シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

「無名抄」の文庫化を祝って

2013年03月31日 | インポート

無名抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) 無名抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
価格:¥ 1,200(税込)
発売日:2013-03-23

角川ソフィア文庫から、『無名抄』が新刊で出ていて驚く。

『無名抄』とは、鴨長明が13世紀に書いた歌論書で、じつにおもしろい著作である。
当時の歌人のエピソードを踏まえつつ、和歌の本質を明快に解き明かしていく。
そして、そこには現代にも通用するアイディアがいくつもひそんでいる。
評論を書くとき、『無名抄』を引用したことは何度もあった。
かなり以前から、私は『無名抄』のファンなのであった。

しかし、この時代、こんな本が売れるとはあまり思えない。
角川学芸出版は大英断をされたと思うが、ちょっと心配になる。
ここを読んでいる人は、ぜひ買ってください。
決して損はしないと思います。

何度目かの通読をして気づいたことがある。
なぜ、『無名抄』が、古文なのに不思議に読みやすいのか、ということである。
鴨長明は、読者への心配りが非常に丁寧なのである。
たとえば和歌の「幽玄体」とは何かについて説明しているところを見てみよう。
長明は、Q&Aの形で書いている。

▼▼▼引用はじめ▼▼▼
問ひていはく、「(中略)その幽玄とかいふらむ体に至りてこそ、いかなるべしとも心得がたく侍れ。そのやうをうけたまはらむ」といふ。
答へていはく、「すべて歌姿は心得にくきことにこそ。古き口伝や髄脳などにも、難きことどもをば手に取りて教ふばかりに釈したれど、姿に至りては確かに見えたることなし。いはむや、幽玄の体、まづ名を聞くより惑ひぬべし。みづからもいと心得ぬことなれば、定かにいかに申すべしとも覚え侍らねど、よく境に入れる人々の申されし趣は、詮はただ言葉に現われぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし。
▲▲▲引用おわり▲▲▲


長明は、歌の姿というのは理解しにくいものなんですよ、と読者を安心させるように言う。
それは目に見えるものじゃないですからね。「幽玄体」なんていきなり言われたら戸惑ってしまいますよね、と読者の身になって答えようとするのである。
この、読者の身になって考える、という書き方は、現在でもなかなか難しい。いわんや、鎌倉時代の当時としては、じつに斬新だったのではないだろうか。(私は専門家ではないから、断言はできないけれど。)
そして、「みづからもいと心得ぬことなれば」、いやあじつは私もよく分かってないかもしれないんですけどね、とさらに読者をリラックスさせておいて、

「詮はただ言葉に現われぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし。」

と、本質をいきなりズバリと述べるのである。この呼吸がとてもうまい。
そして、テーゼ(命題)を先に述べておいてから、具体的にたとえを用いながらわかりやすく説明していく。

▼▼▼引用はじめ▼▼▼
たとへば、秋の夕暮れの空の気色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなるゆゑあるべしとも覚えねども、すずろに涙こぼるるがごとし。これを心なき列(つら)の者は、さらにいみじと思はず、ただ目に見ゆる花紅葉を愛で侍る。
▲▲▲引用おわり▲▲▲


秋の夕暮れの空は、なにもないのに、なぜか悲しい気持ちにさせる。このように、風景が人の心に働きかけてくることがあるのである。しかし、鈍感な人は何も感じず、ただ紅葉だけを喜んでいる。人の心の持ちようによって、同じ景色であっても、感じ方は変わってくるものなのだ。
つまり、直接的な言葉で書かれていなくても、気配のように感じられてくる情趣というものがある。それが「幽玄」というものなのだ。

なるほど。どうだろうか。私はこの説明で、深く納得したのである。たしかに現代短歌でも、何でもないことを歌っているようで、心に静かに沁みてくる歌がある。そんな歌は、わからない人にはまったくわからない。世の中には、書かれていることだけしか読めない人がいるからだ。


青い空とてもにぎやかに晴れながら昏れてゆくなりまだ青いまま
                         河野裕子『季の栞』


これは、何も言っていないような一首なのだが、私は特に好きな歌である。
何か深い哀感が、言葉の背後に存在しているような感じがするからである。
声に出して読んでみるとわかるのだが、韻律の上で、胸に響いてくるものがありそうな気がする。そうした心の働きを、鴨長明はたしかに感じ取っていたように思う。

▼▼▼引用はじめ▼▼▼
霧の絶え間より秋の山をながむれば、見ゆるところはほのかなれど、おくゆかしく、いかばかりもみぢわたりておもしろからむと、限りなく推し量らるる面影は、ほとほと定かに見むにもすぐれたるべし。
▲▲▲引用おわり▲▲▲


霧の中の秋山を見ると、どれくらい紅葉があるのだろうと想像力が働くという。この比喩もわかりやすい。
だから、直接的な表現よりも、何も言わない表現・間接的な表現が、和歌においては大切なのだ、ということがわかってくる。

これは別のところにあるのだが、

鹿の音(ね)を聞くにわれさへ泣かれぬる谷の庵は住み憂かりけり
                                静縁法師


という歌の批評を求められ、「泣かれぬる」が言い過ぎですね、と述べたところ、この部分が歌いたかったのにー、と静縁法師が怒ったというエピソードが書かれている。
長明にしてみては、「泣かれぬる」と直接的に歌ってしまっては余情がなくなってしまうことが言いたかったのであろう。
けれども、それはなかなか通じない。現代でもそうなのだが、言いたいことを言ってしまいたい欲望が我々にはある。言いたいことをいかに言わないか、というせめぎあいが、歌では大切なのかもしれない。付け加えておくと、言いたいことが何もない、という状態もまたダメだろうと思う。
言いたい、という心と、言わないようにしようという心のぶつかり合いが、緊迫した韻律を生み出すのではないだろうか。

このように、『無名抄』は、短歌についてさまざまなことを考えさせるヒントが、宝庫のように詰まっている本なのだ。
鴨長明は、難解なことをわかりやすく説明する名手なのである。
〈啓蒙的な知性〉の持ち主だったと言っていいのかもしれない。

また、あるところでは、

▼▼▼引用はじめ▼▼▼
所々にへつらひ歩きて、人に馴らされたちなば、歌にとりて人に知らるる方はありとも、遷度の障りとはかならずなるべかめり。
▲▲▲引用おわり▲▲▲


「あちらこちらの会に出て、調子よく発言などしていると、名前は知られるようになるかもしれないが、長い目で見ると、結局ダメになってしまうのである。」(超訳)
という戒めも書かれてあったりする。これなんか、まさに現代でも当てはまることかもしれないですね。

























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