ゆっくりと世界が沈む水辺で

きしの字間漫遊記。読んでも読んでも、まだ読みたい。

工藤美代子【なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか】

2013-03-01 | 中央公論(新)社

この本もタイトルにつられました。
ノンフィクションを続けて読んだので、「ノンフィクション作家」という言葉自体にひっかかってしまいまして。
しかも、「なぜ○○なのか」ですから。どうしたって気になります。
ほんとは別の本を買おうと思っていたのになー。

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 なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか

 著者:工藤美代子
 発行:中央公論新社
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結論から言うと、「なぜ視えるのか」にはっきりと対応する答えはなく、「ノンフィクション作家は」は著者がノンフィクション作家であるからであって、そもそも、「ノンフィクション作家はお化けが視える」ということでもありませんでした。
そりゃ、そうね。そういうことを期待して読むのは間違いというものですよね。

ああ、でもそうだとすると、困ったことになったなー。
怪談は好きですけれど、実話系はどうも…。

著者自身は本が書けるほどの数の体験をしていながら、いわゆる霊感はないと言いきっているくらいですから、過剰におどろおどろしいこともなく、日常の延長として、いろいろな体験が軽い雰囲気で語られていきます。
よく考えると、それが日常の延長であることが怖いんですけれども、こういうことって気がつくかどうか、気になるかどうかが分かれ目なだけで、日常と非日常が重なり合っているのは案外当たり前のことなのでしょう。一口に日常と言ってもさまざま、非日常と言ってもさまざまですし。
著者の20代、30代の生活は、仕事がらみで3週間ごとに居所が変わるようなものだったようですし、この本を書いていた時期は結婚して、勤め人の奥さんになっているので、朝起きて夜寝るサイクルだけれども、昔は昼夜逆転だったとか。

もともとこの本は1997年に『日々是怪談』というタイトルで発行された単行本と、その文庫を、タイトルを変えて再度文庫化したものだそうです。
あとがきと、巻末の岩井志麻子さんとの対談が新しい部分で、そのタイトルも「"死霊"より"生霊"が、本当に恐ろしい」。

実際、本に収められている数々のエピソード、例えば、旅のお土産に買った絵を飾ったら畳がびっしょり濡れた、とか、骨董屋さんで見つけたお人形を買おうと思ったらお店の人があげると言ってくれたので持ち帰ったけれども、それ以来凶事続きで、かわいらしいと思った顔もいつの間にか変わっていた、とか、そういうお話よりも、やっぱり、ドッペルゲンガーを出現させちゃったかもしれないとか、「死んでしまえばいいのに」と思ったらその人が死んでしまったとか、生きている人の意思や、もっと積極的な人を呪う気持ちがあらわれてくるエピソードのほうが圧倒的に怖いわけです。
なぜから、他人事ではないから。
いくらのんびり生きているとはいえ、何かの拍子に人を強く恨むことがあるかもしれないではありませんか。
なけなしの気力を振り絞って、自分が生霊になろうとするかもしれない。
これが一番怖いことだとしみじみ思ってしまいました。

それから、建物の中にいる夢をみたときは必ず出口を確認。
閉じ込められたら大変ですから。




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