社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

豊田尚「わが国家計調査の源流」江口英一編『日本社会調査の水脈』法律文化社,1990年4月

2016-10-16 11:38:15 | 10.家計調査論
豊田尚「わが国家計調査の源流」江口英一編『日本社会調査の水脈』法律文化社,1990年4月

日本の家計調査の発展にとって高野岩三郎の貢献は,大きかった。現在,総務省統計局は家計調査を毎月実施しているが,その端緒となったのは内閣統計局「大正15年~昭和2年 家計調査」である。その原点は,高野が行った「東京ニ於ケル20職工調査」である。内閣統計局の家計調査は,この高野調査の拡充であった。

 その高野は,オーストリアのW.Schiffの論文(W.Schiff "Zur Methode und Technik der Haushaltungsstatistik”1914)から大きな影響を受けていた。すなわち,高野はこの論文を「シッフ氏家計調査方法論」『統計集志』で紹介し,その著作『統計学研究』(1915年)に収めた。しかし,従来の日本の統計調査史では,高野家計調査論とSchiff論文との関係は,触れられていない。本稿は研究史上におけるこの空隙を埋めることを意図したものである。

筆者はシッフ論文と高野論文との関係を,第1節「『シッフ論文』と高野の家計調査論」で追跡する。内容は次の3点にわたる。(1)家計調査の位置づけについて,(2)調査方法について,(3)統計編成について。

 シッフ論文は,「序論:家計調査の発展」(14頁)と「A.調査」(29頁),「B.編成」(32頁)から成る。「序論」では家計調査の歴史を回顧し,彼自身の家計調査に関する考え方を展開している。論点は,筆者によれば,2点あり,第一に家計調査の対象となる家計は労働者のそれでならなければならないこと,第二に家計調査は統計調査(統計的大量観察法)でなければならないこと,であった(ル・プレのようなモノグラフィ的方法では不適とされた)。彼の関心は,ドイツで1907年に実施されたドイツ帝国統計局による「低所得層の家計調査」にあった。高野の論文では,シェフのこの「序論」には言及が少ないが,筆者はそのことは彼がこの部分に興味がなかったのではなく,自明としたのであろう,と推測している。

 高野論文では,シェフ論文の紹介は「A.調査」の紹介に集中している。シェフは「A.調査」で,家計調査における実施上の諸問題を,次の順で羅列的に論じている。①調査世帯の選定に関する問題,②調査期間の問題,③家計簿方式の問題,関連して調査項目およびそれらの定義の問題,④調査組織の問題。

 シッフはドイツ社会統計学の伝統にそい,統計調査とは大量観察法であり,全数調査を基本とした。しかし,家計調査を全数調査で行うことは不可能であり,調査対象を限定するとするならば下層労働者の家計にならざるをえない。この限定のなかで,調査対象の客観性,一般性を確保するならば「典型的」世帯が選定されるべきであるが,それにも困難がつきまとう。シェフは,この実務上の困難を,家計調査の対象に含めない方がよい世帯の種類を列挙し,それらを排除することで解決しようとした。その第一は生産経済と消費経済が分離していない世帯,第二は同居人のいる世帯とした(しかし,後者でさえ困難を極めたようで,種々の工夫をした形跡がある)。高野も,統計調査の世帯選定に関してはシェフによった。内閣府統計局の「家計調査」も同様である。

 家計調査の内実は,結局どのような家計簿が使用されるかによる。シェフ論文では,この点に関する記述の比重が高い。シッフの方法の大きな特徴は,家計簿の基本的な部分が家計への現金,財貨の出入りを日々記録し,コントロールする形式になっていることである。このような記帳の方式は,家計という単位に簿記体系を設定する端緒となった。問題はそこに不可避的要素として資産の変化が出てくることである。結局は,各世帯の期末,期首における資産の記録如何ということになるが,シッフ自身は後者の記録の必要性を認めながらも,全面的な資産台帳の作成には否定的であった。

シッフは,論文の「B.編成」で収支項目の分類で,経済勘定(家計にとっての所得と費消の部分),財産勘定(それ以外の収入と支出),貨幣勘定(全ての現金の出入り)という基本概念を設定している。家計調査の本来の目的は,経済勘定の確立である。なお,高野は,シッフ論文における「B.編成」部分が全体の半ばをしめる分量があるのに,この部分の紹介を全くしていない。筆者はその理由として,高野にとっては家計調査の実査方法が当面の課題であったこと,家計調査の要が経済勘定にあるというシッフの見解に賛同しつつ,それに関連した煩雑な議論をさけたこと,当面していた下層労働者の家計では財産勘定部分の比重は小さく,議論が不要と考えたからではなかろうか,と推測している。

 第2節「1912-14年ウィーン市家計調査報告書について」(筆者はこれを1984年の在外研究中,オーストリア中央統計局図書館で閲覧,複写した)では,シッフが取りまとめた同報告書(1916年刊)に彼の家計調査結果の編成に関する論点がいかに実現されているかが考察されている。「ウィーン市家計調査報告書」(調査世帯119)での家計収支の基本的枠組みは,家計をまかなった収入と支出と資産の増加,減少をもたらした受取り額と支払い額が記録されている。シェフ論文では家計調査では家計の保有する資産を全体的に調査できないとしたが,「ウィーン市家計調査報告書」には金融資産に限定した表示がある。

 筆者によれば,高野はこの「ウィーン市家計調査報告書」を見ることがなかったようである。なぜなら,高野は自らが先頭にたって調査した「東京ニ於ケル20職工調査」(1916年),「月島調査」(1919年)では,その結果の取りまとめの項目分類を,「ウィーン市家計調査報告書」を参考にすることなく,自身の手で苦心して行ったようだからである。すなわち,「東京ニ於ケル20職工調査」の調査結果は収入項目と支出項目とが2大別されているだけで,シェフ論文で言及のあった経済勘定を確定できる体系になっていない。それでも,「月島調査」になると,収入を純収入と消極的収入に,支出を純支出と貯蓄的支出に2大区分する枠組みになっている。

 高野が苦心した家計調査項目のこの分類方法は,内閣統計局「大正15年~昭和2年 家計調査」では経済収支に属さない収支の部分が「実収入以外の収入」「実支出以外の支出」とされ,高野の考え方が明確化された。これらの用語,収支の体系は,その後,日本の家計調査に定着した。なお,1959年からは,「家計調査」とともに「貯蓄動向調査」が実施されているが,これは「ウィーン市家計調査」における資産,負債の表に対応する。

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