ゆっくりと世界が沈む水辺で

きしの字間漫遊記。読んでも読んでも、まだ読みたい。

渡辺保【女形とは 名女形 雀右衛門】

2013-01-28 | 角川書店
 
自然と「先生」をつけてしまう方が幾人かいらっしゃるけれど、私にとってこの方はそのうちのお一人。
舞台上に立ちのぼる幻を観て、それを語る達人、渡辺保先生が、四代目中村雀右衛門さんの芸を切り口に、女形(おんながた)の魅力を語りに語った1冊です。

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 女形とは 名女形 雀右衛門

 著者:渡辺 保
 発行:角川学芸出版
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女形の芸の神髄は「形」、そして「心」。
渡辺先生は、歌舞伎の演目の数々を名だたる女形の芸とともに語っていきます。
とりあげられる名優たちは今となっては観られないもの。
なんて悔しいことでしょうか。
とはいえ、役者の存在は時代と切っても切れないものでしょうし、遡って観ることにも、もしできたとして、やがて来るものを観ることにも、さほど意味はないということと言われるむきもあるかもしれませんが、でも、やっぱり悔しい。
何より悔しいのは、一生かかってもこんなふうに歌舞伎の舞台を観ることはできないとつくづく思い知らされること。
回数、年季、観察力、分析力、そして何より、舞台上の幻想を観る力。
そういったものがないかぎり、自分の前に女形の美しさは現れてこないのだと、突きつけられてしまいます。
四代目中村雀右衛門が大切にした「形」、そしてそこから横溢し、劇場に拡がる「心」。
先生は、「形」の表すその役の性根を明快な言葉で語り、また、逆もしかりで、「心」から「形」がつくられることも語ります。
「形」が単なる「形」であることに芸はないのですから。

男性が女性を演じることの不自然さが、それを凌駕する深い魅力になる不思議は、結局のところ、わかる人にしかわからないことなのかもしれません。
役者の美しさにあるといわれる「時分の花」と「まことの花」。
若さやもって生まれたものが直結する「時分の花」はただ観てとれるものですが、「まことの花」はそうはいかないのです。
その花を咲かせることができるのはすべての役者とは限らず、それを感得する観客もまた稀。
渡辺先生が若い頃の坂東玉三郎を酷評したというのも、この1冊を読めば納得できることです。
女形の美しさは「まことの花」によってのみその神髄を表すもの。
それでこそ、たるんだ頬の老人が、可憐な姫と映るのです。
ただ、四代目中村雀右衛門は、そこで「形」と「心」の間に「体」を見出したと、渡辺先生は、かの遅れてきた名優の芸を語るのです。
舞台上で「美しく見せること」を舞台上に「美しくあること」としようとした四代目中村雀右衛門。
もう弐度と舞台上で観ることは叶わぬこの人間国宝の芸を後世に伝える好著だと思います。

でも、正直、この本で語られる女形の美しさは、テレビで放送されるものなどではわかりませんよ。
昨今は坂東玉三郎をはじめとして、ただ観ても美しい女形さんたちが多いですけれど、老人の白塗りがそのままでみて美しいとは、なかなか言えることではありませんから。
私の視力では劇場で観るときには、全体の姿、動きこそがすべてけど、テレビではアップでしょう?

と、ぼやきたくもなります。
「雀右衛門の芸」と題された章にはとどめをさされるような文章がありました。

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 芸は必ずしも目に見えるものではない。レンズもとらえることができない。
 その原因は二つある。
 一つは、すでに冒頭の「女形とは」でもふれたとおり、芸は空間に描かれた一瞬のイメージだからである。
 もう一つ。芸がイメージである以上、それは観客が全身で感じるものであり、心で見るものであって、目だけが見るものではないからである。全身で見るとなれば、役者が自分の人生を賭けるように、観客もまた自分の人生を賭けなければならない。すなわち観客の側にもそれ相応の用意がいる。この用意は、必ずしも経験だけによらない。長い間芝居を見つづけた人でも豊かな感受性がなければ見ることができず、初めて見る人でもその感受性さえすぐれていれば、見ることができる。

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…ここまで読んでくればわかりますって。ダメ押ししてくれなくてもいいですから、先生。




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