本稿の目的は,19世紀初頭のプロイセンにおけるレオポルド・クルーク(leoporld Krug,1770-1843)の国富と国民所得に関する統計的研究を紹介し,考察することである。クルークは重農学派の経済学者の一人で,スミスの経済学に影響を受けているが,とりわけ重要なのは1835年までプロイセン統計局の中心人物で,その設立(1805年)に寄与したことである。主要著作は『プロイセン国家の国民的富およびその住民の福祉にかんする考察』(1805年)(以下『考察』と略)である。他に『経済的統計学試論』(1807年),『国家経済学概要』(1807年)がある。本稿での検討は,『考察』が中心である。クルークについては統計学史研究ではあまり注目されていない。しかし,筆者はシュレーツェルが強調したドイツ国状学派による統計学と官庁統計との結合のプロイセンにおける具体化をクルークにみることができるとしている。
『考察』(二冊本)は1200頁をこえる大著である。内容はプロイセンの統計学(国状学)の一環として執筆されたもので,当時のプロイセンにおける経済・財政問題についての誤った重商主義的見解に自らの見解を対置するかたちで叙述され,経済学の概念および階級関係という認識目標をふまえた統計材料の加工・分析を意図している。クルークはまた,その研究が「もっぱら国民の福祉を問題にする」と明確に述べ,経済的福祉あるいは国民の富またその指標について検討を加えている。指標に関しては具体的に,「ある地方で産出された諸商品の価格」「土地の価格」「すべての土地の純収益の大きさ,ないし小作料」「輸出入商品の価値」「輸出される工場商品および加工生産物の量」「貨幣」「金と銀の貯えの量」などをあげている。この延長線で,国民の富の指標として,「国民所得」「純所得」「国民資産」の定義と計算を示している。重要なのは,これらがどの階級によって生み出され,またどの階級によって享受されるかということが常にクルークの念頭にあったことである。
クルークは「国民所得」を定義して,それは「この国で年々生産される使用可能な財貨の総計であり,なおこれに所与の国の住民が産業によって他の諸国民の所得から手に入れる部分が加わる」という。財貨は土地の生産物で,「流通所得」から区別される。またクルークが「国民所得」と呼ぶのは「総収益」である。これに対し,「純収益」は国家と国民にとっての可処分所得である。この部分が国家と国民の富と力の指標である。「国民資産」は「国民的利子ないし真の利子をもたらす資本」と「どんな利子も生まない資本」とを区別し,後者だけで経済的福祉を判断してはならず「純収益をもたらす土地と用益の資本価値」としての前者の意義を強調し,これら二種の「資本」合計を国民資産としている。
筆者は次にクルークの推計方法を紹介している。国民所得の推計方法に関しては「年々の地代を生じる全土地の真実価値の見積もりと,国民資本としてのこの額から年々生じる地代によって」計算する方法と「国内で年々生産される利用可能な全財貨の見積もりによって」計算する方法とをあげ,前者は既存資料では不可能なので,後者を選択している。その他,耕地の所得計算,牧草地および牧場の所得をはじめ林業,園芸・ブドウ栽培等,鉱山業等,漁業,狩猟業,工場・手工業など,そして輸出向け加工業の「外国からの所得」の計算を行い,結果として19世紀初頭の「プロイセンの国民所得」を推計している(261,000[千ターレル])。これをもとに一人当たり国民所得(27.25ターレル),国民の純所得(82,942[千ターレル]),産業階級の純収益が計算されている。さらに土地およびその用益の資本価値(20億ターレル),全国民資産(3,385,600[千ターレル])が推計されている。
クルークによるプロイセンの国民所得推計の特徴は,階級相互の,また社会全体と諸階級との関連を解明する目的で試みられたことである。本稿に掲載されている「プロイセン国家における国民所得の分配の概況」(167頁),「プロイセンN県の階級構成」(170頁)は,その実例である。クルークは当時における必要な統計の欠如,欠陥の多い統計という制約のなかで,独自の所得推計を行った。どの階級ないし層が社会の富を支えているか,富や貧困を生み出す社会的関係が何であるかを明らかにすることが重要であり,その分析がなければ彼にとって推計は無意味であった。
筆者は述べている。「国民所得や国富の研究を諸階級の経済状態の分析としてとらえなおしたところに,われわれはクルークの研究の積極的な意義を認めたいと思う。そしてそれは,プロイセンに対するブルジョア滝改革の必要性を意識したクルークの問題意識によるものであった」(175頁)。さらに,「クルークの・・・統計学にたいする考えは,基本的には国状学の考え方に立つものであったが,それが国民所得,国富の推計と人口の階級区分との統合による社会の経済状態および階級構造の解明をその中心課題にすえ,統計学の基礎を明確に経済理論に求めたという意味で,この時期のドイツ国状学の重要な展開を示すものであったといわなければならない」(175頁),「クルークの統計学のもうひとつの特色は,それがこの時期のプロイセンの官庁統計行政と直接的な結びつきをもつに至ったということである」(175-6頁)とも述べている。『考察』が契機となってプロイセン最初の統計局が設置され,クルークはシュタインを長とする「商工業及消費税省」の下に設けられた最初の「統計局」で指導的局員としてプログラム作成の仕事に従事したことがこのことを示している(「統計局」はナポレオンの占領によって短命に終わり,それとともにクルークのプログラムは頓挫した)。
『考察』(二冊本)は1200頁をこえる大著である。内容はプロイセンの統計学(国状学)の一環として執筆されたもので,当時のプロイセンにおける経済・財政問題についての誤った重商主義的見解に自らの見解を対置するかたちで叙述され,経済学の概念および階級関係という認識目標をふまえた統計材料の加工・分析を意図している。クルークはまた,その研究が「もっぱら国民の福祉を問題にする」と明確に述べ,経済的福祉あるいは国民の富またその指標について検討を加えている。指標に関しては具体的に,「ある地方で産出された諸商品の価格」「土地の価格」「すべての土地の純収益の大きさ,ないし小作料」「輸出入商品の価値」「輸出される工場商品および加工生産物の量」「貨幣」「金と銀の貯えの量」などをあげている。この延長線で,国民の富の指標として,「国民所得」「純所得」「国民資産」の定義と計算を示している。重要なのは,これらがどの階級によって生み出され,またどの階級によって享受されるかということが常にクルークの念頭にあったことである。
クルークは「国民所得」を定義して,それは「この国で年々生産される使用可能な財貨の総計であり,なおこれに所与の国の住民が産業によって他の諸国民の所得から手に入れる部分が加わる」という。財貨は土地の生産物で,「流通所得」から区別される。またクルークが「国民所得」と呼ぶのは「総収益」である。これに対し,「純収益」は国家と国民にとっての可処分所得である。この部分が国家と国民の富と力の指標である。「国民資産」は「国民的利子ないし真の利子をもたらす資本」と「どんな利子も生まない資本」とを区別し,後者だけで経済的福祉を判断してはならず「純収益をもたらす土地と用益の資本価値」としての前者の意義を強調し,これら二種の「資本」合計を国民資産としている。
筆者は次にクルークの推計方法を紹介している。国民所得の推計方法に関しては「年々の地代を生じる全土地の真実価値の見積もりと,国民資本としてのこの額から年々生じる地代によって」計算する方法と「国内で年々生産される利用可能な全財貨の見積もりによって」計算する方法とをあげ,前者は既存資料では不可能なので,後者を選択している。その他,耕地の所得計算,牧草地および牧場の所得をはじめ林業,園芸・ブドウ栽培等,鉱山業等,漁業,狩猟業,工場・手工業など,そして輸出向け加工業の「外国からの所得」の計算を行い,結果として19世紀初頭の「プロイセンの国民所得」を推計している(261,000[千ターレル])。これをもとに一人当たり国民所得(27.25ターレル),国民の純所得(82,942[千ターレル]),産業階級の純収益が計算されている。さらに土地およびその用益の資本価値(20億ターレル),全国民資産(3,385,600[千ターレル])が推計されている。
クルークによるプロイセンの国民所得推計の特徴は,階級相互の,また社会全体と諸階級との関連を解明する目的で試みられたことである。本稿に掲載されている「プロイセン国家における国民所得の分配の概況」(167頁),「プロイセンN県の階級構成」(170頁)は,その実例である。クルークは当時における必要な統計の欠如,欠陥の多い統計という制約のなかで,独自の所得推計を行った。どの階級ないし層が社会の富を支えているか,富や貧困を生み出す社会的関係が何であるかを明らかにすることが重要であり,その分析がなければ彼にとって推計は無意味であった。
筆者は述べている。「国民所得や国富の研究を諸階級の経済状態の分析としてとらえなおしたところに,われわれはクルークの研究の積極的な意義を認めたいと思う。そしてそれは,プロイセンに対するブルジョア滝改革の必要性を意識したクルークの問題意識によるものであった」(175頁)。さらに,「クルークの・・・統計学にたいする考えは,基本的には国状学の考え方に立つものであったが,それが国民所得,国富の推計と人口の階級区分との統合による社会の経済状態および階級構造の解明をその中心課題にすえ,統計学の基礎を明確に経済理論に求めたという意味で,この時期のドイツ国状学の重要な展開を示すものであったといわなければならない」(175頁),「クルークの統計学のもうひとつの特色は,それがこの時期のプロイセンの官庁統計行政と直接的な結びつきをもつに至ったということである」(175-6頁)とも述べている。『考察』が契機となってプロイセン最初の統計局が設置され,クルークはシュタインを長とする「商工業及消費税省」の下に設けられた最初の「統計局」で指導的局員としてプログラム作成の仕事に従事したことがこのことを示している(「統計局」はナポレオンの占領によって短命に終わり,それとともにクルークのプログラムは頓挫した)。