広田純「統計論争によせて」『農林統計調査』第12号,1955年12月号
比較的短い論稿(全体で3ページ)である。前段では推計学の思想のあらましと,それに対する筆者の見解が述べられている。後段では技術派と呼ばれる論者による標本調査擁護論が批判されている。
推計学でいう「法則」とは,現実の資料の背後に母集団あるいは超母集団を想定し,このように想定された母集団のそれである。推計学の基調は,大量現象をどう抽象化するか,すなわわち統計調査の対象である集団の規定そのものと関係がある。筆者はここで例をあげているが,推計学者の理解では賃金調査の対象は労働者の集団ではなく,賃金という標識にしたがって個々の労働者に与えられた数値であり,確率変数として考えた数値の集団である。母集団の法則として問題になるのは,賃金の分布がどういう型をもっているか,あるいは性別,年齢別で賃金差が認められるか,である。その限りでは,存在としての労働者の集団そのものとは関係がない。ここから全数調査はむしろ標本調査の特殊な場合であり,これを統計調査の基本と考えるのは無意味ということになる。
このような推計学的理解に対し,筆者は次のように反駁する。すなわち賃金の分布,性別,年齢別の賃金差は労働者全体に支払われた賃金総額との関連で初めて意味をもつ,なぜなら賃金は資本との関係の表現であって,その意味では何よりも生きている労働者の全体の,つまり階級の問題だからである,と。統計調査の基本が悉皆大量観察であるというのは,社会認識の手段としての統計の基本的性格にかかわる問題で,あくまで原則的問題である。
それでは推計学で法則の追及あるいは母集団の法則は,どのような内容のものが考えられているのだろうか。増山元三郎によれば,推計学は質も量も重んじているというが,この場合に質を重んじるというのは母集団の想定における層別化のことを指す。推計学でいう層別化は資料にあらわれた標識の変動関係があると考えられる質的要因をとりだし,母集団をいくつかの等質な層にわけることである。
筆者はこの考え方に,「カテゴリー」あるいは「グループ分け」の概念を対置し,社会の経済構造を表現し,その歴史的発展を反映する概念の体系こそが重要なのであると主張する。「グループ分け」によってはじめて,統計は社会認識の手段になりうる。筆者の整理によれば,推計学で質的要因と呼ばれるものは経験的に想定された質的規定のばらばらな集まりで,そこでは仮説検定が万事を決するから,諸要因のさらに立ち入った理論的規定やその相互連関の追及を行うことは問題にならない,仮説検定をつうじて確かめられた変動要因の系,これが推計学でいう母集団の法則である。この限りで推計学は,豊富な社会認識をそこに閉じ込めようとするおよそ経験科学の名に値しないものである。
次に技術派の見解に関して,である。津村善郎によって代表される標本調査擁護論は,統計学者の側からの推計学批判を部分的に受け入れ,統計調査における超母集団の想定を否定し,推計学でいう要因分析を社会現象に適用することを断念する。しかし,このことによって,技術的観点から標本調査方式を適宜採用することを認めないということにはならず,むしろその調査技術を積極的に評価する。
筆者がここで強調するのは,彼らは統計あるいは統計調査を狭い枠のなかに制限し,実態調査との区別をはかっていることである。この試みは統計調査の対象である集団の想定,その抽象方法と関係がある。技術派によれば,統計対象として定義されたもの全部の集まりである存在としての母集団は,結局のところ全数の調査をして得られると想定された調査票の集まりであり,数理統計学でいうところの有限母集団である。統計調査はこのような母集団の測定であり,統計調査としては与えられた調査項目について忠実に表現されればよいので,技術としての調査方法(統計方法)の科学は独立の分野として存在することになる。標本調査は,この技術としての調査方法のひとつである。
筆者はさらに津村が「統計として対象をいかにとらえるべきかの問題」すなわち調査目的の問題を「どの範囲まで調査するか,それをいかに分類するか,いかなる調査項目を取るか」などの技術的問題に帰着させている点に焦点を絞って論難し,「統計として対象をいかにとらえるべきかの問題」が統計の科学性にかかわる基本問題であること,その限りで与えられた調査目的についてそれが科学的な前提の上に立つものであるかがまず問われなければならない,津村の理解ではその点は曖昧にされている,と述べている。要するに津村の調査目的の理解は,科学性ぬきで正確な統計を作成しようとする標本調査技術論であるということになる。
比較的短い論稿(全体で3ページ)である。前段では推計学の思想のあらましと,それに対する筆者の見解が述べられている。後段では技術派と呼ばれる論者による標本調査擁護論が批判されている。
推計学でいう「法則」とは,現実の資料の背後に母集団あるいは超母集団を想定し,このように想定された母集団のそれである。推計学の基調は,大量現象をどう抽象化するか,すなわわち統計調査の対象である集団の規定そのものと関係がある。筆者はここで例をあげているが,推計学者の理解では賃金調査の対象は労働者の集団ではなく,賃金という標識にしたがって個々の労働者に与えられた数値であり,確率変数として考えた数値の集団である。母集団の法則として問題になるのは,賃金の分布がどういう型をもっているか,あるいは性別,年齢別で賃金差が認められるか,である。その限りでは,存在としての労働者の集団そのものとは関係がない。ここから全数調査はむしろ標本調査の特殊な場合であり,これを統計調査の基本と考えるのは無意味ということになる。
このような推計学的理解に対し,筆者は次のように反駁する。すなわち賃金の分布,性別,年齢別の賃金差は労働者全体に支払われた賃金総額との関連で初めて意味をもつ,なぜなら賃金は資本との関係の表現であって,その意味では何よりも生きている労働者の全体の,つまり階級の問題だからである,と。統計調査の基本が悉皆大量観察であるというのは,社会認識の手段としての統計の基本的性格にかかわる問題で,あくまで原則的問題である。
それでは推計学で法則の追及あるいは母集団の法則は,どのような内容のものが考えられているのだろうか。増山元三郎によれば,推計学は質も量も重んじているというが,この場合に質を重んじるというのは母集団の想定における層別化のことを指す。推計学でいう層別化は資料にあらわれた標識の変動関係があると考えられる質的要因をとりだし,母集団をいくつかの等質な層にわけることである。
筆者はこの考え方に,「カテゴリー」あるいは「グループ分け」の概念を対置し,社会の経済構造を表現し,その歴史的発展を反映する概念の体系こそが重要なのであると主張する。「グループ分け」によってはじめて,統計は社会認識の手段になりうる。筆者の整理によれば,推計学で質的要因と呼ばれるものは経験的に想定された質的規定のばらばらな集まりで,そこでは仮説検定が万事を決するから,諸要因のさらに立ち入った理論的規定やその相互連関の追及を行うことは問題にならない,仮説検定をつうじて確かめられた変動要因の系,これが推計学でいう母集団の法則である。この限りで推計学は,豊富な社会認識をそこに閉じ込めようとするおよそ経験科学の名に値しないものである。
次に技術派の見解に関して,である。津村善郎によって代表される標本調査擁護論は,統計学者の側からの推計学批判を部分的に受け入れ,統計調査における超母集団の想定を否定し,推計学でいう要因分析を社会現象に適用することを断念する。しかし,このことによって,技術的観点から標本調査方式を適宜採用することを認めないということにはならず,むしろその調査技術を積極的に評価する。
筆者がここで強調するのは,彼らは統計あるいは統計調査を狭い枠のなかに制限し,実態調査との区別をはかっていることである。この試みは統計調査の対象である集団の想定,その抽象方法と関係がある。技術派によれば,統計対象として定義されたもの全部の集まりである存在としての母集団は,結局のところ全数の調査をして得られると想定された調査票の集まりであり,数理統計学でいうところの有限母集団である。統計調査はこのような母集団の測定であり,統計調査としては与えられた調査項目について忠実に表現されればよいので,技術としての調査方法(統計方法)の科学は独立の分野として存在することになる。標本調査は,この技術としての調査方法のひとつである。
筆者はさらに津村が「統計として対象をいかにとらえるべきかの問題」すなわち調査目的の問題を「どの範囲まで調査するか,それをいかに分類するか,いかなる調査項目を取るか」などの技術的問題に帰着させている点に焦点を絞って論難し,「統計として対象をいかにとらえるべきかの問題」が統計の科学性にかかわる基本問題であること,その限りで与えられた調査目的についてそれが科学的な前提の上に立つものであるかがまず問われなければならない,津村の理解ではその点は曖昧にされている,と述べている。要するに津村の調査目的の理解は,科学性ぬきで正確な統計を作成しようとする標本調査技術論であるということになる。