2009年に、短歌新聞に書いた短い時評。8年も前になるのか。
この年に出た篠弘の歌集『東京人』について書いている。
こういった短歌作品が残っているために、現在が照射されるわけで、やはり貴重なことだと思う。
==============================================================
篠弘の最新歌集『東京人』の「声明をあぐ」という連作は、重要な問題作であろう。平成十八年、日本ペンクラブは「共謀罪」に反対する声明を出した。篠は、その声明文をまとめる仕事に関わっていたらしい(「共謀罪」は現在、廃案になっている)。
・テロ防ぐためと覚しき共謀罪発端からを目つむりて聞く
「共謀罪」は犯罪計画に加わるだけで処罰されるというもの。条文に曖昧さがあり、運用によっては、かつての治安維持法のような危険をはらむと言われている。ただ、地下鉄サリン事件のようなテロが現実に起きている以上、必要性を認める意見もある。
団体の中にもさまざまな考え方の人がいるため、皆が納得するような声明文をつくるのは非常に難しい。多様な意見を反映することで、最初の純粋さは少しずつ変質していくわけである。
・提案に補足がありてみづみづしかる截り口は見えなくなりつ
・代案を諮らむとするひとときを頻脈ながくそよぎてをりぬ
・方針が出されしのちに蒸しかへす若きひとりを遮らずゐる
こうした歌には、政治について論議する難しさや緊迫感がくっきりとあらわれていて、印象的であった。一首目の「みづみづしかる截り口」は象徴的な表現だが、ストレートな主張が失われていく無念さがよくあらわれている。二首目は、「頻脈」という身体表現が、会議中のはりつめた空気をリアルに伝えている。
・党員をかかへし編集部の長(おさ)として事典の偏向を怖れし日あり
こうした回想を挟んでいるのも誠実であろう。べつに共産党を否定するのではないが、その主張に引きずられると、事典の信頼性が低くなってしまう。バランスを取らなければならない立場というものはあり、一方向へどんどん突き進むより、もっと苦しいことがある。その心理が短歌に詠まれることは少ない。その確執や揺らぎがとらえられているところに、篠の歌の価値があると私は感じている。
・声明を出したるのちにこれ以上政治への参与を否(いな)む人あり
政治に対して文学はどう関わっていくべきか。篠はおそらく「参与」すべきという意見だろうが、一定の距離をもつべきだと考える人もいる。この一首で、作者は何も感想を述べていないが、意志を一つにまとめることのできない、深い孤独感が滲み出しているようである。