出張が多くて、約1週間の旅からようやく帰ってきたところ。
帰るとすぐに、ある会があって、 大島史洋さんの歌集『遠く離れて』(ながらみ書房)について話す。<o:p></o:p>
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積まれいし書類がいつかなくなりぬ癌を病みいる同僚の机<o:p></o:p>
役職のかわりしたびにもらいたる友の名刺よすでに亡きかも<o:p></o:p>
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<o:p> 大島さんは、サラリーマンの歌を多く作ってきました。こうした歌は、私も同じような経験をしましたので、身に沁みてよくわかります。1首目は、死を覚悟して少しずつ身辺整理をしていたのでしょうね。あるいは、仕事の量が減らされていったのかもしれません。淡々と詠まれていますが、哀切が深い歌です。
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2首目の、役職が変わるたび名刺を交換する、というのも、いかにも会社の友人らしい付き合い方で、結句の「すでに亡きかも」で、その関係が断ち切られたことが、強く響いてくる。
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穏田橋記念碑として石柱の残れば菫の花が囲めり<o:p></o:p>
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<o:p> こういう即物的な歌もいいですね。スミレの花は、よく石の隙間に咲いている(蟻が種を運ぶかららしいです)。「囲めり」という動詞の使い方も参考になるところです。「穏田橋」という固有名詞も効いているでしょう。また「穏田橋」「石柱」「菫の花」という組み合わせがよくて、白っぽい石のあいだに咲く紫の花が目に浮かんでくる。
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棚を吊りわずかに広くなりし部屋妻はよろこぶその下に立ち<o:p></o:p>
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<o:p> こういう日常の機微を描いた歌も、大島さんの得意とするところです。「よろこぶ」だけでなく、結句の「その下に立ち」という行動が入っているところに味わいがある。人物の動作を捉える。短歌では大切なことです。
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忘れぬよう五分前には聞いている中国語講座の前のイタリア語講座<o:p></o:p>
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<o:p> 思わず笑ってしまう歌ですね。よくあることなのですが。当たり前なことを、そのまま歌うと、不思議なおもしろさが生まれることがある。聞くともなく聞いているイタリア語に、いつしか心を惹かれたのでしょう。
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昨夜見し噴水如何にと来てみれば同心円の溝あるばかり<o:p></o:p>
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これも、当たり前のような歌ですが、「同心円の溝」が的確な表現です。昨夜は華やかに見えていた噴水が、今は即物的な姿をさらしている。寒々とした印象が伝わってきます。
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巨大なる竜馬の像を見あげつつひとまわりしてその影に入る<o:p></o:p>
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<o:p> これもユーモラスな歌ですね。「その影に入る」という動作が、この歌もよく効いています。坂本竜馬像なんて、有名すぎる観光地を歌うのは難しいものなんですが、この歌は、旅のリアルな場面を、簡明に描いていますね。
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背後より母を支えて こんなにも母のからだに触れしことなし<o:p></o:p>
父とふたり畑に入りて里芋を掘るなり今宵の味噌汁のため<o:p></o:p>
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<o:p> ここから、病気の母を詠んだ歌が続きます。一首目は、息子と母の関係を端的に歌っていて、哀しい響きがあります。二句目で、ふっと切れているところに、言葉にできない思いが籠もっている。
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<o:p></o:p>二首目もなんでもない歌なんですがね。母が病気であるという背景を置いて読むと、静かな寂しさが伝わってくるように思います。こういう歌も、歌集の中では大切なんですね。
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中津川行き先頭車両にわが立ちて線路を見つむ死者に会うべく<o:p></o:p>
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<o:p> 母の死の知らせを聞いて、故郷の中津川(岐阜)に向かっている場面。先頭車両に乗っても、早く着けるわけではないですが、やはり前のほうに立ってしまうように思います。そして、線路を見つめているしかない。人間の真実が、よくあらわれている歌だと、私は思います。
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母の死に一時間遅れて着きしかば静かな病室医者も看護婦も来ず<o:p></o:p>
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<o:p> これも、胸をつかれる歌ですね。亡くなったあとは医者も看護師も去って、死者だけが病室に残される。現実の死の空虚感が、ひしひしと伝わってくる。母の臨終に会えなかった悔しさも、言外ににじみ出ているようだ。「来ず」という結句に、強い響きがあります。
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葬儀終え喪服のままに街をゆく線香立ての灰を買うため<o:p></o:p>
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これも、事実をそのまま歌った一首ですが、奇妙な読後感が残っていく歌ですね。葬儀という非日常が終わって、日常へ戻っていく。そのときの戸惑いが、「線香立ての灰」という具体物を介在させることで、とてもリアルな形で読者に手渡される。
すこし珍しい挽歌だと思いますが、印象に残る一首でした。
日常のなかの事実を切り取って歌うのが、大島さんの歌風なのですが、ドライで素っ気ないようなおもしろさが生じています。こうした、ざっくりとした飾り気のない歌にも、独自の魅力があって、大島さんはそれを徹底して探求してきた歌人だと思います。