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西中島だより

ARC建築設計工房の代表のパートナーによる日々雑感です。
日々の暮らしを通して住まいについて綴りたいと思います。

住まいの原風景 上野八丁目の家 Part3  

2007年08月27日 | 住まいの原風景
 その頃の分譲住宅は、電気と水道は引かれていましたが、
ガスはプロパンガスで、風呂はまだマキで焚いていました。

 敷地にはゆとりがあったので、東西に細長く、
南に面した部屋が多かったので、全体的に
明るく、風通しの良い家だったように思います。
そして、部屋は4.5帖とか、せいぜい6.0帖の広さ
ですが、関西間でどの部屋も真ん中の板の間と続き間に
なっていたので、あまり狭苦しい感じはありませんでした。

 玄関を入って、右手に水回りがあり、正面に茶の間の
4.5帖と4.0帖の板の間が続きます。
その板の間の北側に4.5帖の和室、東側に6.0帖の
床の間が続いています。

 この4.0帖しかない板の間は今から思えば不思議な空間です。
南側の庭へは、この部屋からしか出れないので、
唯一外との繋がりを感じる部屋であり、
全ての部屋と繋がる真ん中にあるので
通り道になってしまう部屋なのですが、
マルチな用途に使える部屋でもありました。
小さな頃の記憶には、この板の間での思い出が
なぜか多いのです。各部屋の建具と、庭への掃きだし口を
開け放してしまうと結構広々した空間となり、
今思えば小さな家なのに、小さい頃の記憶では、
広々とした思い出になっているのです。

 この庭が近い感覚が今ではなかなか味わうことの
できない感覚のような気がします。

住まいの原風景 上野八丁目の家 Part2  by kuni

2007年05月01日 | 住まいの原風景
 家が坂の一番上にあったので、
台所から坂の下のバス停の終点のロータリーが
見えて、バスが見えてから150m程の坂を走って
降りると、バスに間に合ったという事でした。

 その坂の下に八百屋さんがあって、
当時、家には電話が無かったので、
緊急の用事の時には、そこに電話がかかって、
知らせにきてもらったりしました。

 家の前の坂道は、ここで行き止まりになっていて、
その先は小山になっていましたが、その小山を登っていくと、
小さな小道になって、向こう側の町へとつながって
いました。
(後にこの小山が切り崩されて、道路がつながり、
道も拡張されて、我家は立ち退きとなってしまうのですが・・・)

このような環境だったので、こどもの遊び場としては、
事欠くことなく、近所の友達の家の庭々をてんてんと
渡り歩き、裏の山や、空き地もすべてが遊び場となっていました。

へんぴな場所とはいえ、田舎でもない所で、こんなに
自然を感じて暮らしていたという事に、今になって
非常に大きな驚きを感じています。
今、同じような場所に、これぐらいの自然を感じる事のできる
家を建てるのは非常に難しいと思えるのです。

住まいの原風景 上野8丁目の家 Part1     by kuni

2007年04月30日 | 住まいの原風景
この家は、私が生まれて7年間住んでいたところです。
今はもうこの地名はなく、便利な住宅街となっていますが、
かれこれ40年位前のそのあたりは、とてもへんぴな場所でした。

写真は上が約40年前の家の前の坂道です。
下は数年前の同じ坂道です。

 私鉄の駅から乗ったバスの終点で降りてから、舗装のしていない
一本のだらだらとした坂道を登りきった処に家がありました。
その緩やかな斜面に府の分譲住宅が建っていました。
今の建売分譲住宅のはしりだったと思います。

 土地の価格がまだ高騰していない時期でったのでしょう。
小さな平屋の家にけっこう広い庭がついていました。
周りも似たような間取りで同じ様な家がたくさん並んで
いましたが、今と違い、のんびりと建てられていたので、
長閑な感じでした。
今では考えられないぜいたくな建て方ですね。

 庭がけっこうあったので、どの家も大きな木なども植えていました。
うちの家にも桜(ソメイヨシノ)、山桜、樫、槙などの他、
山茶花、柊、南天、金木犀、藤棚、青桐、薔薇、柘榴なども植わって
いました。
元々丘陵地を切り開いて分譲地にした処で、うちの家はその一番
奥だったので、南側の家の裏は荒地で、東側は小山が
迫っていました。
 ですから、庭にいると、さながら荒野の一軒家のような
感じだったと思います。

 ほんの小さな頃の記憶ですが、今でも四季の光景が蘇ります。
春には庭に様々な花が咲き乱れ、蝶や蜜蜂の羽音が聞こえ、
夏には小さな池に魚の泳ぐさざなみが揺れ、
秋には隣の荒地はすすき野となり、木々の枯葉が庭の隅に
吹き溜まりとなってクッションのようにうず高く積もっていました。
そして、冬になると、木枯らしが吹き、一気にモノクロの世界へと
移っていきました。

住まいの原風景  加納の家     by kuni

2007年02月05日 | 住まいの原風景
東大阪にあった母方の祖父母の家は、
今は残念ながら、もうありませんが、かなり古い家でした。
何でも古い庄屋の母屋の隠居所だったそうで、
典型的な平入りの田の字型の民家の様相をしていました。

 南入りの大きな引戸を開けると、ずっと奥まで
通り庭の土間が続き、北側にも引戸があり、
通り抜けられるようになっていました。
 土間の西側には本来の玄関である6帖の間があり、
更に西側に8帖の座敷が続いています。
 座敷の北側は6帖の間、その東側は4.5帖の茶の間と
言う具合に田の字型に部屋が配置されています。
 座敷の南側には半間の縁が続き、その南側にせん栽という
塀で囲まれた小さな庭が造られていました。
 土間の東側には6帖の下部屋があり、北側には
土間から続いた炊事場となっていて、おくどさんが
据えられていました。
 私が覚えている頃には、もうおくどさんは使われておらず、
ガス台が置かれていたと思います。
水道もありましたが、家の南東にある井戸は残っていて、
祖母はそこで、洗濯したり、夏には、井戸の中に西瓜を吊るして
冷やしたりしていました。

 小さい頃、親に連れられて遊びに行った時、
土間の入口の引戸を開けて中に入ったときのひんやりとした
土間と、古い木造の家の匂いを今でも覚えています。
 床高はだいぶんあったようで、土間から部屋の上がり口は、
一段下がった巾一間ほどの板敷となっていました。
ここは、夏にはひんやりと涼しく、よくここで遊びました。
 この板敷の場所はちょうど土間と畳の間の中間の場なので、
土間と畳の間の作業の流れの中で非常に大事な場所のような
気がします。普段の来客には接待の場となり、食事の
配膳の場となり、土間でも畳の間でもどちらにも使いやすい
物置の場ともなっていたように思います。

 大阪府内とはいうものの、まだまだ田畑の多く残る昔からの村
でしたので、私にとっては、田舎といえるような家でした。

 今図面にしてみると、決して大きな家ではないのですが、
部屋と部屋は全て建具で仕切られているので、
昼間は全て開け放されていることが多いせいか、
小さい頃の記憶では、かなり広い家のイメージとして
残っています。
そして、若い頃には住みたい家という風には思っていなかった
のですが、最近になって、古い木の匂いのする開放感のある
この家がとても懐かしく感じられるのです。

 京都の町家や、あちこちにある古い民家でも、
昔住んだわけではないのに、むしょうに懐かしい感じが
したり、住みたいと思ったりするのは、知らない間に
日本人のDNAが体の奥で感じとっているのでしょうか。


 

住まいの原風景  勝浦の家2   by kuni

2006年09月08日 | 住まいの原風景
 元々農家でしたので、このあたりの標準的な家だったのかと
思いますが、今も暮らしておられる家々は皆、建替えられて
いるところが多く、うちのような古い家は殆ど残っていない
ようで具体的なことはわからないのは残念です。

 大きくもない家ですが、部屋と部屋は殆ど建具で続いているので、
建具を取り払うと家中が見渡せてしまい、とても開放感があります。
風通しがよく、夏の日中も家の中は風が通り、涼しいです。
窓を開け放すと、田んぼを渡ってくる風の気持ちよさは
何ともいえません。

 40~50年前までのこの家の暮らしは、米も野菜も自分の畑で採れるし
山羊や牛や鶏も家で飼い、時折、魚屋さんが、魚を売りに村にやって来て、
食物は殆どそれで賄っていたとのことです。
 土間には泥や土のついた作物を持ち込むことができ、
床下には、作物を貯蔵できる空間がこしらえてあり、
籾を敷き込んで芋などを越冬させていたそうです。
裏庭には井戸があり、井戸から汲み上げた水を土間においた瓶に
入れて、料理に使っていたそうです。
 そして、土間の真ん中にはかまどがあり、山の手入れをして
こしらえた薪を使って煮炊きをしていたそうです。
今も小さなかまどを残してあるので、春や秋に帰省した折に使うことも
ありますが、肌寒い朝に火を焚いて、ぱちぱちと薪の燃える音を
聞きながら、体を温め暖かい赤い火を見つめていると、
とても気持ちが良く、心も温まります。
そして湯を沸かしたり、煮炊きした後の“おき”(薪が炭になったもの)で
魚の干物を焼くと何とも香ばしくて美味しいです。
 同じように風呂も薪で沸かしますし、トイレは汲み取りで、昔は肥料として
使っていたそうです。

 もし、地震などが起こって電気やガスが止められてしまった時、
こういう家であれば生き延びられるなと、ふと思うのです。
そう考えると、昔の家は、自然を拒否せず、自然を取り込み、
自然を生かして自然の中で生活する人間の知恵を感じさせてくれる
エコ住宅であったと言えるように思います。
 今の街の中にこの家をいきなり持ってきても機能しませんが、
人が生活するということを考えさせてくれる家であると思います。

住まいの原風景   勝浦の家1     by kuni

2006年09月04日 | 住まいの原風景
主人が11歳まで住んでいた田舎の家ですが、
普段は空き家にしていることもあり、もうあちこち
傷んで古家となってしまっています。

曽々祖父が建てたので、もう120~130年経っていると
思われます。その間にも何度も改築したり、修繕したりで
かなり元の原型からは変わってしまっているようですが、
柱や梁は昔のままで、太く黒光りしています。

家の広さは約4間×5間で、南入りの玄関が家の中央にあり、
その奥に2帖の納戸、左には(西側)床の間のある6帖の座敷と
4.5帖の次の間、右には(東側)茶の間と台所というレイアウトです。

昔の関西の民家によくある田の字型の変形タイプという感じです。
台所の真ん中には小さなかまどがあり、これは40年位前に
新しく据えられました。
台所の上は小屋組がそのまま見えていて、数年前に屋根の修理をするまでは
天窓もありました。
かまどの煙突がそのまま、屋根まで突き抜けています。
台所の北側の勝手口を出ると、裏に別棟に納屋とトイレと風呂が続いています。

約40年前に道路の拡張工事に伴い、大掛かりに改装したそうですが、
前には西側の座敷の更に西側に2階建ての蔵と、納戸があり、
東側の台所は土間でもっと大きなかまどが据えられていたそうです。
茶の間は、“みせ”と呼ばれる板敷きの間で、昔は街道沿いだったこともあり、
ここで飴やをしていたこともあるそうです。


住まいの原風景について      by kuni

2006年06月30日 | 住まいの原風景
 かれこれ数十年(?)住まいに関する仕事に関わってきたのですが、
仕事をする以前、つまりこどもの頃の生活体験というのも、
多分今の仕事をしていく上で大きな役割を果たしてしる様な気がします。
こどもの頃、親と暮した家、時折訪ねた祖父母の家、親戚の家など、
今だに鮮やかにいろんな体験と共に記憶に残っています。

 自分の暮らしの原点、住まいの原点を振り返り、探ってみることで、
今はなかなか味わうことのできない当時の長閑な家事情を記録しておきたい
という気持ちと、これからの住まい造りに対する考え方を今一度見直す機会にも
なるのではないかと思い、少しづつ書き記していきたいと思っています。