「勉強していたらみんな左翼になるんじゃないか」

2006年08月25日 15時15分41秒 | memo
インパクション153号「場所を生み出す」(金友子・櫻田和也・小野俊彦)より。
同じ号で冨山一郎氏「接続せよ!研究機械-研究アクティヴィズムのために」でも引用されている金友子氏の発言が印象に残る。

「私は昔は素直に、というかかなり素朴に、勉強していたらみんな左翼になるんじゃないか、と信じていました(笑)。何でこんなに勉強しているのにみんな左翼にならないんだと思っていました。左翼というのは語弊があって、勉強すればみんな社会に批判的な目を持つようになる筈だと思っていたのです」

自分もそう思っていたときがある、というかそういう考えからいまだに抜け出せてないとこがある、仕事面でも。

「知られざる日米安保体制の“守護者”――昭和天皇と冷戦」

2006年08月25日 10時51分50秒 | memo
タイトルにあげたのは「世界」8月号に掲載の吉次公介 氏(沖縄国際大学)の文章。
再読の必要があると思いここにメモ。
講演会をやるのに天木さんの本をぜんぜん読んでないというのもどうかということで、急遽読んだ何冊かのうちの一冊、「さらば小泉純一郎」という本に「日米安全保障条約成立に果たした天皇の役割」という文章があり、そこで紹介されていた「安保条約の成立/豊下楢彦」という本をさっと読んだ。
「占領下という制約された条件」(天木)のなかとはいえ、条約成立に向けた外交交渉においてはそれなりの「交渉カード」(豊下)はあった筈であり、当初可能な限りそれにもとづいて交渉を行っていたものが、なぜ、日本はアメリカに基地を提供する義務が生じアメリカは日本を防衛する義務はないなどという条約になったのか、という過程の中に「天皇外交」の存在を浮かび上がらせている。
昭和天皇の退位論などというのは戦後すぐにはかなり出回っており、我妻栄「民法研究8 憲法と私法」にもそのものずばり「天皇退位論」という1948年の論文が収められている。しかし、昭和天皇が身を退いて天皇制を護持するという戦略に対する危うさを感じ取ったからなのか(どうも単なる自己保身のようには思えない)?昭和天皇は「戦争責任」にも退位にも一貫して否定的であり、むしろそこが皇祖皇宗の生命線であると考えていたのではないか?
この過程の背後にはソ連などの戦争責任追及(カードによる牽制)の動きがあったようである(ほかにもいろんな要素があるか?)。
このあいだの「大御心」問題といい、昭和天皇の政治(戦争)指導者としての冷徹さというか底知れなさを感じる。
ぶんむくれで条約調印時において全権になるのを拒んでいた吉田茂に圧力をかけたのも天皇ではないかとされている。

1987年天皇が国体で沖縄に訪問しようかとしていた時、アジビラ・討議資料に天皇の「沖縄売渡し」問題をよく取り上げていたものだが、その後不勉強でいる間にさまざまなことが明らかにされている(「安保条約の成立」は1996年の本)。

この路線に歯向かう者がどんな目に遭うか、それはむしろ為政者側の人間が徹底的に理解させられているのだろう。

(追記)
天木さんのこの件についての文章はリンク先(「昭和天皇こそ最大の米国追従者だった?」)。