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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

「木村太郎・内海庫一郎(1)」『日本における統計学の発展(第53巻)』(聞き手:大屋祐雪,森博美,佐藤博,坂元慶行[1981年12月12日],於:法政大学)

2016-10-01 22:16:13 | 13.対談・鼎談
「木村太郎・内海庫一郎(1)」『日本における統計学の発展(第53巻)』(聞き手:大屋祐雪,森博美,佐藤博,坂元慶行[1981年12月12日],於:法政大学)

 木村太郎と内海庫一郎に対するインタビュー,聞き手は大屋祐雪が主である。最初に質問に対する木村の半生についての回答があり,途中から内海が参加し自身の豊富な経験が語られ,最後に経済統計研究会のスタート,農林統計協会,標本調査論などをめぐっての二人の思い出が話題になる。

 木村は大正2年4月生まれ,郷里は北区の王子。王子小学校,東京五中(現在の小石川高校)に進む。その後,第三高等学校に入学,この時代の思い出は多いという。宇高基輔が上にいて,一緒だったのは河野健二,野間宏,織田作之助などである。マルクス主義には中学の4年生の頃から関心を持ち始めたが,「反デューリィング論」「ヘーゲル哲学批判」など哲学関係のものを読んでいた。経済学関係は後に『資本論』をローゼンベルクの注解を頼りに読むので精いっぱいであった。

そのまま真っすぐ京都大学に入学,蜷川ゼミに入ることを目標にしていた。しかし,統計学を勉強する気持ちはなく,河上肇の伝統があり蜷川が優れた理論家だと聞いていたのでそう考えていた。ゼミに入る前からいろいろな研究会に関心をもつなかで上杉正一郎,大橋隆憲と接触があった。蜷川ゼミには昭和13年に入ることができた。ゼミでのテキストはなく,先輩による各自の研究内容の報告が中心であった。そのなかの一人にアルマン・ジュランを訳して読めと言われた。級があがると自分でテーマを選ぶようになり国富統計をとりあげた。卒業論文は,生産指数論だった。蜷川の物価指数論を手本に,労働価値説の立場から生産指数論の展開を試み,その理論構築を行った。

昭和15年3月に京大を卒業し,すぐに満鉄(東京の東亜経済調査局)に入った。入社後,5月から9月まで大連に行き,本社調査部の業務組織(理論班)に入った。日満ブロック経済の再生産構造の研究がテーマであった。満鉄ではマルクス経済学を勉強していないと出世できない雰囲気があった。満鉄では蜷川に対する信頼が厚く,弟子を積極的に採用する風潮があった(高岡周夫,小島豊,手島正毅)。大連市も調査室を設置し,蜷川に指導を依頼したということもあったようである。

10月に内地に戻り,東亜経済調査局に戻った。昭和16年2月に入営(赤羽工兵隊)し,満州に終戦までいた。満州では北方の輸送部隊の主計将校を務めた。以後,部隊は朝鮮の羅南に移動し,そのうち内地防衛という任務で新潟,川越に移った。
復員後,国民経済協会に入ることになり,そこで農畜漁業調査を担当した。また,農林省に机を置いて企画院が担当していた物動計画に準じた昭和21年から経済復興5カ年計画作成の仕事に携わり,昭和10-12年基準の生産指数を作成した。当初は統計資料が少なく苦労したが,そのうちにだんだん資料が増え,それらを通産省や農林省を通して入手できるようになった。

 大屋はここで交通整理をして,インタビューに途中から参加した内海庫一郎を含め,国民経済協会の話をしましょう,と促す。それというのも内海は昭和22年に一時国民経済協会に在籍したからである。国民経済協会を作ったのは企画院にいた稲葉秀三などである(昭和20年10月)。「經濟統計資料」第1号が昭和22年に出ている。木村は第2号に「インフレーションの測定に関する一試論」をペンネームで,「生産指数の理論」を第42号(1950年)に書いている。「インフレーションの測定に関する一試論」は昭和10-12年平均基準の物価指数を作成したときの副産物で,インフレの実態を示すヤミ物価指数を公定価格指数と合体させた実効的物価指数について論じたものである。また,木村はこの時期,農業分野で日本農業の商品化率の推定,農地改革後の農業経済構造の展望といった作業を委託調査として実施した。当時の農林省では,農業統計協会をつくって農業統計を独立させたいという意向があり,依頼されて兼務したのはこの頃である(昭和25年)。直前には,稲葉が部下を連れて経済安定本部のほうに出てしまい,国民経済協会が空っぽになったことがあった(昭和22年頃)。古株の木村が協会の経営を支える格好になり,「景気観測」という月刊誌を発行した。   

 聞き手の大屋はここでいったん木村の話を区切り,内海庫一郎に話をうながす。内海は自身の歩みを回顧する。明治45年,本郷区駒込明神町生まれ。富士前小学校で6年の半ばまで過ごし,中学校,高校は成城。中学在学中,社会科学研究会中学連合会を組織した(昭和2年ごろ)。福本イズム全盛の頃である。明大にいって道瀬幸雄の「フォイエルバッハ論」の講義を聞き,福本和夫の「社会の構成並びに変革の過程」「経済学批判の方法論」などを読んだ。

そのようなことがあったため3度検挙され,お情けで卒業させてもらい,当時試験がなくて入学できた京都大学へ,そして蜷川ゼミに入る(昭和9年)。昭和8年に滝川事件があったが,その翌年である。学生大会があり,そこに顔を出していた。統計を学ぶつもりはなく,農業綱領を書くための勉強を一人でした(下宿で)。草稿があり,第2部を執筆した(第1部は作家として有名になった埴谷雄高)。ゼミでは蜷川に米の生産費問題を研究するように言われた。ゼミ生はみな天下国家を論じていた(澄川英雄,手島正毅らと)。内海は山田盛太郎の人と学問を京大の学生に持ち込んだのは自分である,と述懐している。蜷川は『統計利用に於ける基本問題』(昭和7年),『統計学概論』(昭和9年)を出版したものの,教授会で汐見三郎,高田保馬に敵視され教授昇格がままならなかったが,そのことが新聞沙汰にもなり,漸く昇格した。蜷川はこの頃,学部では会計学を講義し,ゼミも会計学で経営分析論をテーマにしていた。

 内海にとって統計学がテーマになったのはその後,蜷川が経済学第3講座を免ぜられ,統計学講座に移ってからである(昭和16年)。内海は副手になっていて,ハーバラーの指数論をドイツ語で読まされた。周囲には有田正三,上杉正一郎,大橋隆憲,木村太郎らがいた。この頃に書いた論文はフラスケンパーの指数論に関するものなどである。3年半ほど「京都日出新聞」が出していた日刊の業界紙に景気予測の記事を書いて収入を得ていた。蜷川には,生活態度が悪いと閉門蟄居を言い渡されたが,ある日突然呼び出され,満州の建国大学に職があるので,そこへ行くように命じられた。満鉄に行く話もあったが立ち消えになり,高岡周夫が満鉄に代わりに行く格好になった。建国大学での身分は,研究助手であった。暫くは講義もなく事実上の教務科教材係長,図書科資料室主任を担当した(昭和13年)。そのうち研究所ができ,研究所総務課付助教授となった(昭和14年)。内海の建国大学時代の記憶は豊富で,大学の様子(人間関係),講義の内容,教え子のこと,桜化県農事合作社のこと,関東軍特別大演習(昭和16年),満鉄事件などの話が次から次へと出てくる。記憶力の健在さに驚かされる。兼務した満州国政府統計処では,「満州帝国統計年鑑」を編集する仕事に関わった他,「満州帝国図表」を作成したとのことである。

 内海が復員したのは昭和21年の11月14日,名古屋に着いた。行く当てもなかったときに木村が国民経済協会の嘱託のポストを用意してくれた(昭和22年)。直後,井上照丸の紹介で統計委員会事務局事務官,審査第二課課長補佐となった(昭和23年)。当時の統計委員会は,委員長が大内兵衛,事務局長が美濃部亮吉,委員に有澤広巳,正木千冬,近藤康男,中山伊知郎であった。しかし,ほとんどのメンバーがマイヤー研究で終わっており,統計学を知らない,サンプリングのやり方も知らないという状況だった。内海が統計委員会事務局で最後にやった仕事は昭和25年の国勢調査の職業分類だったと述べている。他に統計委員会の議事録の整理を担った。統計委員会で一年ほど勤めてから,北海道大学法文学部に赴任した(昭和24年6月)。
その経緯の話題がひとしきりあった後,森博美が経済統計研究会設立の話を切り出す。この研究会は最初,関西だけで始まった。『統計学』創刊号が関西で発刊された(昭和30年)。その後に,東京側が加わった。木村によれば,標本調査論の批判以来,統計調査論をきちんと整理しておかなかればダメだという動きがあったのは確かで,研究会発足の背景にはそのことがある。『統計学』の存続には資金的やりくりがかなり大変だったようで,内海がその辺の事情の記憶を呼び戻している。

 話に一区切りがついて,今度は農林省と統計基準部とで標本調査の評価が違っていたこと(前者が先進をきっていた),占領軍の統計指導で天然資源局と経済局とで異なっていたこと(資源局は作況調査技術として標本調査理論を積極的に推進),日本統計協会は雑誌『統計』を出していたが,農林統計協会がこれに対抗する形で『農林統計調査』を発刊するようになったこと,などに話題が及ぶ。要するに標本調査に対する姿勢,評価の相違がいろいろなところで目立った。農林統計の側には社会統計学的発想が強く,少なくとも統計調査に重きをおくところでは標本調査に長く関心が薄かった。それがそうでなくなってきたのは昭和26年頃からである。背景には行政の合理化が前面に出てきて,国民経済計算体系の統一という要請が強くなった事情がある。
最後に農林統計協会ができた経緯,そこでの木村の仕事の内容,構成メンバー,農業統計研究部会のこと(副会長に宇野弘蔵),作物統計関係の人がソ連の動向にも関心をもっていたこと,『ソビエトの統計理論』(ⅠとⅡ)という訳書を発刊したこと,木村が國學院大學に移った経緯,日高に競走馬の生産費調査に出かけたこと,そして再び蜷川虎三とそのゼミ,ゼミナリステン(大橋隆憲,高木秀玄,有田正三,上杉正一郎)のことに話題が戻ってこの巻が終わっている。

 これは推測であるが,木村はインタビュー後,記述を正確にするために原稿にかなり手を入れた形跡がある。内海はそのようなことはしていないが,話術の巧みさと記憶力の確かさが滲みでている。

「上杉正一郎」『日本における統計学の発展(第37巻)』(聞き手:広田純,三潴信邦,田沼肇,山田耕之介,伊藤陽一[1981年11月22日,12月12日,12月26日],於:世田谷下馬の上杉宅)

2016-10-01 22:13:46 | 13.対談・鼎談
「上杉正一郎」『日本における統計学の発展(第37巻)』(聞き手:広田純,三潴信邦,田沼肇,山田耕之介,伊藤陽一[1981年11月22日,12月12日,12月26日],於:世田谷下馬の上杉宅)

 このインタビューは3日間かけて行われた。前半は生い立ちから終戦まで,後半は復員以後となっている。

 主として上杉の研究業績に関わる後半から要約する。上杉は大連から1946年3月に引きあげで戻ってから国民経済研究会で委託を受けて仕事をした。「日本の工業における添加価値並に剰余価値率の研究」がその時の仕事である。それから商工省の調査統計局に入り,基本統計課で工業統計表作成にたずさわった。統計委員会からもちかけられた仕事がほとんどであった。他に毎週一回,教養講座を担当しゼムストボ統計家の話など,啓蒙活動を行った。行政の不合理がずいぶんあり,「統計を守れ」とか「専門の統計家に統計行政を任せよう」などの声がくすぶっていた。統計委員会がGHQの意向に従順すぎ,そのことに対して不満を述べる職員はいた。

 1949年の定員法による首切り(レッドパージ)では,局長にそのリストを焼かせたということが巷間に伝えられている。しかし,8月15日に解雇通告が出た。上杉らはハンストで闘った。ストライキの主張もしたが,それは内部でも批判的に見られていた。
上杉の研究上のテーマは,近代経済学批判,統計の階級性,人口問題研究などである。学生時代に蜷川ゼミに所属し直接指導を受けたので当然,蜷川統計学との関連が問われる。インタビューはそのあたりのテーマに入り,佳境となる。上杉には「近代理論経済学批判-中山教授の俗流性-」伊豆公夫編『近代主義批判』(1949年3月)がある。戦後にあらわれた最初の近経批判の論文ではないか,と山田が補足している。

広田が上杉に,近代経済学批判の仕事はその後の統計学研究とどうかかわっているのかを聞いている。この質問に対し上杉は,近代経済学批判が主で,そのことのなかに統計批判の問題が入ってくると考えていた,と応えている。
社会科学あるいは経済学を研究するということは,批判を行うことだという意識があったのではという山田の質問には,「それは強いです」と同意している。関連して近代経済学の内在的批判,超越的批判の話題に傾くなかで,上杉の「近代経済学誕生の歴史的背景」『経済評論』(1949年8月号)が紹介される。

『マルクス主義と統計』(1951年11月)は,各方面に反響をよんだ本である。上杉が農林統計協会にいた頃の仕事である。津村善郎が『統計学へのいざない』で引用し,井上昭丸に誉められた。田沼は,当時としては,この本が国際的な視野で書かれているので,印象が強かったと回顧している。

 経済統計研究会の創立の頃の話題に話が及ぶ。上杉は研究会の形をとったのは,1953年ではないかと,記憶を呼びもどしている。実際に勉強していたのは,1950,51年頃からである。『統計学』の創刊は1955年,第一回全国総会は1957年(関西大学)。広田によれば,東京では原宿にあった政経研究所の会議室で会合をもった。上杉が関西からかけつけて,東京での発会を呼びかけた(1954年9月2日)。10月1日,丸山博が結核統計の報告をした。最初の研究会であった。東京ではこの研究会を統計懇談会と呼ぶようになる。経統研の関東支部になることに相原茂,内藤勝が反対したからである。統計懇談会の座長格に正木千冬がおさまった。しばらく,経統研と統計懇談会が2本立てになっていた。前者には東京在住会員として個人として加わることになった。しかし,そのうち懇談会参加者がジリ貧となり,経統研メンバーだけになってしまったので,いつの間にかこれが経統研の関東支部になったというのが経緯のようである。北海道支部の発足は1956年である。この辺りは,広田が問題整理を行っている。

 上杉には人口論関係の業績がかなりある。「戦後における新マルサス主義」(1955年),「戦後日本における人口動態の特質-多産多死から少産少死への転換の社会的意義について」(1962年),「ソ連邦における出生率の低下傾向について」(1971年),「日本の人口問題(1)[年表]」(1975年)などである。上杉によれば,この分野に関わるようになったのは全くの偶然である。しかし,もともと関心があり,ロシア語の本とか,人口問題関係の本を比較的多数集めていた。人口統計の研究をしなければいけないということではなく,人口問題を論じるために統計にも関心をよせたというのが実情である。人口は自然現象でありながら,社会現象とも重なりあう部分があり,社会科学的な考察をしなければいけない。上杉の論文はそういう問題意識を強く訴えかける内容になっていた,と山田は述懐している。上杉は,この山田の見解を切っ掛けに,同じ問題がスモールサンプリングの場合にもあったと指摘する。上杉には,これらの問題を含めて,非科学的なものとの闘い,批判的に立ち向かう姿勢が一貫して流れている(田辺,山田)。不正に対しては,敏感な感覚をもっている(三潴)。

 上杉の統計学には,マルクス,レーニンの古典の解読と蜷川統計学が基礎にあると言われる。話はこれらに及んでいる。あまり知られていないが,長谷部文雄・鬼塚安雄『資本論全3巻索引』に収録された「年代順事項索引」は上杉の労作である。京都大学に入ってから『資本論』を読む研究会に参加しながら,カードを作っていた。他方,上杉は蜷川の集団論にあまり関心がなかった,純解析的集団を社会科学としての統計学のなかで何らかの位置をしめるというふうに考えなかった,という。蜷川の書いたものからの引用は,論文「統計の解説,批判,解析」あるいは『統計学概論』の第三章が多く,読むべき重点としてそれらを挙げている。集団か集団でないかということは,それほど重要な問題ではないと思っていた。上杉は,どちらかというと統計学を抜きに(統計的法則ということなど気にせず),直接マルクスの経済学をベースに議論していた,と述べている。

 上杉によれば,蜷川は統計学を厳密に統計学としてとりあげ,唯物論とか客観的法則とかをきちんとして展開していた。蜷川のゼミでは内海庫一郎がゼミ生だったころは封建論争についても議論されたかもしれないが,上杉が入った頃にはそういうことはなくなっていた。ゼミでは工業統計をしたかったので,これをテーマにしたが,あまり理論的な成果はなかった。
 山田はここで,上杉が蜷川統計学のなかから育ったが,その統計学にとらわれていないと私見を述べる。上杉はこの見解に同意している。確かに,上杉の人口統計,工業統計を論じたものにはマルクス,レーニンの理論を総論とし,それをおさえた上での各論となっている。広田の言葉を借りれば,上杉統計学の特徴は,統計を基礎概念にすえて,統計を社会の精神的な生産物としてとらえ,その歴史性,階級性を徹底的に追求した点にある。

 広田は,上杉がある箇所で,統計は社会の上部構造と規定している,と指摘する(「<外国統計調査年表>について」)。これに応えて上杉は,統計が上部構造だと言った時の気持ちは,社会の土台が生み出したものだという意味を込めたと述べている。他の上部構造(宗教,芸術)と異なる点は,統計が認識結果であると同時に,認識の手段でもある。認識手段であるために,方法という考え方が出てくる。統計は,社会が生み出した認識手段であるというのが上杉の見解であり,『経済学と統計』の最初のところで書いたことである,と言う。
 本論稿はインタビューの内容を前半と後半とで逆転させたが,後半はおおむね以上のとおりである。前半は,「生い立ち・ご両親のこと」「一高時代・戸谷事件」「東大入学・滝川事件・『赤門戦士』」「京大時代・蜷川先生・奥様のこと」「大連生活・応召・敗戦・市政府のもとで」となっている。

 生年は1912年(大正元年)8月4日。母の実家があった長崎で生まれる。父親は上杉愼吉,母親は信子。父親は結核性脳膜炎で死去(享年52)。東京高等師範付属中学卒。一高の文科乙に入学。高校に入って「戸谷事件」が起こる。戸谷敏之という学生が東大の入学試験に合格しながら,一高卒業後,思想事件にかかわったとして,退学処分にされたというもの。上杉らは校長室に押しかけ抗議したという(戸谷はその後,法政大学に入るも,フィリピンで戦死)。
上杉は1933年(昭和8年)東大経済学部に入学。入学後滝川事件が起こる。上杉は出身校別の代表者会議で一高代表となる。学生大会に参加。共産青年同盟に入る。今井正(後に映画監督),牧瀬恒二,菊池兼一などがいた。1934年2月に一斉検挙にあう。一度出所するが1935年2月に再逮捕。治安維持法起訴猶予で7月に出てきたが,試験をぼうにふり,大学に嫌気がさし,親戚のつてで京都大学に再入学する。

蜷川ゼミに入り,大橋隆憲,木村太郎,朝野勉らと『資本論』の学習会をもつ。1938年に一度,警察に捕まる。1939年4月,京都大学卒業。大連市調査事務局に嘱託として入り,関東州工業の調査を行う。一度内地に戻る。後に妻となる昌子とは1937年に東京外語大学の20日間のロシア語講座で知り合いになった。昌子は当時,京都医専の学生だった。

 1941年6月,再び大連へ。大連市の調査室に就職。大連市の生活物資,交通問題調査に従事。また大連市の経済年表を作成。1945年5月に,鈴木重蔵らとともに召集を受け,入隊。輜重兵として朝鮮と満州の境にある石頭鎮で駐屯。その後,安東に移り,そのまま終戦。各自ばらばらに大連に戻る。日本への引き上げは1947年3月末。

「高木秀玄」(聞き手:浜田文雄)『日本における統計学の発展(第24巻)』(1981年8月3日。於:関西大学経済社会研究所)

2016-10-01 22:12:07 | 13.対談・鼎談
「高木秀玄」(聞き手:浜田文雄)『日本における統計学の発展(第24巻)』(1981年8月3日。於:関西大学経済社会研究所)

 インタビューは,大きく3つの話題で行われている。3つとは蜷川虎三の学問遍歴。門下生のこと,経済統計研究会のこと,である。
高木秀玄は,蜷川研究室に昭和16年に入った。その折に,蜷川にドイツ社会統計学,大陸派の数理統計学の研究をやれ,と命ぜられた。レキシス,ボルトケビッチ,シャーリエ,ウエスターゴードなどである。蜷川は一部の人たちにアンチ数理派と思われているが,そうではない。蜷川は水産講習所で海洋調査などをやっていたこともあり,彼の学問研究の基礎には現象の測定ということがいつもあった。蜷川は自らの統計研究の出発の際に,ボーレー『社会現象の測定』を勉強し,その後,デービス,ムーアの本を読んだ。蜷川が若い高木に数理派の勉強をしろ,と言ったのはそういうことが関係していたらしい。

また蜷川はマイヤー研究者だった財部静雄の指導を受けていたので,その影響も大きい。自然現象と社会現象との区別は,重視していた。留学先では,その頃の留学生がそうだったように,ワーゲマン,ゾンバルト,ジージェクの講義などを聞いていたのではなかろうか。蜷川がドイツ留学中に,フラスケンパーが論文「大量の理論」を発表した。蜷川はフラスケンパーがこの論文で鉄道の距離,電気の量などを社会現象として捉えない点に批判的だった。統計は社会現象を大量現象として反映する,という考え方を強くもっていた。蜷川は日本統計学会の創設に努力し,苦労したが,総会では第2回目に一度しか報告をしていない(「統計学における集団の概念」)。それは当時の京都大学が暗澹たる状況にあり,蜷川と対立していた汐見三郎が出ている統計学会は知らぬ,と装っていたからではないか,と高木は推測している。

 蜷川の立場は,統計学は方法論的科学であり,『統計学概論』(岩波書店)をみるとわかるように,統計学が大量を観察する調査の理論と解析の理論とから成るとしている。数理統計学は否定していない。それは『統計利用における基本問題』(岩波書店)を読んでもそうなっている。数理統計は限界概念で,数理的手法はそのままでは現実にあてはまらない,ということを言いたかったにすぎない。

 蜷川の門下生には,大橋隆憲,有田正三,高木秀玄,上杉正一郎,内海庫一郎などがいる。統計学者は認識論,方法論だけで終わってはいけない。統計学プロパーの問題に入っていくべきである。しかし,当時はドイツ社会統計学派のマイヤーやジージェックの研究で固まっていた。その傾向が強いままで来てしまった。内海庫一郎に高木がよく言っていたのは,舞台裏で働く人(唯物弁証法の提唱者)をみんな舞台に乗せてしまうのはいかがなものか,ということだった。門下生たちを東京のグループと結びつけたのは,松川七郎である。

 戦争中はみな兵隊にとられ研究室はからっぽになり,残った者(高木,有田,会計学関係の人たち)がほそぼそと勉強会をしていた。終戦になって内海,上杉らも帰ってきて,そういうひとたちも含めて研究会をたちあげ,第一回の経済統計研究会を関西大学で開催した。会則に社会科学の理論を基礎に統計学をやろうと,明記した。実際にはいろいろな関心をもっている人たちが集まっていた。大橋隆憲,有田正三,松川七郎,米沢治文,竹内啓,上杉正一郎など,若いところでは野村良樹,是永純弘,大屋祐雪などである。経済統計研究会の人たちは,日本統計学会のような大舞台にもっと出ていかなければいけない。

経済統計研究会の学風は,社会科学の研究方法として統計学を研究するということ。数理統計学の限界性の指摘。社会科学の方法論としての統計学の歴史の究明,数理統計学の歴史的側面の研究。海外の研究者との交流は主に,フラスケンパーなどのフランクフルト学派の人たち,それにホルバートなど。

高木はこの後,経済統計研究会のメンバーが調査論に対する関心が薄れてきていることに批判的であると述べている。経済統計そのもののプロセジュアーを丹念に勉強しなければいけない。
課題としては,利用者の側から統計を批判すること,その統計の批判と吟味,統計にまつわるウソ,統計につきまとういびつな面を見ていかなくてはいけない。確率に関しては,それが重要な意味をもつ場面はある。安定性をとらえるには,確率論が必要である。ただし,統計的法則というのは終着点ではないし,それ自体が存在しないのではないか。ミーゼスをぼろぼろになるまで読んだのは,そういう関心からである。統計計算の結果の意味を考えることは非常に重要である。蜷川はそれを言っていた。 

蜷川虎三・有田正三・高内俊一・伊藤晃「蜷川虎三経済談義・私の経済論」『経済』1979年1月

2016-10-01 22:07:12 | 13.対談・鼎談
蜷川虎三・有田正三・高内俊一・伊藤晃「蜷川虎三経済談義・私の経済論」『経済』1979年1月

『経済』誌による新春の企画。蜷川統計学を確立し,戦後28年間(1950-78年)にわたり京都府知事を務めた蜷川虎三と蜷川ゼミナール(京都大学経済学部)に所属した有田正三(滋賀大学),そして経済政策論,日本経済論で教鞭をとっていた高内俊一(立命館大学)による鼎談である。司会は京都府立総合資料館の伊藤晃が担当している。

 話題はこの鼎談が行われた時期の政治経済状況について,また蜷川に中小企業庁初代長官(1948-50年)の経歴があり,知事の実績があったこととの関係で経済政策がどういうものでなければならないかについて,そして最後に蜷川統計学の神髄について,である。

 最後の,蜷川統計学について自身が語っているところの要約から始めたい。有田が口火を切って,この頃社会統計学内部に台頭していた統計学の課題を統計業務の発展法則性と階級的役割の歴史的変遷の解明にもとめる見解(大屋理論?)に関してどう考えるかを,蜷川に質問している。有田自身はこの見解に一定の積極的評価を示すとしながらも,基本的に反対と次のように述べている。「行政の手段として,統計が資本主義の発展とともに方法的構造と形態を法則的に展開してきたことはたしかである。しかし同時に,統計が一種の社会認識であることもたしかである。行政の手段とすることによってその認識内容にいろいろなゆがみが生じることもあきらかであり,これを明らかにすることも重要である。しかし統計は社会的現実の数量的認識であり,このようなものとしては社会的認識の手段となりうる。経験科学としての社会科学は経験的材料を欠くことができない。ここに統計を社会科学に結びつけ,社会科学の研究手段として位置づけ,それをめぐる方法論的問題の解決を統計学の課題とすることが,社会的現実の本質にふさわしい。こういう理由によって社会科学の研究方法論として統計学を考えていくべき(である)」と。蜷川はこれに対して,「むしろそうではなく,社会科学のいわゆる研究方法としてまず使われる。それを行政面で活用するということ」と応えている。両者の間には,くい違いがある。有田はそれを,蜷川が統計の方法を,統計調査の方法と統計解析の方法から構成し,これをもって社会科学の研究方法としていること,さらに蜷川が統計の方法が社会科学の方法になるためには記述にとどまらないで,解析にまで進まなければならないと理解していることにもとめているようである。議論のやりとりが短くややわかりにくい。

 蜷川はこの後,自らの仕事のポイントが,統計とは何か,集団とは何かから始まったこと,そこから次第に集団の測り方と測ったものの使い方がわかってきたと述懐している(集団の理論)。集団は,仮説ではない。集団であるか否かは,客観的に存在する社会から決まってくる。この集団を解析する数理的方法が十分進んでいない。どういう仕方でこれらを統合するか,が解決されなければならない。「推計学」の推奨者が行っていることは,ただの数学である。母集団とサンプルの間は確率論で結んだけれど,その確率論が母集団と社会集団を結ぶかというと,その根拠はない。彼らの弱点はここにある。関連して数理統計学に関して,社会科学の研究に役に立たない,数理統計学者は数学にとりくんでいるから楽しいが,それを社会科学の方にもってきたら少しも面白みがないと感じているはず,と指摘している。

 蜷川はさらに,(政策)目的と(政策)手段とのあいだには調査がある,その調査に統計の方法が必要になる,と現実的な意見を示している。

以上の統計学の話に先立って,蜷川はインフレ経済容認で進められてきた日本経済の行きつく先が,恐慌であり,経済の軍事化(戦争経済)であると述べている。当時表面化していた「有事立法」はその徴候であると診断。「戦争待望論」は,財界の本音とズバリと言い当てている。また中小企業は形式的に規模だけでみるのではなく,大資本の圧力に呻吟している企業を中小企業というように本質的な見方をしなければだめだ,と表明している。中小企業庁長官の頃は役人にそのことを繰り返し教育したらしい。中小企業対策(経済政策)には定跡があって,第一に行政目的をしっかりたてること,第二に中小企業の実体をよく調査することである。どのように中小企業を守るかは,行政目的と調査が教えてくれる。また中小企業を守るには,政府に期待していてもだめで,自分たちで組織をつくって守ることを実践してきたという。団結こそ政策遂行の道というわけである。

 他に「福祉」に関して,それを独立に考えるのではなく,弱いものが暮らせる条件をつくっていくというようにしなければならない,と言う。蜷川はそれを,勤労者ならば勤労者の背中に,中小企業者ならば中小企業者の背中にぴったり福祉をくっつけなければならない,と語っている。

政策の優先順位に関しては,それを云々する前に,組織づくりを進めたという。優先順位は,暮らしの組織が基準になる。そして自治体の基礎は,市町村であると言い続けてきたと回顧している。市町村長は,地域,住民のなかにある当面の課題,長期的課題を総合して政策をたてることが大事である。政策は現実的で,合理的なものでなければならない。