7月6日に、鳥居さんとの対談を行った。
そのとき、短歌をどのように並べるか、という話題が出た。
たしかに、並べ方によって、歌の印象は大きく変わってくる。ただ、それについて短い時間で話すのは難しいので、断片的なことしか言えなかったのだけれど。
塔2016年2月号で「短連作」という特集を組んだときに書いた文章があるのを思い出したので、アップしてみる。
ちょっと長いですが、何かの参考になれば幸いです。
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「短連作」という言葉は、今回の特集のために作った〈新語〉である。もしかしたら、すでに使われているかも知れないが、その場合はご教示くださればありがたい。
定義としては、五首程度の短歌によって構成され、タイトルがつけられた作品を指す。普通の連作は、二十首、三十首といった分量で、何らかのテーマを歌ってゆく。たとえば斎藤茂吉の「死にたまふ母」(『赤光』・五十九首)などが代表的である。それに対して短連作は、五首ほどの分量で、一つの世界を作り出す。
考えてみると、多くの歌集では、この短連作がベース(基盤)のような位置を占めている。よくあるのが、五首前後の章がいくつかあって、ときどき二十首・三十首の大作が入ってくる、というパターンである。現在の歌集は、このように構成されることで、メリハリのあるおもしろさが生まれてくるのだ。
歌集は、一ページに三首載せられていることが多い。すると、五首だとタイトルを入れて、ちょうど二ページの見開きになる。見た感じでも、短連作は、一つのまとまった世界が立ち上がってくるような印象を与えることができる。
最近出た江戸雪の『昼の夢の終わり』を例として見てみよう。その中の「帰れ帰れ」十六首は、この歌集の核となる連作で、体の不調と入院が歌われている。重い一連と言っていいだろう。
枯れ葉からにおいくる土そんなふうに自分の不安に気付いておりぬ
笑い声とびらの前を過ぎたあとベッドにわれは雲の絵を描く
のように、病気の不安感や、入院をしている孤独感が歌われる。
そしてその直後に、四首の短連作が置かれている。今回はこれに注目して読んでみたい。
からだを起こす
① しみしみとからだは痛みになれていく光るつくよみ見上げたりして
② 山茶花のようなひかりを浴びていたカラスはくろいままに飛び立つ
③ ハシボソが可愛らしくてどないしよ陽のやわらかい公園に居る
④ ブラインドの光の芯が朝朝にゆるみてわれはからだを起こす
①は病気が落ち着いてきた時期の感慨であろう。病気のときはゆっくり見ていられなかった「つくよみ」(月)の光を見ることで、心身は癒されていく。「しみしみと」というオノマトペが印象的だ。
②、③でカラスが歌われる。前者では「くろいままに飛び立つ」と、風景の中の闇のように捉えられているが、後者では「どないしよ」と大阪弁のユーモラスな表現になる。ここに、暗から明への心情の変化があらわれている。
④は「からだを起こす」というタイトルの元になっている歌。病から立ち直ろうとする意志が込められており、作者にとって強い思い入れのある歌だったのではないか。
この四首には、それぞれ「光」が詠まれていることに気づく。そしてその光は、後ろにいくほどに明るくなる。一首一首の移り変わりによって、恢復してゆく時間がさりげなく表現されているのだ。一首と一首の行間から、書かれていない心情が浮かび上がってくる気がする。
このように見てくると、短連作が、一冊の中で大きな効果を上げていることがよく分かるであろう。長い連作とは違い、大きなテーマや物語を歌うことはできない。けれども、五首ほどの歌を響き合わせ、一つの世界を作り出すことで、深い奥行きを描くことができるのだ。
歌集によって、読みやすい、と感じたり、ぐいぐいと引き込まれてしまったりすることがある。逆に、退屈してしまう場合もある。その要因はさまざまだろうが、短連作の巧拙が、歌集の印象に大きな影響を与えているのは、間違いないことのように思われる。
斎藤茂吉の歌集は、短連作という視点から見てみると、やはりはっとさせられるおもしろさがある。なんでもないことを詠んでいるような一連でも、平板にならず、豊かな起伏があるのである。
一日
① 月島の倉庫(さうこ)にあかく入日さし一月(いちぐわつ)一日(いちにち)のこころ落ちゐぬ
② 休息(きうそく)の静けさに似てあかあかと水上(すゐじやう)警察(けいさつ)の右に日は落つ
③ 一月(いちぐわつ)の一日(いちにち)友と連れだちて築地明石町(つきぢあかしちやう)の界隈(かいわい)ありく
④ 月島を向ひに見つつ通り来し新年(しんねん)の静かなる立體性(りつたいせい)の街(まち)
⑤ 美しき男をみなの葛藤(かつとう)を見るともなしに見てしまひたり
『暁紅』に収められている、昭和十年の新春の歌である。月島は東京湾を浚渫した土砂を利用して、明治二十五年に造られた埋立地で、工場などが多く建設されていた。築地明石町は東京都中央区の沿岸部にあり、そこから月島が見渡せる。
①は、「一日」に「ついたち」ではなく「いちにち」とルビがふってあることに留意したい。元日の夕暮れであるが、普通の一日と変わらないという感覚があるのだろう。結句の「こころ落ちゐぬ」はやや解釈が難しいところだが、正月になって華やいでいた心が落ち着いてきたというふうに読んでおきたい。短連作の冒頭として「月島の倉庫」という、魅力的な都市空間が示される。
②は「水上警察」という言葉が魅力的である。密輸などを含む、水上のトラブルを取り締まる警察であるらしい。当時、明石町にあったという。「右に日は落つ」というのも新鮮で、普通なら「西に」といった方角で示されるところ。「右に」と詠むことで、映像的なイメージがもたらされる。上の句の比喩は、一日空に照っていた太陽が、夕暮れに休息を求めるように落ちていく感じを表している。小池光は、昭和モダニズムの方法を摂取していると指摘しているが(『茂吉を読む 五十代五歌集』)、確かにそのとおりであろう。
③は状況を説明するような歌で、さほど重要ではないが、「築地明石町の界隈ありく」という漢字の多い語調に、渋い味わいがある。さっと読み流せる一首だけれど、けっして悪い歌ではない。こうしたつなぎになる歌が入ってくることは、歌集を読みやすくするために、意外に大切なことである。全部が重い歌だと、読者が苦しくなってしまう。息抜きのような歌も必要なのだ。
④の「立體性の街」もいかにも昭和モダニズムの感覚で、非常に巧い。特に現在の眼で見ると「體」という字がすごくものものしい。新年なので、まだ誰も働いていないのだろう。無人だからこそ、街の硬質な輪郭が浮かび上がってくるのである。「しんねんのしずかなる」と「し」の音を響かせつつ、字余りで重厚に展開していくリズムにも注目したい。
⑤が、今までとはがらりと異なった歌で、奇妙な印象を残してこの短連作は終わる。美男美女が諍いを起こしている場面だろう。「葛藤」だから、もっとからみつくような感じもあったのかもしれない。別に見たいわけではないが目に入ってしまう。そう茂吉は詠んでいるけれど、実際は好奇心や嫉妬心をもって観察しているのだろうと思わせる。無機質な都市を詠んだ歌のあとに置かれることで、男女の「葛藤」のなまなましさが強調されると言ってもいいだろう。
この短連作は、平凡な「一日」の風景を詠んでいるように見えて、精神的な揺らぎがとてもよく伝わってくる。新年の静かな湾岸都市を歩くことで、視覚などが刺激されている様子が、リアルに表現されているのである。五首が並ぶことで、時間・空間が、それこそ〈立体的〉に見えてくるわけだ。
短連作で陥りやすいのは、同じ題材の歌がずらりと並んでしまうことだ。たとえば、似たような桜の歌ばかりが続いてしまうと、とても単調になってしまう。それよりも、さまざまな角度から歌うことによって、風景に広がりが生まれるほうがいい。茂吉の歌がいきいきとしているのは、歩き回りながら歌うことで、視線に動きが感じられるからである。
それでは、また別のタイプの短連作を読んでみよう。
言葉
① 我が言葉が傲慢の如くなる驚きよ皆いたいたしく生きてゐるなり
② 妥協知らぬ新しき者はつひに来むか生き行きて我が遂げざる時に
③ いつの間に模倣されゐるわが生き方志望變ふると又告げに來る
④ 今は我は苦しみ學ぶなかに在れば苦しき時も心まじめなり
⑤ 忙しきわが日々に心ねぢけ來る少年わが子の時どきの言葉
高安国世『年輪』(昭和二十七年)より。①~⑤のどの一首も、歌会に出したら「観念的だ」とか「もっと具体的に」などとと厳しく批判される歌だろう。しかし、このように五首並ぶと、迫力が出てくるし、心理の襞のようなものも表れてくる。
こうした思想的な短連作を作るのは非常に難しいけれど、ときには挑戦してもよいのではないか。特に、時代や社会に対して、何か言いたい思いを抱えているとき、こうした表現方法もあることを知っておくことは大切だと思うのだ。
どの歌も、戦後の貧しい生活が背景にある。高安は昭和二十四年に京都大学文学部ドイツ文学科の授業を開始した。この短連作は、貧しい学生を教えた体験に基づいているのだろう。
①の、自分の言葉が「傲慢」に響いたとはどういうことだろう。たとえば自分は常識として知っていることを、学生は知らなくて驚いたことがあったのではないか。しかし考えてみると、目の前の若者たちは、戦争によってきちんとした教育を受ける機会を失っていたわけである。自分の知識を誇るのは「傲慢」なのだ、と深く反省する高安の思いが滲み出ている。
②は、古い社会常識に自分は「妥協」して生きてきたが、これからの若者は、そうした枠を超えて強く生きていくに違いない、という期待が歌われている。逆に言えば、自分はもう夢を遂げることのできない旧世代に属しているのだという寂しさもこもっているのだろう。
③は、高安がかつて医学部志望から文学部志望に変えた経験を踏まえている。それは、高安にしては非常に大きな決断であった。しかし、今の若者たちはそれをたやすく行っている。学生たちは別に高安を「模倣」したわけではないと思うが、高安からすれば、自分の生き方は、学生たちの行動の先駆けになっている、という自負があったのではなかろうか。自分が学びたいものを学ぶ、という自由な生き方も、戦後になって認められてきたのだった。
④は思いが露骨に表れすぎで、成功した歌とはいえないだろう。ただ、苦学生たちと一緒に生きていると、自分も誠実な思いになっていく、という心情はよくわかる。学生たちと同様、高安も貧しかったし、心労を抱えていた。そこから逃避するのではなく、まっすぐに向き合いたいという願いがこの歌にこもっている。「心まじめなり」が気恥ずかしいほど率直である。
ただ、おもしろいところで、歌としてはあまり良くなくても、作者の性格がよく出ていて好意的に感じられる表現はあるものである。この一首は高安の正直さが伝わってきて、やはり残しておきたい歌だと私は思う。
⑤でこの短連作は、やや意外な形で終わる。学生たちに教えることで忙しい生活を送っていると、自分の息子が構ってくれないのでいじけはじめるのである。「時どきの言葉」と、抽象的に書いているが、父親に向かって嫌みを言うようなことが増えてきたのだろう。家庭を顧みないうちに、息子の心が「ねぢけ」てきたことの不安が、前向きだった高安の心に、翳りを与えている。
この短連作が④で終わったとしたら、一種の美談になっていたはずだ。しかし⑤が加わることで、仕事に熱心になるほど家庭が不安定になってゆくという、高安にとって重いテーマが浮かび上がってくる。
男として仕事したしと言ふさへにいたいたしき迄に妻を傷つく 『眞實』
などの歌によって、高安はこれまでもこのテーマを歌ってきたけれど、自分を頼りにしている学生たちが一方に存在することで、引き裂かれる思いはさらに強くなっていく。
「言葉」という題を、高安が選んだのはなぜなのだろう。教える側の傲慢な言葉。学生たちの真摯な言葉。幼い子どものいじけた言葉。太平洋戦争が終わって数年後、日常の言葉も大きく変化していった。さまざまな言葉によって、自分の周りに新しい社会が形作られていることへの驚きがあったのかもしれない。
たった五首の連作の中に、作者の人生上のテーマや、時代への思いが色濃くあらわれるということもあるのだ、
いくつかの短連作を今回取り上げて読んできた。
よく思うのだが、一冊の歌集をどのように批評するか、というのは非常に難しい問題である。書評や、歌集の批評会という場で、多くの人が悩みながら、さまざまな試みを続けているが、決まった方法がない、というのが現状である。
短連作に注目する、というのは、歌集の批評をする上でも、有効な方法になるのではないだろうか。歌集の中から重要な短連作を見つけだし、どのように構成されているかを考えていくことによって、表現の特徴や、作者の思想性がはっきりと見えてくるはずなのである。具体的な作品に沿って、じっくりと一首一首の関係を解読していくことができるのが、大きな利点である。
もちろん、一部分だけで全体をつかむことができるのか、という反論はあるだろうが、どのように批評をすれば分からないときに、一歩を踏み出しやすい方法になると思う。どの短連作を選ぶかが、大きなポイントになるだろう。ぜひ、試みていただきたい。
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