シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

短歌と天皇制について

2013年01月22日 | インポート

私が短歌を始めたころ、もう20数年も前のことだが、〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった。
いま手元に「短歌往来」1999年11月号があって、「君が代・日の丸のうた」という特集が組まれている。これは国旗・国歌法の成立をきっかけとしたものである。20人の歌人が、短歌とエッセイを載せている。
たとえば、奥村晃作氏はこう書いている。

「日の丸も君が代も過去の侵略戦争と深く結びつく、忌まわしいものであり、それらの法制化には反対である。現状のままでよい。君が代については曲も歌詞もよくなく、あれを大声出して歌う気にはなれない。歌詞にいたっては時代錯誤も甚だしく、今の時代にふさわしい新しい国歌を作成すべきである。歌詞・曲ともに、広く国民から公募し、然るべきメンバーで選定・編曲等すればよい。」

別にこれが極端な意見というわけではなく、こういった論調がわりと普通だったのである。
「君が代を歌っても構わないんじゃない」「天皇制が存在してもいいんじゃない」とか言ったら、「お前は勉強不足だ(=バカだ)」と罵る人が、わらわらと出てくる。そんな時代であったのだ。今の20代の人には、うまく理解できない雰囲気かもしれない。

私の基本的な姿勢・考え方をまず書いておこう。
私自身は、天皇制を否定する考えはないし、君が代も決して嫌いではない。(子どもの入学式・卒業式でもきちんと声を出して歌いました)
ただ、戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。
けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

繰り返し書くが、君が代を嫌う人を私は批判したいのではない。ただ、そうした思いを、強硬に主張することには、注意が必要だ、ということを、私は言いたいのである。
たとえば奥村氏は「曲も歌詞もよくない」と書いているが、その一方に「曲も歌詞も良い」と思っている人々が存在することも忘れてはならないと思う。曲や歌詞について、何が良いか悪いかは、単純に決められるものではないだろう。
また、奥村氏は、簡単に新しい歌が作れるように書いているが、現実的にはこれは非常に難しい。たとえば坂本龍一さんに作ってもらいたい国民もいれば、それに猛反対する国民もいるだろう。それこそもっと激しいいがみ合いを生み出してしまう。
国旗や国歌というものは、近代以降の歴史を背負うもので、当然、栄光とともに汚辱も背負ってしまう。その汚辱の部分も認めたうえで、掲揚したり歌ったりするしかないのではないか。汚れてしまったから、新しいものを作ればいい、というものではないような気がする。
歌わない人の口元チェックなどはやめて、またあまり過激に反対するのもやめて、なるべく平穏に、歌いたい人と歌いたくない人が共存できることを、私は願っている。

それは天皇制をめぐるすべての問題でも同じことで、「天皇制を認めるのは保守的だ」とか「遅れている」とか「歴史を学んでいない」とか、そういった短絡的で強圧的な言説で、相手を説得しようとしても、駄目なのだ、ということは認めたほうがよいと思う。
昔はよく、天皇制があったから昭和の戦争が起きた、とか、天皇制があるから差別が生み出されている、といった言説を聞かされたものである。
しかし、天皇制が戦争の一つの要因であることは認めるけれども、それだけで戦争が起きたと考えるのは、非常に短絡的な考え方だと思う。植民地や資源の奪い合いが苛烈だった歴史的状況も、それ以上に大きな要因であったことを考慮しなければ、フェアではないだろう。また、天皇制がない国でも、―たとえばアメリカ合衆国でも―厳然と差別は存在する。天皇制がなくなれば差別がなくなる、といった言説は、私は欺瞞的だと思う。
さらに思うのだが、今回の原発事故について、太平洋戦争との共通性を私は感じることが多い(そう感じる人は少なくないとおもう)。たとえば、指導者であった人々が責任を問われていないこと。技術を過信して、被害を広げてしまったこと。国策と決まったら、途中で変更ができなくなり、暴走してしまうことなど。
つまり、現実の天皇が関わっていない場合でも、同じような権力のシステム障害が起きてしまうことが、本当の問題なのだと思う。
左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
むしろ、今年の天皇陛下の年
頭のお言葉
「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。

長々と述べてきたのだが、私が言いたいのは、ここからである。
現在でも、「短歌は天皇制とつながっているから良くない」という言説が、しばしば語られる。
私は、短歌と天皇制がつながっているのは、事実だと思う。
古代和歌の発生には、天皇(現在とは政治的な意味合いは違っているが)が関わっているのは確かだし、それが近代国家の制度の中で、変質しつつ、天皇と短歌が結びついてきたのもまちがいない。歌会始はそれが端的に表れた儀式であり、短歌を通して、天皇と民衆が精神的に結びつく祝祭の場となっている。
また、今年「文藝春秋」で発表された「新・百人一首」(岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘撰)も、明治天皇の歌から始まり、美智子皇后の歌も収録されている。
メンタリティー的に、短歌と天皇が結びついているのは否定できない。

ただ、「短歌と天皇制は結びついている。だから、良くない」とは、必ずしも言えないと思うのだ。逆に「短歌と天皇制は結びついている。だから、良いのだ」とも言えるはずである。

誤解のないよう、書いておきたいのだが、私自身は、良い面もあるし、悪い面もあるだろうという立場である。たとえば、歌会始について、私は否定的にはとらえない。もちろん、歌会始では良識的な歌しか選ばれない、という傾向はあるかもしれないが、人間の暗黒面を詠んだ歌は、別な場所で発表すればいいだけの話である。公表が禁じられているわけではない。

「短歌と天皇制が結びついている」という主張をするのはいいと思うのだが、なぜそれが悪いのか、ということはもっと丁寧に論じたほうがよいと思う。ヒステリックに、強圧的に、「悪いものは悪いのだ」と発言するのは、あまり共感を呼ぶとは思わない。
たしかに昔は、「天皇制は悪だ」と言えば、何も反論できない傾向があった。でも、今はそんな時代ではない。
同じように、「憲法改正を唱えるのは、右翼か愚か者だ」と言えば、多くの人々が納得する時代もあった。しかし、現在の我々は、そのようなヒステリックで攻撃的な言い方に、嫌な感じを抱いてしまう。だからこそ、自民党が圧勝するわけである。急いで付け加えるが、私は改憲に反対する立場である。それでも、昔と同じように、改憲論者を一括りにして馬鹿にするような言い方をする人たちには共感できないのである。
「なぜ、短歌と天皇制が結びついていて、悪いのですか?」という疑問をもつ人も、今では相当たくさんいるはずである。
そういう人も納得できるような言葉で、丁寧に語りかけるような姿勢で、この問題は、論じてほしいのである。
天皇制と結びついているから短歌は駄目なんだ、といった軽蔑するような姿勢で何かを言っても、結局は何も残っていかない。
それは、第二芸術論以降の歴史をみても、よくわかることである。
だいたい、歌人は、そんなふうに短歌を軽蔑されると、少しの間は反省したふりをするが、数年後にはすっかり忘れてしまうのである。(冒頭に書いた日の丸・君が代の件でも、歌壇では今やほとんど論じる人はいなくなってしまった。私はむしろ、そんな無責任なところが嫌なのである)








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