天木講演会について

2006年08月30日 14時56分45秒 | Weblog
このブログの上の方に案内があるとおり、9月5日に天木直人さんの講演会が開催される予定であり、その準備の一部を担わせてもらっている。

なんとか殺人事件などというのは関心を呼んでいる事件なのかもしれない(それではいけないと思いつつ最近地上波の夜のニュースを見ておらず、目覚まし代わりの朝ニュースがそんなのばかりやってるのを半分寝ながら見聞きしている)が、ちょっとこれは何かの陰謀なのか?とすら思えるくらいだ。

「停戦」以降も占領と封鎖はつづいており、少なくとも2回の停戦破りが行われており、「第2ラウンド」などということばが不気味に唱えられており、何よりもガザで家屋破壊、人殺し、空爆がつづいている。

再びもう少し事態が悪くなったときに「遠いところ」で起こっている出来事をイチから学びなおすのであろうか?

天木さんの本を読んで思うのは、(たとえば「憲法9条」について)柔軟にその考えを変えていくところとか、(とくにレバノン大使時代に書かれた「アメリカの不正義」読んで思うのだが)自分なりに状況をスタート地点からとらえていこうとする姿勢とかにはとても共感しうるところがあるということだ。もちろんある種の「官僚くささ」を指摘する向きもあるだろうが、それはそれとして、彼の視点から捉えられた今日の情勢観から学びうるものは決して少なくないと考えている。

まあ、ちょっと興味をひかれた方はのぞきに来てくださればと思う(本当は、顔真っ赤にして「大結集」を訴えたいところ?)。

遅ればせ

2006年08月30日 14時27分48秒 | Weblog
いつもそうなのだが、何事につけ遅ればせながら、である。
栗原幸夫さんのホームページを今さらながらチェック。
2002年12月段階での「国体護持の深層-昭和天皇・マッカーサー会談から見えるもの」という論文も、いまさら新鮮な驚きをもって読んでるなんて不明の至り。

一部引用してみる。
「早期の講和と占領軍の撤退を実現して、相対的にではあるにせよ自立的なコースを歩もうと意図した吉田茂や白州次郎のラインを妨害し、日本政府のあたまごしに最高権力者であるマッカーサーに庇護を求め、反共イデオロギーと冷戦の激化に自分の生き残りの活路を見出す。それが昭和天皇の『国体護持』の方策だった。彼はただ保身に汲々とする無恥な人間だったのだろうか。私はかならずしもそうとばかりは言えないように思う。彼もまた使命に身を捧げたのだろう。『天皇制護持』という使命に。彼にとって天皇制とは彼自身のことだったのである。しかも彼の天皇制護持は、日本国民の支持によるものではなく、もっぱら米国の武力に依存するものだった。」


10月までに「抵抗の主体とその思想」というインタビュー集がインパクト出版会から刊行されるようで、要チェックだ。

実感について

2006年08月29日 15時19分27秒 | memo
「(栗原幸夫)ただ、実感ということでいま考えてみると、たとえば何かある事柄にぶつかって、これは変だなと違和感を感じるでしょ。だけどそれをとことんまで追究しなかったことが、ぼくの最大の反省ですね。追究しなかったというのは、これを変だと感じる俺のほうが変なんじゃないかとか、これを変だと感じる俺はプチ・ブル的なところがあるんじゃないかとか、と考えて違和感を押しつぶしちゃうんです。しかしそういう感覚的なものって意外に正しいんです。これは一度は絶対に正しいと思ったほうがいいというのが、ぼくの経験から出てきた結論だな。いまの若い人はいつも自分を絶対に正しいと思っているのかもしれないけどね。
池田(浩士)思いすぎていますよ。
天野(恵一)たまには疑ってみろと言いたいですよ。
栗原 
そうだねえ。しかしぼくの経験では、あとで考えてみて、あの時変だと感じたその感じはやっぱり正しかったんだなと思うことがずいぶんありましたね。」
(栗原幸夫「革命幻談・つい昨日の話」77ページ~78ページ)

もうひとつ同書より
「まあ因縁というかね。平野義太郎という人は紳士でしたね。非常にいい人だなあという印象を受けました。それでね、ぼくはいい人というのは駄目じゃないかという教訓を得ましたね」(81ページ)



「戦争で死ぬ、ということ」

2006年08月28日 18時59分32秒 | 感想
なんで左翼に、じゃないけど戦争についてかかれた本でもルポでも読んでなお、戦争を正当化できるのだろうか、などということはやはり思っていたことがある(とはいえ「VS」本を読んでなおrya)。
それでも、戦争について考えるということはやはりそこで何が起こるのかということと切り離しては考えられない。
「薬害による死、公害による死、安全の手抜きによる事故死……人が不当に生命を奪われる悲劇がいまもあとを断たない。だが、それらの悲劇においては、『殺してよかった』と殺人が正当化されることはない。『戦争で死ぬ』ということは他のあらゆる死と一線を画している、それは『正当化される大量殺人』であるという点において。」(19ページ)

大阪大空襲の場合、6月の空襲で焼夷弾による火災の煙は高度4000メートルから6000メートルに達したという。
昼というのに真っ暗になったなかで、焼夷弾といっしょに投下された破砕集束弾(「一個の爆弾から多くの片鋼弾が飛び散るもので、効率的に人を殺すことができる)により、多くの「首のない死体」がうみだされる。P51からの機銃掃射により「一人の少女は頭を撃ち抜かれて倒れ」「学徒動員の少年の頭が半分吹き飛び、そこから白い木綿糸のようなものが何本も垂れ下がって」いた。空襲は8月14日にも行われ、爆弾とともに「戦争が終わりました。お国の政府は降伏して……」という宣伝チラシがまかれている。

「戦時のメディア」-このへんの空気は清沢洌「暗黒日記」なんかを読んでもとても学ぶところがあるのだが、この本でもたとえば1943年の次のような朝日の記事が紹介されている。
「アメリカを叩き潰せ(下) 海軍の現地の幕僚が『かつて日清、日露両戦争のときには、国民は”チャンコロ””露助”という合言葉をもって、当時の的に対する憎悪を端的に表現した。ところが大東亜戦争が始まって一年になろうとしているのに、アメリカに対する憎しみの称呼がないのはどういうわけだ』と言っていた。内地でも識者の間に同様の意味のことが言われていると聞いた。銃後に今こそ必要なものは『チャンコロ』あるいは『露助』にあたる言葉がおのずから生まれてくるほどにたぎるばかりの敵に対する憎悪の昂揚なのだ。憎しみに徹すれば、いかなる困難にも耐え抜く力が生まれる。われわれは不倶戴天の敵アメリカに対する憎しみの火を燃やそう」(1943年2月2日付だという)
「醜鬼」「血祭り」「米鬼」「わが南西諸島は敵撃滅の吸血ポンプ」「米獣を田楽刺し」など「いま読めば、よくもこんな言葉が印刷されていたなと驚くほどに『どぎつい』表現が充満」していたのが当時のメディア(これもまた既視感があったりするのだ、、)、それは書かされたものではなかったのだと思う(広い意味ではそういえるが)。

ありがちな表現に流れることをなるだけ避け、とても抑制的で判りやすく島本さんの文章力・表現力の高さを感じる。
知り合いにすすめたら「衝撃的すぎて眠れなくなりそう」だからと断られた。

「勉強していたらみんな左翼になるんじゃないか」

2006年08月25日 15時15分41秒 | memo
インパクション153号「場所を生み出す」(金友子・櫻田和也・小野俊彦)より。
同じ号で冨山一郎氏「接続せよ!研究機械-研究アクティヴィズムのために」でも引用されている金友子氏の発言が印象に残る。

「私は昔は素直に、というかかなり素朴に、勉強していたらみんな左翼になるんじゃないか、と信じていました(笑)。何でこんなに勉強しているのにみんな左翼にならないんだと思っていました。左翼というのは語弊があって、勉強すればみんな社会に批判的な目を持つようになる筈だと思っていたのです」

自分もそう思っていたときがある、というかそういう考えからいまだに抜け出せてないとこがある、仕事面でも。