イエメンが乾いた土地であることくらいは、絶望的に地理オンチの私でもわかります。
そのイエメンで釣り。しかも鱒じゃなくて鮭。いや、そもそもなぜ釣り?
「何だろう」と思わずにいられないタイトルです。
イエメンで鮭釣りを
著者:ポール・トーディ
訳者:小竹由美子
発行:白水社
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始まりは、イギリスの水産学者フレッドの日記、そして、幾人かの人たちの間で交わされるメール。
イエメンの有力者から故国の川で釣りをできるようにしたいという依頼があったので助言と協力を乞うというものです。
「そんなの無理」で話は終わりのつもりのフレッドでしたが、本人のあずかり知らぬところでこの貧乏くじ、何かを夢見ているようなプロジェクトを押しつけられてしまいます。
登場人物たちの日記やメール、手紙、新聞記事、テレビ番組、審問の記録など、公私入り乱れて語られていく出来事の表と裏と側面。
フレッドを気の毒に思いながらも、途中まで、私は確かにコメディと思いながら読んでいたと思います。ちょっと皮肉っぽいコメディ。
突拍子もないプロジェクトの周りには、出世狙いの上司や美しく魅力的なエージェントだったり、上昇志向の強いフレッドの奥さん、そうかと思えば、うさんくさい首相の広報担当や強硬なテロリストたちであったりと、それぞれに我が意を通そうとする人たち、そして、無責任なやじ馬たちがわんさかいるのですから。
それに加えて、この作品がウッドハウスの名を含んだ文学賞の受賞作と知っては…。
それを変えたのは事の出発点、釣りをできるようにしたいと言い出した張本人であるシャリフの存在感です。
作中でフレッドがシャリフに影響されてしまったように、物語もこの妙に覚悟ができてしまっている登場人物によって、人の現実的な営みの向こうに目に見えない何かを意識させるような印象を持ち始めます。
シャリフがフレッドに幾度となく語ったのは「信じる」ということ。
砂の国の人ですからシャリフの思いの先にはある神の存在がありますが、「信じる」即「信仰」ということではなく、奇跡を待つわけでもなく、彼の覚悟は私の知っている言葉なら「人事を尽くして天命を待つ」が近いような気もします。
それが、渦中の人のはずのシャリフに不思議な静けさ感じさせたのかもしれません。
一方、渦にもまれにもまれ続けるフレッド。
彼はシャリフの言う「信じる」ということについて考えながら、プロジェクトの成功を目指して過ごした日々を語っていきます。
そして、やってくるその日。
どれほど願い、努めれば、望みは叶うものなのか。
望みが叶う、叶わないの境があるとすればどこか。
あきらめなければいつか叶う、と、叶わないと決定的に知る時の無期限先送りとを分けるものは何か。
信じれば叶う、あきらめなければ叶うと本気で言えるか。
ひとつの願いから始まったプロジェクトの顛末を追いながら、頭の中ではなぜかバベルの塔が築かれては砕かれ、賽の河原の石が積まれては崩されるというイメージがぼんやりとながらしつこく繰り返され、これは砕かれることを嘆くべきか、また積み上げ始めるタフさを称えるべきだろうかと、これもまたぼんやりと考えていたような気がします。
読んでいたはずのコメディはどこへいったのでしょう・・・。
「何だろう」と思わせた作品は「何だったんだろう」と読み終える物語でした。
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