シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

災変歌

2012年10月26日 | インポート

清水房雄の新歌集『残余小吟』に、「災変歌」という一連がある。


・待ってましたとばかりに詠むのか災変歌報道記事を下敷きにして
・報道を韻律化せるのみの災変歌つぎつぎ出で来るをつぎつぎに読む
・時の話題を追ひかけ作る歌また歌津波の歌また原発の歌
・災変歌詠むべく被災地を旅すとぞ斯かる作法を吾は好まず

といった歌が並んでいる。
どれも耳の痛い歌で、まあ、4首目に対しては、私はやや異論を持っていて、
実際に現場に行かなければ分からないことも多いので、被災地に行くことは
決して無意味だとは思わないが、清水の気持ちもよくわかる。

ただ、最後に置かれたこの歌はどうなのだろう。

・結局は他人事とならむ災変歌畏れためらひ遂に詠み得ず

「災変歌」を「遂に詠み得ず」と言っているが、「災変歌」を批判する形で、
清水自身も「災変歌」を作っているのではないか。
清水が作っているのは、じつは裏返しにされた「災変歌」なのではないか。
「殺し屋をころす殺し屋」というのが、映画か何かであったはずだが、
それに近いような感触を受ける。

最後の一首で、ちょっと言い訳めいた感じになっているのが惜しいとおもう。


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〈挑発〉について

2012年10月26日 | インポート

小池光のエッセイ集『街角の事物たち』(1991年)の「よそゆきに風穴を」に、次のようなことが書かれていて、記憶に残っている。


・あきらかに地球の裏の海戦をわれはたのしむ初鰹食ひ


という歌を、小池はフォークランド紛争の報道を見て、つくった。
これを読んで、「我慢ならない」「不謹慎だ」という批判をする人がいたそうである。
それに対して、小池は「戦争はいやだ」というのは、「よそゆき」の言葉であり、それだけでは時代の「全体像」は捉えられない、と述べる。
そして、

▼▼▼引用はじめ▼▼▼
「われはたのしむ」という一句は、ちっぽけなものであったが、それなりに〈度胸〉を要求したのであった。ことばの重さの手ざわりを感じていた。それを大切にしたい。腹が立つ、不謹慎だと言われる歌をこれからも書かねばならないと思うし、また、そういう歌を詠みたいとしんじつ希っている。
▲▲▲引用おわり▲▲▲


と書いている。

これはとても印象的な言葉だった。
まあ、今では、「戦争をたのしむ」といった表現はありふれていて、衝撃性はなくなってしまったが、20年前は、まだ戦争に対する批判意識は高かったので、これでも十分、インパクトはあったのである。(時代を追うごとに、〈挑発〉の言葉はエスカレートしていったのである)

私も、この考え方には、基本的に賛成する。
一般的な見方とあえて違う見方をするところに、文学における起爆力が生じる、ということは確かだからだ。私自身も、かなりそれを意識して作歌してきたように思う。
私の歌集「曳舟」に靖国神社を詠んだ一連があるのだが、これをつくったときはかなり怖かった。脅迫状が来るんではないか、とも思ったのだが、来なかった。幸いなことに私の歌はあまり読まれていないためだろう。

さて、問題は、いま起きている原発事故についても、こうした表現は可能なのか、ということである。

最近、あえて原発を肯定するような歌をつくる歌人が、ぽつぽつと現われている。
世論の多数は、脱原発なので、あえてそれに逆らって、挑発しよう、という意識があるのかもしれない。それは理解できる。

しかし、難しいところなのだが、現代のグローバル社会では、少数者に富と権力が集中して社会を動かしていく傾向が見られる。アメリカでは、1人の富める者と99人の貧しき者、といった言い方があるらしいが、日本でも、同じような構図が生じているように感じる。震災が、その構図をあらわにした、と言っていいのかもしれない。
たしかに世論調査では、脱原発が過半数を占めているが、政治家や大企業にはいまだ原発推進派が多く、大手の新聞も、原発ゼロは無責任だと書いたりする(広大な土地に人が住めないようにしてしまって、誰も責任をとらないほうが、ずっとひどいと思うが)。少数派が圧倒的な力を持っている。
つまり、多数派と少数派に分け、少数派に味方する、という表現方法は、逆に寡占的な権力を利する、ということになりかねないのである。
おそらく、多数派/少数派という分け方は、現代ではあまり意味をもたないのだろう。今回の消費税増税なども、過半数は反対だったはずだが、いつのまにか決まってしまう。多数派だから、その意見に沿って社会が動く保証はまったくないのである。村上春樹風に言えば、人間不在のシステムが、社会の意思決定をしている状態なのかもしれない。

そもそも、多数だか少数だかによって、自分の「思想」を変える、ということ自体がおかしいのではないか。私の場合、原発は危険だと思うから反対している。ただ、それだけだ。

では、小池光の考え方はまちがっていたのか。
しかし、そうではない感じがする。

おそらくは、自己と事件との距離感によるのだろう。
小池が詠んだのは、遠い世界の戦争であった。その場合は「戦争をたのしむ」という言葉が、〈挑発〉として機能する。
9・11テロを「爽快」と歌った作もあったが、やはり一定の距離がなければ成立しない。
もし、目の前で戦争が起きていたら、「戦争をたのしむ」という言葉は、無惨な結果を生み出すだけだろう。現在の尖閣問題でも、「たのしむ」とは表現できないはずだ。〈挑発〉にならず、愚者扱いされるだけだろう。
平和な時代であるからこそ、〈挑発〉する言葉を楽しむことができた。私たちは今、その冷厳な事実に気づかされたのではないか。

私は、いま原発に対して〈挑発〉するような歌は、ほとんど不可能だと思っている。
目の前で起きている重大事故であるし、けっしてまだ収束していないからだ。
今でも「世論と逆のスタンスで表現しよう」とする人がいるが、時代からすごくズレている感じがする。だから、何となく、痛ましい感じがしてしまう。

なかなか難しいところで、どのような表現があってもいいと思うが、
〈挑発〉する歌い方は、もはや時代遅れになっているのではないか、という私の主張は、ここに書きつけておきたい。
では、どうすればいいか。それを一人一人が問われているのであろう。

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2012年10月26日 | インポート

短歌研究11月号を読んだ。

名前を二重線で消している人の「予言、〈私〉」10首に、


・才能を疑いて去りし学なりき今日新しき心に聴く原子核論


という歌がある。
これは、


・才能を疑いて去りし学なりき今日新しき心に聴く原子核論
                           岡井隆『斉唱』

まったく同じではないか。
目をこすって、何度も見直したが、やはり同じだ。

なぜこんなことをするのか、よくわからない。
何らかの意図があるのだろうか。
名前を二重線で消してあるから、〈私〉が消滅しているので、誰の言葉を取り入れても構わない、ということなのか。
原子力を歌った一連なので、人類が滅んだあとに言葉だけが残っている、ということなのかもしれない。
もしかして「斉唱」にオチがあって、「斉が唱う」という暗号なのだろうか?

岡井隆の歌は、わりと有名な歌なので、気づく人は多いと思うが、
知らない人には誤解を招くので、何らかの注記を付けておいたほうがよかったと思う。

実験的な試みなんだろうと思うけど、こういった形で〈私〉を揺さぶっても、あまり意味がないような気がする。

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国会議事堂前デモ

2012年10月17日 | インポート

先日、国会議事堂前デモに参加した。
関西では、月に1回くらいのペースでデモに行っているのだが、こちらは3か月ぶりくらい。
やはりピークのころと比べると、人数は減ってきたようだが――テレビなどであまり報道されないこと、理由の一つだろう――、それでもそうとう多くの人が集まっている。
逆に警察のガードはさらに厳しくなっている感じである。
3か月前と比べて、夕闇の訪れが早くなっていることも感慨深い。

Dsc_0158

シュプレヒコールの合間に、スピーチが入るのだが、今回は、復興予算が「もんじゅ」に使われていたことを批判するものが多かった。
まったくその通りで、このブログでも書いたが、石巻などの被災地では、まだまだ津波の爪痕が残っているところが多いのである。それなのに、よりによって原子炉の開発に42億円を使うという神経が信じられない。
「もんじゅ」といえば、昨年の6月に、炉内に誤って落ちた3トンもの装置を引き抜くという事件があったばかりである。引き抜き作業が失敗すると、大惨事になると言われていた。しかし、マスコミではほとんど報道されず、関西でも知らない人は多かった。
引き抜き作業が行われた夜の不安感は、忘れられない。気になっているのに、ネットでもまったく情報は流れてこないのである。
幸い、引き抜きは成功したらしいが、絶対廃炉にするべきである。
おそらくこれが、天からの最後の警告であるように思うのである。

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白い服の兵士

2012年10月16日 | インポート

私は今でこそ、ホラー映画もよく見るし、もっと怖い話はないか、といつも探している人間なのであるが、子どものころは非常に怖がりであった。
ちょっとしたテレビの怪奇ものを見ただけでも、夜に一人で風呂に入れないほどだった。
怖がれる、というのは、それだけ感受性が鋭敏ということなのだろう。心霊的なものをあまり怖がることができなくなった現在の自分は、そうとう精神が摩耗しているのだろうなあ、と思う。

子どものころ、怖かった話の中の一つに、『遠野物語拾遺』(柳田国男)の一篇がある。
短いものなので、全文引用してしまおう。

「日露戦争の当時は満州の戦場では不思議なことばかりがあった。ロシアの俘虜の言葉に、日本兵のうち黒服を著ている者は射てば倒れたが、白服の兵隊はいくら射っても倒れなかったということを言っていたそうであるが、当時白服を著た日本兵などはおらぬはずであると、土淵村の似田貝福松という人は語っていた。」(一五三)

というもので、今読めば淡々とした話なのだけれど、当時の私はうぶ毛が立つような怖さに襲われた。

さて、この話のことはすっかり忘れていたのだが、数年前に、『テレビは真実を報道したか』(木村哲人・三一書房)という本を読んでいると、はっとするような記述があった。
映画会社を設立したエジソンが、ヤラセ映画をいくつも作っていた、というエピソードの中の一つである。

「(エジソンは)一九〇四年には日露戦争も制作した。この映画では兵士がかならずカメラの正面に来て倒れる。分かりやすいようにロシア兵には白い服、日本兵には黒服を着せた。双方一〇人の小部隊だが、軍服が足りないらしく、俳優は何度も生き返っては戦死した。」

似ている。状況がおそろしく似ているのである。
もしかして、この映画の話が、遠野の村にまで伝わってきたのではないのか……
そう私は思ったのである。

しかし、違うのだろう。この似田貝福松は、「ロシアの俘虜」から話を聞いている。やはり戦場で実際に体験したことなのだろう。
おそらく、過酷な戦場の異常な心理状態のなかで見た、幻影だったのだと思う。

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