今年は、近藤芳美生誕100年ということで、各誌が特集を組んでいる。
私は残念ながら、近藤氏とお話しをする機会はなかった。
何かの賞のパーティーのときだったか、会場へ、夫人と寄り添いながらゆっくりと歩いてゆく後ろ姿だけが、不思議に記憶に残っている。
* * *
もう20年以上前のこと。
どこかで行われた短歌のシンポジウムを聴きにいったことがある。
私はまだ二十歳そこそこだった。
パネリストの一人が(誰か思い出せない)、心を打つ秀歌として、
生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも
近藤芳美『埃吹く街』
という歌を挙げ、それに比べると、最近の歌はつまらない、といった発言をしたのだった。
どんなきっかけだったのか(たぶん会場で最も若かったからだと思うが)、私は発言を求められた。
そこで私は、この歌は、状況などがほとんど表現されていないので、「湧く涙」が理解できない、そんなにいい歌とは思えない、と言ってしまったのである。
すると、パネリストの人は絶句してしまって、すごく寂しそうな表情を浮かべていたことを憶えている。
たしか、シンポジウムが終わったあとに、永田和宏さんだったか、「吉川の言っていることも分かるんだけどねえ……」と複雑な顔で言われたことも憶えている。
この歌は戦後まもないころの歌である。何かの歌劇を観にいったときの場面であろう。
戦争が終わり、平和な時代が戻ってきて、「生き行くは楽し」という言葉が、身に沁みて作者には感じられたのである。同時に、生きる喜びをもたぬまま死んでいった若者たちへの辛く悲しい思いも、この涙にはこもっていたに違いない。
現在の私は、この歌が、かなりよく理解できるようになった。
ただ、若いころの私がもった違和感も、全否定はできないように思う。
時代の状況を知らないと、この歌は単なる甘い歌になってしまうのではないか。
一首だけを独立させて読んだとき、イメージの豊かさや衝撃力において、やや弱いのではないか。
近藤芳美のほかの歌、たとえば、
降り過ぎて又くもる街透きとほるガラスの板を負ひて歩めり 『埃吹く街』
が、時代背景を超えて映像が鮮やかに迫ってくるのと比べると、いくぶん物足りないような印象を受ける。
「生き行くは楽し」の歌は、当時はかなり有名だった一首らしいが、今ではあまり取り上げられることがないように思う。
ある世代の中では愛誦歌であったが、それ以降の世代には継承されていかなかった歌だったのだろう。
時代背景や時代の空気を背負った歌をどう読むのか。
これは難しい問題である。
「その時代を勉強すれば、歌は理解できる。それをしないのは読者の怠慢だ」という人もいる。
それは正論だと思うが、どんな歌も「勉強」して読まなければならないか、と言えば、それは違うような気がする。
短歌は書かれていることだけを読むべきなのか、作者の生涯や時代状況を踏まえて読むべきなのか、なかなか結論が出せないテーマなのである。
ただ、25年くらい短歌を続けてきてわかったことがある。
「この歌は理解できない」と言ったときに、ふっと寂しそうな顔をする人がいる。
そんな寂しげな表情に出会ったときは、それをすぐに切り捨ててしまわず、ときどき思い出してみることが大切なのだろう。
そうしているうちに、いつか、その歌のよさに気づくこともあるようだ。
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