食物連鎖と、捕食動物と被捕食動物のピラミッドを初めてみたのはいつだったろうと、読みながら思っていた1冊。
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捕食者なき世界
著者:ウィリアム・ソウルゼンバーグ
訳者:野中香方子
発行:文藝春秋
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ピラミッドの頂点に位置する最強の捕食者たちが、生物たちのバランスを保っていることは良く知られていることと思っていました。
捕食動物がいなくなれば、被捕食動物の数が増え、その増えた動物の餌となるものは時が経つにつれて減ってゆく。
次第に失われてゆく森に、荒れてゆく海。
本の中では、森の中、海の中と、その生態系でピラミッドの頂点に位置していた捕食生物の不在によりバランスを失った末のことと思われる出来事が並べられていきます。
オオカミがいなくなったことでシカが増える、シカが増えると植生が変わり、やがて森は枯れ果てて荒野になる。
もしそうならば、捕食動物を森に呼び戻すことで豊かな緑の森も蘇る。
森にオオカミを、クマを。
そう唱える学者たちの静かなる戦いが、本の中で描かれていきます。
(挙句はゾウ。そこまでくると、静かでもない。)
自然界は絶妙なバランスの上に成り立っていて、それが崩されたときに、多様で豊かな世界は失われていく。
そういったわかっているはずのことと、目の前の現実とを重ね合わせられずに過ごしてきた結果とされることを読むのは(言い方がまだるっこしいのは、捕食動物の存在がバランスを保ち、ひいては生態系の健全さ、を守っているのだという学説が全面的な支持を受けているものではないから。むしろ逆風。証明が難しいから。)、人間は生物のピラミッドと食物連鎖を無縁のものと感じながら生きているのだと改めて思い出させてくれました。
頭ではわかっていますが、死しては灰になり、墓に入る予定の身では、食物連鎖すら普段は意識しませんから。
ある意味、この本の内容自体も、人間が他の生き物とは別格なのだという意識の産物かも。
生き物の数を制限するであるとか、「保護する」などということも、傲慢といえば傲慢。
かといって、今更、他の生物とまったく同列に考えることも到底できることではなく、出来ると言うならそれは欺瞞というもので。
今更、戻れませんしね、と、何やら悶々としながら読んでしまいました。
新鮮だったのは、人間の祖先こそ最強の捕食動物であったという説。
驚異的な持久力で餌とする動物を走って追いかけることのできた人間は、瞬発力勝負のライオンやピューマよりも獲物をしとめる確率の高い捕食動物であったというのです。
そうして、人間たちは横綱級の捕食動物たちをも狩りつくしていったのだと。
そう言われればそうねぇと思います。
かつての人間には牙もないし、皮膚も薄いし…と思っていた私はいつもながら単純すぎたわけで、クマやオオカミに喰われた人間ももちろんいたでしょうけれど、人間はピラミッドの頂点から自分たち以外の動物たちを追い落としながら、ありとあらゆるものを食べてきたのです。
でもその頃は、食べる分しか獲らなかっただろうからな。いや、獲れなかったか?
そういえば、つい最近もよく似たテーマのテレビ番組を観ました。
長い年月をかけようやっと絶滅の危機から逃れようとしている北アメリカのオオカミたち。
彼らを保護しひいては環境を守ろうとする、まさに、この本の中に登場する学者たちのような人々と、反対に、オオカミを生活を脅かす危険動物として銃を向け、絶滅すら願う人々の双方が描かれていました。
ネイチャー系の番組でしたから、立ち位置は学者寄りで、最終的には共存ができれば何よりというまとめでした。
そりゃそうですわね。中庸がなによりと、お釈迦さまも言っておいでになるくらい。
この本の中で、何より怖かったのは、この先、森の緑や海の青が失われていったとしたら、それ見て育つ世代には当たり前の光景となるのだということ。
灰色の森にも、黒い海にも違和感を持たなくなる。そうなったら、もう二度と取り戻すことはできなくなってしまうのです。
大昔、海は青かったんだって。
大昔、「森」というものがあって、それは「緑色」だったんだって。
そうなったら、「緑色」を彼らは何の色だと思うのでしょう。
…ほうれん草の色?
まさに、そういう感じですよね。一見、獲物となる草食動物や小さな魚がかわいそうみたいですけれど、案外、おなかをすかせて生きているのは捕食するほうの動物だったりして。
でも、自分の家畜を喰われちゃかなわんというのも、わかることですしねぇ。
ほどよくバランスを保つって大変ですよね。何事も。