8月23日(土)の午後、京都・新都ホテルで現代短歌シンポジウムが開催されます。
是非、おいでください。(下記からお申し込みください)
http://everevo.com/event/13080
高野公彦氏の講演
鷲田清一氏と内田樹氏と永田和宏氏の鼎談と、
とても楽しみな内容になっております。
内田樹先生の評論には、私はほんとうに大きな影響を受けました。
次は、2012年角川短歌8月号の「私を支えた歌論」という特集の中で書いたものです。
短いもので、意を尽くせていませんが、お読みくだされば幸いです。
内田先生の身体論や共同体論、師弟論は、短歌における文体の問題や結社の問題などを考える上で、非常に大きなヒントになると思います。
最近刊の『街場の共同体論』(潮出版)も、とても考えさせられ、心に沁みました。
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●私を支えた歌論
「私を支えた」ということになると、内田樹氏の評論について書かざるを得ない。
この数年間、内田氏の著作を繰り返し読むことで、短歌について新しい見方ができるようになったし、どのように批評の文章を書けばいいのか、ということも学んだように思う。
もちろん内田氏は直接に短歌について書くことはない。しかし、氏の文章には歌論のヒントになるようなアイディアがいくつも散りばめられている。
たとえば、最近の『呪いの時代』(新潮社)を覗いてみよう。
▼▼▼引用はじめ▼▼▼
「『記述』することによって僕たちは何かを確定し、獲得し、固定するのではなく、むしろ記述すればするほど記述の対象が記述し切れないほどの奥行きと広がりをもつものであることを知る。対象はそのつど記述から逃れてゆく。千万言を尽くしても、眼前の花一輪も写実的に描写し切ることができない。写生が僕たちに教えるのは『なまもの』の無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさです。」
(p.56)
▲▲▲引用おわり▲▲▲
〈写実〉また〈写生〉について、短歌ではこれまで幾たびも論じられてきた。
しかし、そのほとんどは「どのように写生するか」または「写生とは何か」という観点から書かれたものだった。
だが、内田氏の発想は全く違っている。内田氏は、世界の豊かさは言葉(記号)によって記述することはできない、と言う。そして、描写が不可能であることによって、かえって生命には無限の広がりがあることを「祝福」することになるのだ、と説くのである。
この論理展開には逆説的なところがあり、内田氏の著作を読み慣れていないとわかりにくいかもしれない。具体的な歌に沿って考えてみよう。
『万葉集』には「見れど飽かぬかも」という結句の歌がいくつも存在する。
百(もも)づたふ八十(やそ)の島廻(しまみ)を漕ぎくれど粟(あは)の小島は見れど飽かぬかも
(巻九・一七一一)
柿本人麻呂作と伝えられる歌。たくさんの島を漕ぎめぐってきたけれど、粟の小島の美しさは、いくら見ても見飽きることがない、という意味。
つまり、人間は風景をいくら見続けても、すべてを見尽くすことはできないのだ、という不可能性がここには表現されている。
そして、この風景を歌い尽くすことはできない、という断念があるからこそ、逆に読者には「粟の小島」の言語化できない美しさが手渡されることになる。
正岡子規の有名な藤の花の歌でも、彼がせいぜい描写できたのは、藤の花ぶさの畳に届かない短さだけであった。花がどのような色をしていたか、などということは一切歌われていない。しかし、描写されないことによって、かえって「なまもの」である藤の花の美しい生命力は伝わっていくのである。
ほんとうに美しいもの、豊かなものを写生することはできない。人間にできるのは、その周辺にあるささやかなものを書き留めることだけである。
ヴェネチアのゆふかたまけて寒き水黒革(くろかは)の坐席ある舟に乗る
佐藤佐太郎『冬木』
こうした歌が典型的なのだが、「黒革の坐席」を描くことが重要なのではない。むしろ、それを描くことで、言葉では表すことのできないヴェネチアの夕暮れの無限の美しさを讃えているのである。
ほんのわずかなものを写生することによって、写生できないものの奥深い生命感に触れることができる。それが〈写生〉の根源にある思想かもしれない。
内田樹氏の文章を、私なりに敷衍して書いてきた。このように、内田氏の発想を短歌に応用しながら考えることが、私にはとても楽しいのである。文章を読みながら、共に考えるという感覚を与えてくれるからだ。
良い評論とは、正しい結論が書かれた文章なのではない。結論を強引に押しつけたりせず、読者も一緒になって、対話をするように思索を続けることができる。そんな親しみやすさや開放感のある評論が、もっとも貴重なのではないだろうか。
内田樹氏は「読者に敬意をもつこと」が文章を書く上で大切だと、どこかで書いていたが、これもまさに私を支えた一言であった。