忙しい日々が続く。
明日から1週間くらい出張なので、その間に締切がやってくる原稿を、何とか書き終える。
と言いつつ、今日は『桐島、部活やめるってよ』をDVDで観ているのだから、時間があるのか無いのかよくわからない。(いい映画でした。映画館で観ておくべきでした)
この1か月くらい、最近リクエスト復刊された『玉葉和歌集』(岩波文庫)を、少しずつ読んでいた。
1312年だから、鎌倉時代末期の成立。清新な自然描写が特徴と言われる歌集である。
私にとって、この歌集の圧巻は、巻第十五の雑歌二、ページ数でいうと、p.331~p.333あたりであった。明け方や夕暮れの山の風景を繊細に詠んだ歌が、続けざまにあらわれる。
星の影もそなたは薄きしののめに山の端みえて雲ぞ分かるる
従二位兼行
明け方になり、東の空では星の光が薄れてゆく。同時に、山の稜線が見えてきて、雲の輪郭も浮かんでくる。時間の微妙な移り変わりを、丁寧にとらえている。
横雲のわかるる山の明くるより道見えそむる松の下かげ
前参議清雅
朝の山が明るくなるにつれて、道が見えはじめる、と歌う。視覚的で、リアルな把握である。
行けど猶まだ寺見えぬ松原の奥よりひびく入相の聲
前大納言家雅
これは、現代でもよくありそうな構図の歌だが、遠近がくっきりしていて、見えない寺に近づいていく夕暮れの哀感が静かに伝わる一首であろう。
雲鳥もかへる夕の山かぜに外面(そとも)の谷のかげぞ暮れぬる
伏見院
「雲鳥」は雲の中を飛ぶ鳥の意味らしい。「外面の谷のかげ」という描写が細かく、これによって、山の陰影が鮮やかに感じられる。たしかに、このように、山は谷のあたりから夕闇に沈んでゆくものだ。
遠方(おちかた)のむかひの峯は入日にてかげなる山の松ぞ暮れゆく
従三位親子
これも、山の遠近が細やかに描かれている歌。遠い峯はまだ夕日に照らされているが、近くの山はもう暗くなっているのである。このあたりの表現は、じつに風景をよく見ていると思う。私は京都に住んでいるので、中世の歌人と同じ山の夕暮れを見ているのだ、と思うと、凄く嬉しくなるのである。結句の「松」をわざわざ出しているところもいい。この点景が加わることで、絵画的な印象はさらに強められるのである。
山本の木陰は夜とながむれど尾上はいまだ夕暮の色
式部卿親王
これはその変奏といった感じ。木陰はもう闇になっているが、山の上のほうは、まだ明るく夕陽が差しているのである。この歌はやや対比が見えすぎるか。
見るままに山は消えゆく雨雲のかかりもしける槙の一もと
永福門院
雨のときは、京都の山はこんな感じで、みるみるうちに雲に呑まれてゆく。槙の木が一本、かろうじて見えていたのだが、やがて消えていってしまったのではないかな。映像的な表現であると思う。「見るままに山は消えゆく」なんて、現代短歌でもありそうなフレーズだ。
このような感じに歌が続いていって、やがて
月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる
建礼門院右京大夫
の絶唱へとつながっていく。この巻の歌の流れはじつにいい。
静かな風景の美しさに満ちている。
『桐島、部活やめるってよ』で、映画部の男子高校生(神木隆之介)が、将来、映画監督になれそうにもないのに、なぜ映画を撮るのか、と同級生に聞かれて、
「自分で映画を撮っていると、自分が好きな映画の世界と、ほんの少しだけ繋がったような気がするから」
といったことを答えるシーンがあった。
このセリフはよくわかる気がする。
短歌を作っていると、何百年も前の歌人たちの眼に映っていたものが、ほんの一瞬、自分にも見えたような感覚をもつときがある。
何百年も昔の夕暮れが、蘇ってくるような気配がする。
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