シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

「光まみれ」について

2013年04月17日 | インポート

少し前の話題になるのだが、角川「短歌」2月号の鼎談で、俳人の片山由美子さんが、次のようなことを話されていた。

▼▼▼引用はじめ▼▼▼

・若手俳人の神野紗希さんの『光まみれの蜂』(平24刊)という句集があって、そのタイトルに引っ掛かりました。ある俳句結社誌の書評に、「まみれ」ということばは美しいものには使わないという、かつて私が書いた文章を引用しながら、でも、自分は「光まみれの蜂」という言葉が好きだと書いた人がいたんです。(中略)若い人たちは抵抗なくそういうことばが出てくるのか、あるいは常識破りをあえてやることで新しさを出したいと思ったのか。そのあたりに興味があります。

・その人が使いたいのならそれでいいのですが、私は指導している句会で「囀りや光まみれの……」などと出てくると、それはやめるように指導します。

・表現をわざわざ汚くする必要はないかなと。

▲▲▲引用おわり▲▲▲

というふうに、「光まみれ」という言葉が正しくないと、非常にこだわっておられる。

神野紗希さんの句集の題は、

  ブラインド閉ざさん光まみれの蜂

からとられているのだが、私は俳句のことはよくわからないけれど、「光まみれの蜂」という表現はおもしろいと思った。

片山さんは、「まみれ」は美しいものには使わない、と書かれているが、これは不十分な言い方で、たとえば「汗まみれで農作業をする」というふうに使うが、この「汗」が美しくない、とはけっして言えない。そもそも、ある言葉が美しいか、美しくないかがアプリオリに決まっているわけではない。
むしろ、「まみれ」というのは、液状のものがからみつくような感覚をあらわす言葉で、「光まみれ」は「光」を液体的な感じで表現していることになるのではないか。
だから、粘っこい光に包まれている蜂の姿を、私は思い浮かべる。たしかに、窓際にいるつやつやとしたような蜂が、そんなふうに見えることはあるようにおもう。
もちろん、「光まみれ」は破格の言い方で、違和感をもつ人もいるだろう。だが、その違和感ゆえに、読者の目を惹きつけるのだともいえる。(これを「異化効果」などとも呼ぶ)
片山さんは、「囀りや光まみれの……」という句があったらやめるように指導する、と述べているが、それは当たり前の話で、「光まみれの」というのは、神野さんのオリジナル(に近い)表現だろう。それをそのまま真似てはダメに決まっている。(もしかしたら「光まみれの」という表現に先行句はあるかもしれないが、「蜂」と結びつけた点に新鮮さがあるだろう。)

これは『対峙と対話』(青磁社)という本にも書いたことなのだが、上田三四二といえば、非常に日本語を大切にした歌人・作家として知られている。
その上田が、

  ・暮方(くれかた)にわが歩み来(こ)しかたはらに押し合ひざまに蓮(はす)しげりたり
                                       佐藤佐太郎『歩道』


という一首を挙げ、この歌の「ざま」は「どぎつい言葉」「歌では使いにくい言葉」だが、それが「一首の眼目として生かされているのに私は注目した。」と述べているのである。(『短歌一生』)
そして、上田は、

  ・瀧の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す      『遊行』

という自らの歌でも「ざま」という言葉を用いているのである。この瀧の歌は名歌としてよく知られている。「どぎつい言葉」であっても、使い方によっては、非常に大きな効果を上げることができる。まさにその典型例と言っていいだろう。

まあ、もちろん、「光まみれ」のような常識を破る表現に強硬に反対する人が居てこそ、こうした〈ずらす〉表現は、衝撃力を生むということも言える。だれも反発をしなかったら、それはそれでおもしろくないという面もある。
なかなか難しいところなのだが、ただ、こうした表現は「若い人たち」がやっているのだ、というふうには考えないほうがいいと思う。異化効果は、年齢に関係なく、誰にでも試みることができる表現の飛躍なのである。

  ・雨の中をおみこし来たり四階の窓をひらけばわれは見てゐる     『草の庭』

一見なんでもないような歌に見えて、とても奇妙な表現が使われている。
どこが変わっているのか、なぜ常識を超えているのか、じっくり考えていただくといいと思う。








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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして、ツイッターのリンクから飛んで、本... (momoe)
2013-04-18 01:35:38
はじめまして、ツイッターのリンクから飛んで、本投稿を読ませていただきました。
私は短歌が好きなので気付いたことですが、
隕石のひかりまみれの手で抱けばきみはささやくこれはなんなの(穂村弘)
が短歌ではありますが先行例ではないかと思いました。
…と、歌人の吉川さまに申し上げることではなかったかと思いますが…
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momoe様 (吉川宏志)
2013-04-18 12:14:52
momoe様

おお、すごい。
よく見つけましたね。いや、私、いちおう歌人ですけど、まったく気づきませんでした。
短歌・俳句の場合、探していくと、先行する表現が見つかることは多いものですね。
ブログの本文にも書きましたけれど、神野さんの俳句は、窓の日光と「蜂」と結びついているところに良さがあって、穂村さんの歌とはまた別の世界があるのではないかと思います。
穂村さんの歌は、幻想的ですね。(SF映画の一場面のような印象を受けました)
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