲイツらが起こした会社で、当時アメリカでのBASICのシェアが非常に大きく、勢力も十分な物であった。現在に至りMicrosoft Windowsなどによって大企業に成長している。
NEC社内で開発されたBASICは、Microsoftのそれと比べて高速な事が証明されていたが、NECはMicrosoft製のBASICを採用した。PC-8001の発売を成功させるためには、Microsoftの知名度を取るべきと言った意見があったためである。
PC-8001は、Microsoft BASIC が採用され、メインメモリ16KB、CPUに ザイログZ80互換 の uPD780C/14MHz 、そして目玉の8色カラー表示と、パーソナルコンピュータとしては申し分ない性能であった。
価格は、168,000円に設定し20万円を切っているという、驚異的な価格は、以前にICなどの集積回路分野を担当していたからなしえたことと言える。なぜなら、ICなどの集積回路は6年ごとに1桁値段が安くなると言う定説があり、それを狙って安く値段を設定できたのである。TK-80との最大の違いは、TK-80の教材用の制作キットとしてではなく、パーソナルコンピュータとして最初からの周辺機器に対応していることだったのである。
1979年に「マイクロコンピュータ ショウ'79」が開催され、そこにPC-8001も姿を見せた。PC-8001の制作プロジェクトが始まった頃は、TK-80の様な売れ方はしないだろうと考えられていたが、予想に反してショウでは大反響。 その後、マイコン雑誌でもPC-8001の特集が組まれ、高い評価が与えられた。PC-8001は発売前から予約が殺到し、生産が全く追いつかないと言う事態にまで発展し、1979年 8月の発売以来、数ヶ月入手できない日々が続いたようである。
世界的の動向
PC-8001の発売は、大成功を納めまた。その頃、世界のコンピュータではどうなっていたのであるうか。
世界のコンピュータの代表的メーカー、IBMのルーツは1896年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼる。その後、タイムレコーダと自動計り機のメーカーをまとめた CTR を設立。第二次世界大戦後の1924年には、現在のIBM(International Business Group) に社名変更された。
紙に穴をあける装置と、それを仕分ける装置、仕分けたデータを処理する装置をまとめた、「パンチ・カード・システム」をレンタル制で供給する商品によって、IBMは勢力を伸ばしていった。
IBMはその後もパンチカードシステムのノウハウを生かして、電子計算機の分野で大きな発展を遂げた。代表的な物に、UNIVAC、7000Series、事務用の1400Series、System360などが挙げられる。
IBMもまた、1980年にはパーソナルコンピュータの開発に着手していた。当時は Apple の AppleII が大きなシェアを獲得していた。 AppleII は、内部のアーキテクチャを公に公開しており、外部メーカによる周辺機器の発売など、 サードパーティーが入りやすい環境が整えられていたためである。
後の 1981年8月、IBMは 16bitパソコン IBM PC の発表に至っている。 CPUに Intel 8088、メモリは16KB(最大で256KB) 、ROMに納められたMicrosoft BASIC、ビジネスを意識した本格的なキーボード、5つある拡張スロットと、本格的な物に仕上がっていた。 外部記憶装置に当時一般的だったカセットテープレコーダも繋げられることもできが、グラフィックスに関しては、AppleIIの方が上であった。
しかし、オペレーティングシステムにMicrosoft BASICと、CP/Mとの互換性を持った PC-DOSを柱とし、CP/M-86も提供するなど、ユーザーが選択出来るといった特徴もあった。そして、もっとも注目する点は、IBM PCの徹底したオープンアーキテクチャである。 回路図、技術情報から、BIOSの仕様に至るまで、全面的に公開していたのである。
PC-8801の発売
IBM PCが発売された頃、NECも 1981年 に2つのパーソナルコンピュータを発表している。一つは、コンピュータ入門機の PC-6001、もう一つはビジネス用途と言える PC-8801 である。PC-6001は、初めてコンピュータにさわると言った一般けに開発されたもので、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームや学習物などのアプリケーションを使えた。PC-6001もまた、Microsoft BASICを採用していたが、PC-8001のそれとは互換性が無く、PC-8001のソフトはそのまま使えなかった。一方、ビジネス用途で使うことを意識して作られた PC-8801 は、解像度を PC-8001 のレベルから大幅に高め、複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネス用途にも耐えられるようになっていた。しかし、実際の漢字ROMを標準搭載する所まではいかなかった。これは、他社メーカーである富士通の FM-8 と同じである。PC-8801は、パワーアップしたハードウェアを生かすため、Microsoft N88-BASICを採用。加えて、従来のPC-8001に搭載されていた N-BASIC を利用できる構造になっていた。発表された2機種は、どちらとも8bitパソコンではあったが、PC-8801においては 16bitパソコンである IBM PC に処理速度の面で勝っていた。PC-8801は、16bit パソコンの一歩手前まで来ていたのである。
PC-9801の発売とNECシェアの拡大
1982年10月、大ヒットシリーズPC-9801が発表された。PC-9801は、初の16ビットパソコンとして姿を現した。CPUにIntel 8086/5MHz、メモリ128KBというスペックに加え、 グラフィック処理スチップであるGDCや、PC-8801と互換のN88-BASIC(86)を内蔵していた。N88-BASIC(86)は、一時期著作権の関係で問題になりましたが、著作権名やライセンス料を支払うことによって和解し、発表に至った。PC-9801は、IBM PCと同じ16bitのCPUを採用していたが、IBM PCは Intel 8088 と言う内部は16bitで処理し、外部との通信は8bitで処理するCPUを採用。しかし、PC-9801はIntel 8086と言う内部/外部処理共に16bitのCPUを採用した。
PC-9801の滑り出しは好調ではあったが、当初ソフトウェアの本数が少なく、8bitパソコンを使ってきたユーザーが、より早いパソコンを求めてPC-9801に飛びつくと言った事はあったが、肝心のビジネス層にはなかなか受け入れられなかった。 しかし、しばらくするとPC-9801用と銘打った製品もソフトハウスから発売され、ようやく8bitパソコンに届くぐらいのソフトウェアの本数となった。この間は、NECとソフトハウスの大変な努力によってなしえたことだといえる。
アメリカでは 1982年 に IBM PC の新機種、XTの発表をしたが、XTは10MBのハードディスクを内蔵し、IBM PCのシェアはますます大きくなっていった。
Microsoftは大量の情報を階層化により効率的に管理できるMS-DOS 2.0の開発などを行っていました。 PC-9801には、このようなソフトウェアが必要だったと言える。既に MS-DOS 1.25はPC-9801用に用意していたものの、このような機能は搭載していなかった。
PC-9801のソフトウェアは、増えたと言っても依然とBASICで書かれており、そして売れるソフトはゲームであった。この頃、アメリカのIBM PCではOSにBASICではなく、CP/Mを採用し表計算やワードプロセッサ、データベースと多彩なビジネスソフトウェアが生まれ、 16bitパソコンになると、MS-DOSによって新たな時代が築かれようとしていた。
NECは、OSのターゲットとしてMS-DOSを選択。Microsoftからライセンスを会得し、PC-9801用に移植を行った。ソフトメーカに対し起動する際のバンドル料、つまりサブライセンス料は「いっさい対価を求めない」とした。それがソフトウェア普及のためには、最適な方法であった。
IBMの日本支社である、日本IBMもまた、漢字が表示できるパソコンを開発した。完成した機種は IBM PC/JX と名付けられ、1984年に発表。JXは CPU に Intel 8088を採用していたが、IBM PC/XTをベースに日本語化したもので、これが失敗の元だったといえる。 Intel 8088は外部とのやりとりは 8bit で行うため、16bit化の波に飲まれてしまったのです。
後に日本IBMは、IBM PC/ATをソフトウェアのみでグラフィックスを使って日本語化する、PC-100と似たようなシステムを採用したOS、DOS/Vによってようやく日本語対応マシンを築き上げることが出来た。1990年の出来事である。 PC/ATはPC/XTの最上位機種として発売されたマシンで、CPUにIntel 80286を採用、グラフィックスやインターフェイスを大幅に強化し、後に標準アーキテクチャとして生き続けることとなる。
同年にはAppleのMacintoshが発売されている。MacintoshのGUIは洗練されたイメージがあり、価格帯も $2,495 と決して高くはなかった。しかし、メモリ容量128KBと少なく、フロッピードライブの容量も400KBと少なすぎたのが原因で目標をはるかに下回る販売台数 の低迷に苦しめられた。ハードウェアの問題以外にも、ソフトウェアが少なすぎたという事も上げられる。グラフィックスをメインに使うコンピュータの割にはRAM容量が少なすぎたのである。
キラーソフト、日本語ワープロ登場
1985年に Justsystemは 元々PC/JX用だったソフトウェアを、PC-9801に移植したjX-WORD太郎という名前で発売。同年8月には、PC-9801用のワードプロセッサとして 一太郎 を発売。 一太郎の発売は大成功し、MS-DOS普及に大きく貢献した。この時点で、PC-9801は日本で圧倒的なシェアを占めていた。1980年代からおよそ10年間の間の話である。日本IBMからPC/ATに日本語を表示できるOS、DOS/Vが発表されるまでは、この状態が続いた。1995年までに、PC-9801シリーズは累計で1000万台の出荷を記録していった。
Microsoft Windows の発売と現在
1995年になると、Microsoft Windows95が発表されます。Windows95はWindows3.1の後継OSで、パソコンの普及に多大な貢献をすることになった。Windowsは、MS-DOS上にGUIを提供することを目的として開発されたもので、Windowsの源型ともいえる Windows1.0 は1983年に発売されている。しかし、Windows1.0はMacintoshのGUIなどと比べると桁外れに劣っていた。当時 8086 などのCPUでは、Windowsを動かす為には力不足だったためである。1987年には、ウインドウを重ね合わせることが出来る Windows2.0 を発表。しかし、Macintoshの見かけと使い勝手をコピーしていると訴えられ、Windowsの足を引っ張った。その後、1990年になってWindows3.0を発表。日本では 1993年の Windows3.1 によって、広く普及した。Windows95は、Windows3.1の使い勝手をさらに高めたOSで、機種間の差を取り払うために作られたOSである。 機種間の差を取り払うことは以前のバージョンでも行われていましたが、きちんとした規格を定めていなかったために、あまり機種間の差は取り除かれいなかった為、機種ごとOSが異なるといった状況も見られた。
Windowsは画面の情報をすべてグラフィックに任せるため、PC-9801の利点であるテキスト処理が生かされなくなる。そのため、PC-9801はDOS/Vの発表と共に徐々にシェアを落としていった。この時点で98の独自性は損なわれたのである。
1997年10月、NECはついに PC-9801 のアーキテクチャを捨て、PC/ATのアーキテクチャを取り入れたPC98-NXを発表、現在に至っている。これは、PC-9801を採用し続ける意味が問われたためです。この時点で、PC-9801のシェアは非常に落ちていた。現在では、WindowsXPの発売もあり、ユーザーはハードウェアとの密接な関係を知らなくても操作できるまでに便利になってきている。