岡部桂一郎氏が亡くなったことを知り、寂しい。
・ここは故郷の橋ならねども旅人の渡りしあとを木枯わたる 『一点鐘』
という歌を思い出す。
木枯のようにこの世から、すっと去っていかれた。
岡部さんの歌は、文語口語混じりの新仮名表記であって、やわらかい印象を与える新仮名の使い方がとても好きであった。私もずいぶんそれに学んだ気がする。
「短歌現代」2011年10月号に「大正世代の歌」というテーマで書いた文章を、再掲しておきたい。
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「路上の壺」
一九九四年に、私は現代短歌評論賞を受賞した。二十五歳だった。そのとき短歌研究賞を受賞されたのが、岡部桂一郎氏で、授賞式の前に少しだけお話をする時間があったのである。たしか、白くてストライプのあるスーツを着られていて、とても洒脱な感じがあった。
しかし岡部氏は、短歌評論なんて信用していないようで、煙たがるような気配が伝わってきた。しかも年の離れた若い歌人相手だから、あまり話をする気もないようだった。もちろん、それは私の勝手に抱いた印象だったかもしれない。
だが、少し前に読んだ『戸塚閑吟集』がとてもおもしろかったので、その感想を私は述べた。
すると岡部氏は、こんなことを言われた。
「僕の歌は、路に並べて売っている壺みたいなもので、好きな人は勝手に持っていってくれるんだよ。」
こんな風に自分の歌のことを語る歌人には会ったことがなくて、鮮やかに記憶に残った。そして短歌を作り続けていると、たしかに短歌にはそんな面もあるなあ、と感じるようになった。
岡部氏の戦後まもないころの歌は「肉体短歌」などと呼ばれた。
うち対(むか)ふベアトリーチェにあらなくにほとの柔毛(にこげ)とわが暗き影と
などの歌について、木俣修は『昭和短歌史』の中で、敗戦後の新しい短歌文学を生み出していくものとは認められず、「俗流」であり「あだ花」であると厳しく批判している(評論不信になるはずである)。たしかに、当時重要だった「戦争責任をどう捉えるか」という問いにこたえる歌ではない。「文学」といった大上段の価値観のもとでは、論じることのできない歌かもしれない。
しかし、この歌は作られて六十年以上経っても、暗い光沢を帯びている感じがする。ベアトリーチェはダンテの『神曲』に登場する〈永遠の女性〉のことだろう。だが、そんな女性を求めることもできず、性愛に溺れていく現実が、乾いた感覚で歌われている。特に下句が即物的で、どこか彫刻を見るような印象を受ける。
短歌史的に評価される歌も、もちろん大切である。しかし、それがすべてではない。日常生活の中から何でもないような形で生まれてきて、それでいて、ずっしりとした存在感をもつ歌もあるのである。「路に並べて売っている壺」という言葉は岡部桂一郎の歌のたたずまいをよく表している。何かを強く主張する歌ではないが、豊かな造形性をもっている。
臼ほどの大きな月がいま昇る泣いているのか辛棒をせよ 『竹叢』
どんな状況かはわからない。ただ月の重量感だけはくっきりと伝わってきて、「辛棒をせよ」という一語が妙に心に残る。歌というのは、それでいいのだ、という信念を、岡部桂一郎は長い時間をかけて貫き通してきたように思う。
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