シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

谷とも子歌集『やはらかい水』

2017年09月01日 | 日記

 友人の谷とも子さんの第1歌集『やはらかい水』(現代短歌社)が刊行された。

 解説も栞もない、すっきりした一冊で、いさぎよい印象を受ける。

 ただ、第1歌集の場合、少しは案内みたいなものがあるほうが、読みやすいという面はある。そこで、私の好きな歌をいくつか挙げて、未読の方のために、この歌集の魅力を紹介したいと思う。

 

  靴ひもを結びなほしてゐるときの木の陰を咲く一輪草は

 

 作者は山歩きをする人である。一輪草は春に林などに白い花を咲かせる。上の句がいい感じで、かがむことで視線が低くなり、そのために木の陰にある白い花が見えたのだ。花の見え方に臨場感がある。「木の陰に」ではなく「木の陰を」。この助詞の使い方もうまい。一輪草が、自分で咲いているような感じが生まれる。

 

  雨はもう止むんだらうな木の下のリュックに鳴つたサクマドロップ

  山蕗のまだやはいうちを摘みとつてうれしいこんなに指が汚れて

 

 これも山歩きの様子がいきいきと見えてくる歌。「止むんだろうな」という口語や、サクマドロップの音がよく効いている。二首目、「うれしい」という率直な言葉に、新鮮な響きがある。「うれしい/こんなに」のリズムがいいのだろう。山蕗に触れて指が汚れる喜び。自然にじかに触れた喜びが、読者にも伝わってくる。

 

  たましひのはうと抜けゆく口に似る靴を買ふため脱ぎたる靴は

 

 これは都市生活の歌。靴売り場で靴を買うとき、よくあることだが、このように言葉で切り取ると、とてもおもしろく感じられる。上の句の比喩には、作者の疲労感も反映しているのかもしれない。

 

  木の影とわたしの影のまじりあひとても無口な道となりたり

 

 シンプルな歌である。こんな簡潔な言葉なのに、山林の中を続く道の情景が見えてくる。こうしたすっきりとした歌が作れるかどうかで、歌の力量は見えるところがある。

 

  夕焼けにひとりひとりが押し出され鞄さげつつ下りゐる坂

 

 これも、単純明快な歌。「夕焼けに~押し出され」が良くて、巨大な夕焼け空が見えてくる。陰影がくっきりした、質感のある一首だ。

 

  泣けなくて耳のうしろが詰まりさう栗のはな吹く火葬場への道

 

 上の句のような、微妙な体感を詠んだ歌も印象深い。たしかに、泣きそうになるとき、耳のうしろがつんとするような変な感覚はあると思う。ただ「栗のはな吹く」は、凝りすぎでやや惜しいか。

 

  夏の夜の力なだめてゐるやうに星は広がる間隔空けて

 

 夜明けが近くなり、空が明るくなって、星が少しずつ消えていき「星は広がる間隔空けて」と感じられたのだろうか。ちょっと解釈に迷うが、冒険している表現であろう。上の句も、歌会で出たら批判を浴びるところかもしれない。だが、歌集の中では、こうした思い切った歌がいくつか混じっているほうが、スリリングでおもしろいように感じる。

 

  ことごとく雨ひき寄せて今日もまた熊野の山は熊野に在りたり

 

 古くから霊地であった熊野。現代でも、さまざまな歌人が熊野を詠んでいるが、非常に難しいテーマである。この歌は、その中でも屹立している一首と思う。上の句の身体的な表現、下の句の力強いリフレイン。熊野の山が、なまなまと目の前に存在している感覚が、まっすぐな歌い方で、ぐっと響いてくる。

 

  軽石が体にぎつしりあるやうな笑へばぼろぼろと溢れるやうな

 

 身体感覚そのものを歌おうとしている作も、歌集中にしばしば見られる。そのいくつかはやや無理している感じもあるのだが、この歌は、とても奇妙なのに、すごく分かる感じがする。「軽石」がリアルで、この一語で生命感が宿った歌だ。

 

  つぎつぎと竹割りながら焚くひとの素手を見てをり火の色の手を

 

 これは、構図のしっかりとした写実の歌。最後の「火の色の手を」がとても鮮やかで、映像的な動きが見えてくる感じがする。竹は、とても明るく燃え、ときどきバシッと鳴ったりする。竹を切る作業をする人への、信頼感のようなものも、歌の背後にあるように思われる。

 

 ほかにも好きな歌はいくつもあった。

 

  駐車場の(1)(3)(6)にそれぞれの猫の眠りのかたちの春よ

  波豆川(はづがは)のバス停おりる昨夜(きぞ)の雨の残しゆきたる水跨ぎつつ

  日本のトーテムポールに似てわれら前を見てをり喫煙室に

  駅に買ふひとりひとりの切符には同じ日付が記されてあり

  石ふかくおほふ草々濡らしつつしだいしだいに霧は消えゆく

  人はたいてい人を待ちをり山桃が潰れてへばりつくこの場にも

  眠つたやうな眠れないやうなながい夜のとぎれとぎれを鴉鳴き過ぐ

  曲がるたび夜はふかくなり五回めを曲がればぢきにわたしの鍵穴

  踏むたびに水と落葉はめくれつつ水と落葉のふかさを見せる

  しろがねのホッチキスの芯絡みつく絨毯ほじり冬の夜ふけを

 

 歌のうまい作者であるが、それだけではなく、山を歩くときの自然との交感を、なんとか言葉であらわそうとする真摯さがひしひしと感じられる。草や木のにおいや触感は、言葉ではなかなか表現しづらいものなのだが、それを必死につかもうとしている。そこから、ユニークで勢いのある表現が生まれてくる。読み応えのある、充実した一冊であった。