小紋潤さんの第一歌集『蜜の大地』が、前川佐美雄賞を受賞したとのこと。とても嬉しいことである。
以前、「短歌往来」に書いた書評を、再掲しておきたい。
興味をもたれた方は、ぜひ読んでみてください。
=================================================
一九七〇年代までだろうか。観念を自然と結びつけ、張りつめた韻律で歌おうとする志向は、確かに存在していたように思う。私が短歌を始めた八〇年代には、都市生活の日常を、軽やかなリズムで歌う方向に、潮流が急速に変化していた。ただ、それ以前の空気も、歌壇には残っていて、小紋潤が編集していた「現代短歌 雁」には特に濃厚だった。『蜜の大地』を読むと、当時の熱さが懐かしく蘇ってくる。
若い世代にはその雰囲気がうまく伝わらないかもしれない。たとえば冒頭二首目、
劫初には優しき風としるべなき明日のために青きシャツ着る
など、なかなか難解である。世界の初めには優しい風が吹いていたはずだ。しかし今は世界が複雑になり、明日のことも分からない。けれども自分は、風のように青いシャツを着て生きよう。無理やり意訳すれば、こんな感じになるだろうか。
思索的だが、風(自然)に憧れる思いが一方にある。「優しき風と」の「と」は微妙な置き方なのだが、そんな助詞の響きによって、日常を超える文体を生み出そうとしていた。前衛短歌の名残りであるが、今読んでも新鮮な躍動感がある。
初めにも書いたように、こうした歌い方をする歌人はだんだん少なくなっていく。しかし小紋潤はそれを守り続けた感が強い。生活の具体などをあまり歌にしようとせず、キリスト教につながる思想を核にかかえて歌いつづけた。
殉教の地なるふるさとのそのかみの一族(うから)ら草木のごとき団居(まどゐ)ぞ
小紋は長崎の出身。殉教者の末裔という意識があったのだろう。だが、激しい刑死を思うのではない。「草木」のように静かに犠牲を受け入れようとする。そんな孤独感が、彼の歌には漂っている。
ノアのこと我は知らざりきさらぎの雨水を待ちてゐるさくらさう
ノアのように生き残ることを望まない。むしろ、雨の地上で滅びまでの時間を過ごす。「人を憎むその前みづからを憎むかな寂しきものか一人の我は」という歌もその近くにある。争うよりも孤独を選ぶのである。
肩車よろこぶ声は父よりも高きところに麒麟を仰ぐ
など、幼い子を詠んだ歌が、歌集の中でいきいきとした明るさをもつが、
一人とは孤独ならねど地図の上にミシシッピーのかなしき蛇行
という寂寥感のある歌が、その背後に息づいている。ただ、ミシシッピーへの飛躍がおもしろい。一人であるからこそ、大きなものに向かっていける。孤をよろこぶ気概も、小紋の歌には確かに存在している。
寄り添ひて流るる雲と思へるに秋の時雨の過ぎてしづけし
ゆふぐれは今日も来たりて一本の煙草のやうな我であるのか
雨となる気配はみなみより来たりわがふるさとは雨のみなもと
悠然としていて、伸びやか。そしてどこかに人を恋う思いが滲んでいる。そこに、小紋の歌の美質が最も表れているように私は感じた。ベテランであり、編集者として短歌を支えてきた人の、ようやく誕生した第一歌集である。