「フリーターズフリー」について何か書く資格があるほど自分は読み込めてないと思ったけど、
「これはダメだ」「感心できない」という声があるというのはちょっと判んなくてここに書く次第。。。
まず(本当はだめなのかもだけど)「有限責任事業組合」という発行主体のあり方と作品としての「フリーターズフリーvol1」に対する評価をそれぞれ別にするとしたら、後者について「これはダメだ」「感心できない」という意見というのがなんで出るのか判らない。
冒頭の対談はインパクションの最新号と併せて具体的に生き(逝き)かつ闘う(「取り組む」?その場にありつづける?適切なことばをとりあえず留保)場をどうすんのよ?問題について少なくともめっちゃ示唆に富む対談だと思う。
つまらない、という原稿は1本もなかったし、自分とすると期間工についての対談とかすごく勉強になった。
「無能力批評」は受け取るこっちのアンテナを鍛えないとそれについて書けないけど、それは自分の問題で「これはダメだ」「感心できない」ということではない。
野崎さんのベーシックインカムと生活保護に関する文章はまさに自分の問題意識でもあり、これは憲法論議にも通じるんだけど、自分としては(何も「改憲阻止」でなくても)「護憲」でいいんじゃない?という問題意識もあって、しかもそれを留保するとしても、「生存」そのものを権利として肯定するという、制定当時には多分世界最先端だった25条に乗っかってる(しかも戦後制定の旧生活保護法をわずか5年で全面改定した)現行生活保護法はそれとして積極的に位置づけるべきではないかと思うので面白かった。
総じて非の打ち所はないように思うので、否定的意見がどのあたりに存在根拠を有するのか、これは純粋に知りたいと思う。
発行主体のあり方にたいする疑問であれば、「有限責任事業組合」制度に対する批判であれば(それは本業でもあるので)言える余地があろうことは判らないでもないのだけど、それにしたって、それを構成している人がみんなそれをよしとして立ち上げてるんだからそれは否定的な側面も引き受けるっていう覚悟を表明しているってことでしょ?
だから責任のない立場から「これはダメだ」「感心できない」という意見が発行主体に関して出るのもなんでかよく判らない。
結局なんで「これはダメだ」「感心できない」なんて意見がでるのかわからないのだ。
読んで「つまらなかった」という感想が出るのならそういう感想を持つ人がいるのは辛うじてわかる(けどこの豊穣なコンテンツのすべてについてひっかかるところがないということはないと思う)。
「これはダメだ」というのは「つまらなかった」という意味?
じゃあ「感心できない」の「感心」というのはどういう意味なんだろう?
個人的には(中途半端にいま出入りしている)カトリック教会とカテキズムに関する問題意識からだけでもいろいろと勉強になるところがあったので、もしその方面から出ている異議だとするとそれも判んなかったりして、で、考えるとなんで他人の作品に対して他人が発した否定的評価になんでこんなに熱くなってんだろう?