社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

浦田昌計「ドイツにおける最初の国民所得と階級構成の研究-L.Krug『プロイセンの国民的富にかんする考察』(1805)-」『経済論叢』第115巻第3号,1975年3月

2017-04-09 00:17:44 | 4-2.統計学史(大陸派)
 本稿の目的は,19世紀初頭のプロイセンにおけるレオポルド・クルーク(leoporld Krug,1770-1843)の国富と国民所得に関する統計的研究を紹介し,考察することである。クルークは重農学派の経済学者の一人で,スミスの経済学に影響を受けているが,とりわけ重要なのは1835年までプロイセン統計局の中心人物で,その設立(1805年)に寄与したことである。主要著作は『プロイセン国家の国民的富およびその住民の福祉にかんする考察』(1805年)(以下『考察』と略)である。他に『経済的統計学試論』(1807年),『国家経済学概要』(1807年)がある。本稿での検討は,『考察』が中心である。クルークについては統計学史研究ではあまり注目されていない。しかし,筆者はシュレーツェルが強調したドイツ国状学派による統計学と官庁統計との結合のプロイセンにおける具体化をクルークにみることができるとしている。

『考察』(二冊本)は1200頁をこえる大著である。内容はプロイセンの統計学(国状学)の一環として執筆されたもので,当時のプロイセンにおける経済・財政問題についての誤った重商主義的見解に自らの見解を対置するかたちで叙述され,経済学の概念および階級関係という認識目標をふまえた統計材料の加工・分析を意図している。クルークはまた,その研究が「もっぱら国民の福祉を問題にする」と明確に述べ,経済的福祉あるいは国民の富またその指標について検討を加えている。指標に関しては具体的に,「ある地方で産出された諸商品の価格」「土地の価格」「すべての土地の純収益の大きさ,ないし小作料」「輸出入商品の価値」「輸出される工場商品および加工生産物の量」「貨幣」「金と銀の貯えの量」などをあげている。この延長線で,国民の富の指標として,「国民所得」「純所得」「国民資産」の定義と計算を示している。重要なのは,これらがどの階級によって生み出され,またどの階級によって享受されるかということが常にクルークの念頭にあったことである。

 クルークは「国民所得」を定義して,それは「この国で年々生産される使用可能な財貨の総計であり,なおこれに所与の国の住民が産業によって他の諸国民の所得から手に入れる部分が加わる」という。財貨は土地の生産物で,「流通所得」から区別される。またクルークが「国民所得」と呼ぶのは「総収益」である。これに対し,「純収益」は国家と国民にとっての可処分所得である。この部分が国家と国民の富と力の指標である。「国民資産」は「国民的利子ないし真の利子をもたらす資本」と「どんな利子も生まない資本」とを区別し,後者だけで経済的福祉を判断してはならず「純収益をもたらす土地と用益の資本価値」としての前者の意義を強調し,これら二種の「資本」合計を国民資産としている。

 筆者は次にクルークの推計方法を紹介している。国民所得の推計方法に関しては「年々の地代を生じる全土地の真実価値の見積もりと,国民資本としてのこの額から年々生じる地代によって」計算する方法と「国内で年々生産される利用可能な全財貨の見積もりによって」計算する方法とをあげ,前者は既存資料では不可能なので,後者を選択している。その他,耕地の所得計算,牧草地および牧場の所得をはじめ林業,園芸・ブドウ栽培等,鉱山業等,漁業,狩猟業,工場・手工業など,そして輸出向け加工業の「外国からの所得」の計算を行い,結果として19世紀初頭の「プロイセンの国民所得」を推計している(261,000[千ターレル])。これをもとに一人当たり国民所得(27.25ターレル),国民の純所得(82,942[千ターレル]),産業階級の純収益が計算されている。さらに土地およびその用益の資本価値(20億ターレル),全国民資産(3,385,600[千ターレル])が推計されている。

クルークによるプロイセンの国民所得推計の特徴は,階級相互の,また社会全体と諸階級との関連を解明する目的で試みられたことである。本稿に掲載されている「プロイセン国家における国民所得の分配の概況」(167頁),「プロイセンN県の階級構成」(170頁)は,その実例である。クルークは当時における必要な統計の欠如,欠陥の多い統計という制約のなかで,独自の所得推計を行った。どの階級ないし層が社会の富を支えているか,富や貧困を生み出す社会的関係が何であるかを明らかにすることが重要であり,その分析がなければ彼にとって推計は無意味であった。

筆者は述べている。「国民所得や国富の研究を諸階級の経済状態の分析としてとらえなおしたところに,われわれはクルークの研究の積極的な意義を認めたいと思う。そしてそれは,プロイセンに対するブルジョア滝改革の必要性を意識したクルークの問題意識によるものであった」(175頁)。さらに,「クルークの・・・統計学にたいする考えは,基本的には国状学の考え方に立つものであったが,それが国民所得,国富の推計と人口の階級区分との統合による社会の経済状態および階級構造の解明をその中心課題にすえ,統計学の基礎を明確に経済理論に求めたという意味で,この時期のドイツ国状学の重要な展開を示すものであったといわなければならない」(175頁),「クルークの統計学のもうひとつの特色は,それがこの時期のプロイセンの官庁統計行政と直接的な結びつきをもつに至ったということである」(175-6頁)とも述べている。『考察』が契機となってプロイセン最初の統計局が設置され,クルークはシュタインを長とする「商工業及消費税省」の下に設けられた最初の「統計局」で指導的局員としてプログラム作成の仕事に従事したことがこのことを示している(「統計局」はナポレオンの占領によって短命に終わり,それとともにクルークのプログラムは頓挫した)。

浦田昌計「クローメの表統計学と統計調査論」『初期社会統計思想研究』御茶の水書房,1997年)

2017-04-08 00:17:13 | 4-2.統計学史(大陸派)
A.F.クローメ(A.F.Crome,1753-1833)は,ゲッチンゲン国状学派(ドイツ国状学派)に対する新学派の代表者の一人である。表統計学派,線的算術家と呼ばれた人々の最初の人物でもある。1753年にオルデンブルク領クニップハウゼンの聖職家の家に生まれ,最初,神学を志したが,1778年からデッサウに設立された博愛学院で地理学と歴史学の教師を務めた(1783年まで)。1782年に最初の著作『ヨーロッパの産物,新しいヨーロッパの産物図表の利用のために』が出版された。次いで,デッサウ公国の世嗣の教育係に任じられた(1786年まで)。1787年にはヘッセン・ダルムシュタット大公国のギーゼン大学に迎えられ(統計学および官房学の正教授),ここで50年間,勤めることになる。公表された書物に「ヨーロッパ諸国の面積と人口について」(1785年),「ヨーロッパ諸国の文化関係について」(1792年),「ドイツ連邦加盟全ラントの国力の地理的・統計的叙述」(1820-28)がある。

 本稿は「ヨーロッパ諸国の面積と人口について」をとりあげ,クローメの統計学を紹介することである。構成は次のとおり。「はしがき」「1.クローメの略歴と主著の構成」「2.主著の対象とクローメにおける統計学」[3.クローメの人口調査論]「4.クローメの人口調査論の意義」
主著「ヨーロッパ諸国の面積と人口について」の内容は,以下のようである。
序文/第1章 数量誌の重要性,そのこれまでの運命,この科学を容易にする試み/第2章 一国の大きさあるいは面積を調べる手段について/第3章 人口誌の重要性,それの運命,それをさらに完全にまた一般的にする提案/第4章 この著作に付属するヨーロッパの数量図表の用途と仕組み/第5章 ヨーロッパ諸国の面積と人口についての,一部は図表そのものに一部は後続の諸表に現れる,様々な報告についての注釈,ならびにそれが得られた典拠の指示/第6章 ヨーロッパの全地域全国家の面積と人口についての14の表。
クローメは諸国家の「面積誌と人口誌」を一個の科学とみたて,その意義,歴と現状を明らかにし,そのための資料的基礎と方法の改善を具体的に追及する。この著作の第一の目標は,「面積誌と人口誌の個々の部分を明らかにし,正しくし,またはその暗い部分を引き出して,政治学者,政治家,愛国者は昔は偏見がそれらを国家機密として仕舞っておいたそのような知識の暴露に促されるようにすること」である。第二の目標は文字通り「ヨーロッパ諸国の面積と人口」の数え上げであり,国別に各種の典拠から得られる面積と人口の数字と人口密度が示されている。

クローメにあっては,「国土誌(=国家誌)」と「統計学」とはとくに区別されていない。このことを前提として,クローメは自らが取り組もうとした「数量誌」を,「国土誌」あるいは「統計学」のなかで新たに発展させるべき部分と考えていた。彼が「面積・人口誌」を「国家誌」=「統計学」において特別な領域と考えた場合に,その方法としての数量的観察が意識されていた。その限りで「政治算術」との関わりが問題となる。実際に,本書の序文,第1章,第3章で,人口誌発展のための「政治算術」の役割に言及がある。ここで言われている「政治算術」は出生・死亡記録による人口研究である。彼の主題である「諸国家の数量誌」は人口推計において「政治算術」の成果を活用するが,「政治算術」の内容はこれだけではないから,その対象の全体をカバーするものではない。筆者は次のように述べる,「彼が『政治算術』の数量的観察方法を重視していることは明らかであるが,・・・彼が考えているのは,『出生・死亡リスト』=人口動態統計の分析を中心とする狭義の『政治算術』を国家誌=統計学に置き換えることではなくて,こうした研究の成果も活用しつつ,彼の『面積=人口誌』を中核として『国家誌=統計学』を再構築することであったと思われる」と(147-8頁)。

クローメは「面積・人口誌」で資料の批判的な検討が必須の前提であるとしている。そのために自身の統計表に使ったデータの典拠と正確性の具体的な検討を行っている。それだけでなく,可能な場合には,別の典拠とつきあわせて検証に努めている。当該の著作では,個々のデータの説明だけでなく,「数量誌」の基礎資料の獲得方法についての一般的考察とその歴史の叙述にも言及するべく努力している。第2章では,土地面積の測量の方法・手段とその歴史・現状について説明を行っている。第3章では,人口誌の資料,それの基礎 データの作成の手段と方法をとりあげている。この章は人口静態調査の部分と人口動態(教会リスト)の利用に関する部分からなる。

クローメは一国の人口数を知る手段として「数え上げ調査」をあげ,それを部分的調査と一般的調査とが分けて論じている。部分的調査は国家の個々の部分あるいは個々の階級,または年齢層などにかかわる調査である。地域的部分だけでなく家屋や家族の調査もここに含まれる。クローメはこれらの部分的調査の有用性を認めつつ,全国土の人口誌にとっては「全国土に,またその全住民に及ぶ」一般的調査が必要であるとする。この調査は人口数の確定だけでなく,人口構造や人口の発展法則の解明についても価値があるというわけである。その先進的事例としてクローメがあげているのは,プロイセン(1733年開始,1773年改正),ヴェルデンブルグ(1769年開始),スウェーデン(1746年のストックホルム科学アカデミーによる開始,1749年以降身分制議会の人口調査委員会が担当)である。

 筆者はまた人口調査に関するクローメの議論のなかで調査に対する住民の抵抗(負担にもとづく),隠し立て,虚偽の報告を問題にしているところに興味が惹かれると書いている。その他,人口調査が本来の目的以外の副次的目的を掲げることなく実施されなければならないこと,調査員が調査の実状に習熟するために,また住民の側で調査に慣れてもらうために毎年繰り返して実施すべきこと,が指摘されている。

 静態人口調査に関するクローメの所説は,当時の若干の諸国で始まっていた統計調査についての知見にもとづいている。議論の内容はとりたてて斬新なものではないが,そこに意義があるとすれば,それはクローメが人口誌ひいては統計学との関連で政府による統計調査論を展開していることである。

三潴信邦「社会統計学(リーディング・コンサルタント)」『経済セミナー』No.87,1963年9月

2017-02-11 01:03:51 | 11.日本の統計・統計学
社会統計学の学習案内(ブックガイド)として書かれたものであるが,全体を通読すると社会統計学の歴史の概観にもなっている。内容はS君宛ての書簡の形式をとっている。構成は2つに分かれ,前半は「1.日本における社会統計学の発展」,後半は「2.戦後の社会統計学」である。

 統計学とは何か,その学問的性格を理解するために,『統計学古典選集』(栗田書店,全12巻,1940年より)が推奨されている。この選集は日本における社会統計学の体系的創始者である高野岩三郎(1871-1949)が先頭にたって,当時社会科学の研究の自由を奪われていた社会科学者を大原社会問題研究所に集め,訳業を進めた成果である。その内容は次のとおり。

・第1巻(高野岩三郎訳) フォン・モール『統計学』(1872年),リューダー『統計学批判』(1812年)
・第2巻(高野岩三郎訳) クニース『独立の学問としての統計学』(1850年)
・第3巻(久留間鮫造訳)グラント『死亡表に関する自然的な政治考察』(1862年)
・第4巻(大内兵衛訳)ペティ『政治算術』(1690年)
・第5巻(高野岩三郎・権田保之助訳)ケトレー『道徳的・政治的諸学へ応用された確率理論に就いての書簡』(1846年),クナップ『道徳統計に関する近時の見解』(1871年),リューメリン『統計学の理論について』(1863年・1874年)
・第6巻(大内兵衛訳)ワーグナー『統計学』(1867年)
・第7巻(権田保之助訳)ワーグナー『一見恣意的に見える人間の行為に於ける合法則性』(1864年)
・第8巻(森戸辰雄・大内兵衛訳)ドゥローヴィッシュ『道徳統計と人間の意思の自由』(1867年),シュモーラー『人口統計及道徳統計の結果に就て』(1871年)
・第9巻(久留間鮫造訳)レキシス『自然科学と社会科学』(1874年),レキシス『人間社会に於ける大量観察の理論に就て』(1877年)
・第10巻(高野岩三郎訳)マイヤー『社会生活に於ける合法則性』(1877年)
・第11巻(森戸辰男訳)エンゲル『労働の価格』(1872年),エンゲル『人間の価値』(1883年)
・第12巻(森戸辰男訳)エンゲル『ベルギー労働者家族の生活費』(1895年)
・第13巻(高野岩三郎・森戸辰男訳)ジュースミルヒ『神の秩序』(1741年)

筆者はこの中のとくにグラント著「死亡表に関する自然的及政治的考察」とペティ著「政治算術」を必読書して推している。前者は得てして人口動態統計の古典としてしか受け入れられていないが,グラントは人口現象を社会社会現象としてみる視点があり,出生・死亡という現象に歴史的な人口法則が貫かれていることを示した功績がある。後者を著したペティは,労働価値説の創始者と考えられている人物で,上記の著作は統計が経済学にとってどのような意義をもっているかを考えさせてくれる好著である,という。なお筆者はここで統計学史の著作として,ウェスタ―ガード/森谷喜一郎訳『統計学史』(栗田書店,1943年)とヨーン/足利末男訳『統計学史』(有斐閣,1956年)を挙げている。

 筆者は次いで高野岩三郎が日本の社会統計学の発展に寄与し,貢献したことを詳しく紹介している。ドイツ社会統計学の成果を日本に導入し,社会問題の解決のために不可欠な統計的研究を実践し,方法論をもった統計学,社会科学的統計学にまで成長させたこと,日本で最初の職工の家計調査を東京で行ったこと(1916年),『統計学研究』(大倉書店,1915年),『社会統計学史研究』(栗田書店,1942年)を出版したことは,彼の学問的営為の結実である。

 筆者は同時に,蜷川虎三の統計学について叙述している。蜷川はドイツ社会統計学のマイヤーの影響を受けながら,統計学の基礎として客観的に存在する社会集団を明確に規定し,統計調査を大量観察によってこの社会集団をとらえた。また,大数法則を基礎にした「純解析的集団」の分析を統計解析と規定した。さらに,統計学の対象が統計方法であると主張した。客観的に存在する「社会集団」を強く意識しながら,大数法則の認識という統計学の目標に到達するための「純解析的集団」という形式的集団を想定する,というのが蜷川統計学の特徴である(ここに矛盾があるとの指摘がある)。蜷川の主著は,『統計学研究Ⅰ』(岩波書店,1931年),『統計利用に於ける基本問題』(岩波書店,1932年),『統計学概論』(岩波書店,1934年)である。

 有澤広巳の統計学は,唯物弁証法に基礎をおく統計学である。その主著は『統計学総論』(改造社,1930年),『統計学要論(上)』(明善社,1946年)である。統計利用に関しては『日本経済統計図表』(改造社)がある。有澤統計学の特徴は,統計学の目的を大量観察による因果関係の安定性の把握としたことである。筆者は有沢理論が因果的合法則性の認識を統計認識の目的としたのは正しかったが,それを大数法則によって導出するやり方は唯物弁証法とどのように結びつくのか,よくわからないと指摘している。

 敗戦直後の統計学には,2つの大きな経験がある。ひとつは推計学を基礎にした標本調査論の盛隆であり,もう一つはソ連における統計学論争の影響である。前者はフィッシャー流の母集団―標本理論を土台に,「法則」の究明を目標とする統計学である。ここでいわれる「法則」は自然現象にも社会現象にも普遍的に妥当する科学的法則と目されものである(「統計学=普遍科学方法論」説)。筆者はこの「法則」観を否定し,歴史科学にはその哲学は妥当しないと説いている。後者は,ソ連で1950年代に繰り広げられた論争で,この論争の内容は有澤広巳『統計学の対象と方法』(日本評論社,1956年),経済統計研究会訳編『ソヴェトの統計理論(Ⅰ)(Ⅱ)』(農林統計協会,1953年)に詳しい。論争は「統計学=実質科学」説で落着したが,筆者はこの説では経済学と統計学との区別がなくなってしまうと,否定的である。

 筆者は戦後の社会統計学の理論的深化に役割を果たした著作として,次のものを推薦している。上杉正一郎『マルクス主義と統計』(青木文庫,1951年),『経済学と統計』(青木書店,1955年),「経済統計学の基礎的問題」(『思想』1957年11月号),大橋隆憲『社会科学的統計思想の系譜』(啓文社,1961年),『現代統計思想論』(有斐閣,1960年),『統計学総論』(共著,有信堂,1963年),内海庫一郎『科学方法論の一般規定からみた社会お統計方法論の基本問題』(1962年)。

 最後にこの論稿が執筆された当時、議論になっていた内海理論に対するコメントを付している。筆者の整理によると、内海は統計調査を認識の三段階論(感性的認識-理性的認識-実践)のうちの感性的認識の段階に位置づけ、また「社会集団を統計方法の適用対象とする」考え方を否定している。内海は「集団であるかどうか、その集団の諸性質を問う前にまず、統計数字の記録=資料一般としての性格を充分に考えてみる必要がある」と述べている。この見解に対し、筆者は客観的存在の量的測量のうち社会集団に関するものの分析が特殊な統計方法を必要としているのであって、経済現象で取り扱われる量がすべて統計方法を必要としているわけではない、経済現象を反映する数字一般の社会的存在の意味を強調するあまり、統計的方法を研究対象とする社会統計学の方法科学としての独自性が否定されている、これでは方法科学としての統計学が経済学方法論と同一視されることにはならないか、と懸念を表明している。

泉俊衛「国勢調査」相原茂・鮫島龍行『統計 日本経済(経済学全集28)』筑摩書房,1971年

2017-01-25 17:01:42 | 11.日本の統計・統計学
本稿の目的は,日本の国勢調査の揺籃期から1970年頃までの経緯の要約である。全体の構成は次のとおり。「Ⅰ 国勢調査以前の人口調査」「Ⅱ わが国における国勢調査の展開:1.大正9年第1回国勢調査の実施,2.第2回国勢調査以降の経緯,3.国勢調査結果の概観」。

 日本での国勢調査は,大正9年(1920年)に第1回目が実施され,以来,戦中期に行われた臨時調査を別にすると,5年ごとの施行となっている。第1回調査にいたるまでには紆余曲折があったが,明治5年に全国一斉に行われた「戸口調査」,また明治12年に杉亨二が指導した甲斐国現在人別調,明治後期に東京市,神戸市などで行われた人口センサスが知られる。杉の甲斐国現在人別調は,国勢調査前史を語るならば触れないわけにはいかないが,これについては本書『統計 日本経済』の第1章Ⅲ節3項「明治12年『甲斐国現在人別調』の検討」で詳しく論じられているとして(鮫島執筆),紹介をそちらに譲っている。「Ⅰ 国勢調査以前の人口調査」は,これらのうち,明治後期の人口センサスに重きをおいた記述である。しかし,この計画は議会の解散による予算案のたなあげ,日露戦争の勃発で頓挫した。明治40年代になると東京市,神戸市など全国各地で市勢調査が試みられ,再度国勢調査実施の気運が高まった。筆者はこの頃に実施された,これらの市勢調査の時期,調査事項,調査方法を一覧している。臨時台湾戸口調査(明治38年10月),熊本市職業調査(明治40年4月),東京市勢調査(明治41年10月),神戸市臨時市勢調査(明治41年11月),札幌区区勢調査(明治42年3月),新潟県佐渡郡群勢調査(明治42年12月),京都市臨時人口調査(明治44年11月),第二次臨時台湾与口調査(大正4年10月)がそれである。それにもかかわらず,全国レベルの国勢調査は,戸籍簿による人口統計が作成されていたこと,予算の逼迫,国民への宣伝不足などの事情で,またしても実現されなかった。

生みの苦しみはあったが,第1回の国勢調査は大正9年(1920年)に漸くスタートした。民間(東京統計協会など)の要請,請願があり,社会経済の発展とともに諸般の施策や計画の基本として正確な信頼できる人口調査がもとめらるようになったことが背景にあるが,筆者はとくに軍事上の要請が大きかったと指摘している。ともあれ,国勢調査は明治35年「国勢調査ニ関スル法律」ならびに大正7年「国勢調査施行令」のもとに実施の運びとなった。調査事項は,(1)氏名,(2)世帯における地位,(3)男女の別,(4)出生年月日,(5)配偶関係,(6)職業および職業上の地位,(7)出生地,(8)民籍別または国別,の8項目であった。調査方法は世帯主を申告義務者とする自計式で,全国に202,770地区が設けられ,調査当日の調査員数は246,384人であったという記録がある。

 調査の結果,それまでの人口統計の不正確さが認識された他,性別・年齢階級別人口の統計,就業状態に関する職業別人口の統計,地域別人口の統計など,貴重な統計が得られた。

 国勢調査は10年ごとに実施されることになっていたが,社会の変化に対応するには機間が長すぎるとの認識のもと,大正11年「国勢調査ニ関スル法律」の改正案が提出され,中間年に簡易調査が行われることになった。以来,国勢調査は昭和5年,同10年,同15年と実質的に5年に一度の実施となった。昭和15年の調査は戦時体制下での実施となったため,戦争目的にこたえる調査が要請された。統計調査が全面的に戦争のために動員される不幸な時期に入る。このような事態のなかで,一般には国勢調査とみなされない「昭和19年人口調査」という臨時的調査も実施された(集計結果は大部分公表されず,詳細は不明)。

戦後の国勢調査は昭和25年に再開されたが,それに先だって(1)昭和20年人口調査[昭和20年11月1日実施],(2) 昭和21年人口調査[同21年4月26日実施],(3) 昭和22年臨時国勢調査[同22年10月1日実施] (4) 昭和23年常住人口調査[同23年8月1日実施]が次々と行われた。それぞれ目的があり,(1)は議員制改正に伴う議員定数を決めるためであり,(2)は失業対策の基礎資料を得るためである。(2)(3)は資源調査法にもとづいて施行された「人口調査」である。(4)は当時の連合国軍総司令部の指令にもとづく「配給人口調査」である。昭和22年3月に「統計法」が制定され,以降の国勢調査はこれにもとづいて施行された。

 戦後は25年調査以降,30年,35年,40年,45年と調査が継続された。各回の調査に付加された調査項目は漸次増加し,調査内容が拡充された。筆者はその内容を逐一紹介しているが,ここではその記述を省略する。

 「3.国勢調査結果の概観」では,人口増加と年齢構成の変化,人口の地域分布とその変化,就業者の産業・職業別構成の変化が適当な表の配置をともに示されている。掲げられている表は,次のとおり。「わが国人口の増加と増加率の推移」「人口の年齢(3区分)構成の推移」「労働力率の推移」「人口階級別都道府県の人口」「人口増加県の自然増加率と社会増加率」「人口減少県の事前増加率と社会増加率」「市町村数の推移」「市部,郡部別人口の推移」「就業者の産業(3区分)別割合の推移」「産業(3区分)別就業者の増加」「第2次産業就業者数の推移」「第3次産業就業者数の推移」「職業(大分類)別就業者数」。   
筆者は最後に国勢調査に使われた職業分類,産業分類に言及している。国勢調査施行の過程が同時に職業や産業についての分類体系の整備の過程でもあったという筆者の認識があるからである。

薮内武司「国勢調査前史-明治人口統計史の一齣-」『日本統計発達史研究』法律文化社,1995年

2017-01-18 00:27:22 | 11.日本の統計・統計学
 本稿のオリジナル論文は,同名で『岐阜経済大学論集』(第11巻第1・2号[1977年6月],第18巻第1号,2号[1984年3月,7月])に掲載されたものである。
日本の国勢調査は,1920年(大正9年)に,第一回目が実施されたが,その前史には紆余曲折があった。難産の末,西欧諸国での実施からかなり遅れてのスタートであった。本稿ではそのプロセスが詳細に,紹介,検討されている。

 上杉正一郎「日本における第一回国勢調査(1920年)の歴史的背景-統計史にあらわれた日本資本主義の特質について-」(1960年),松田泰二郎「国勢調査発達史」(1948年),泉俊衛「国勢調査」(1971年)などの先行研究の成果をおさえ,また当時の一次資料を豊富に活用し,当該テーマを体系的に論じている。全体の構成は,次のようである。

 「はじめに」「1.発端期の人口統計:(1)人口統計史序,(2)人口統計の端緒『駿河国沼津・原政表』」「2.人口統計の期限:(1)戸籍編成と人口調査,(2)『戸籍法』制定と戸口調査」「3.人口統計の胎動:(1)太政官政表課の設置,(2)「甲斐国現在人別調」の実施,(3) 「甲斐国人員運動調」の中絶」「4.国勢調査の濫觴:(1)国勢調査序史,(2)『全国人口調査』暗礁に,(3)民間統計団体の促進運動,(4)人口動態統計の整備」「5.国勢調査促進運動の本格的展開,(1)国際統計協会からの勧誘,(2)『国勢調査ニ関スル法律』の制定,(3)『国勢調査』の由来,(4)1905年『国勢調査』の暗転」「6.地域と人口調査:(1)地域人口センサスの勃興,(2)植民地と人口調査」「7.第一回『国勢調査』の実現へ:(1)1910年『国勢調査』の見送り,(2)民間統計団体からの建議,(3)日本資本主義の展開と国勢調査,(4)軍事的要請と国勢調査,(5)再々度,民間統計団体からの支援,(6)1920年・第一回『国勢調査』の決定」「むすび」[補論 第一回『国勢調査』の概要]  

 以下,筆者の案内にしたがって,日本の人口統計の発展過程をたどり,第一回「国勢調査」実施にいたる足跡をたどることにしたい。

 日本の人口統計の発展は,明治維新後に始まる。その過程で大きな役割を果たしたのは,杉亭二である。杉は1869年(明治2年)に駿河国を対象に人口静態調査(駿河国人別調)を行った。日本での最初の人口静態調査である。この調査では標識別の分類・整理および統計製表化の基本構造が取り入れられ,初歩的ながら統計解析もなされている。

 明治期の人口動態統計は,維新政府の戸籍編成作業と軌を一に進行した。戸籍法(いわゆる検戸の法)が公布されたのは1871年(明治4年),この戸籍法にもとづいて1872年(明治5年)1月29日現在の戸口調査が行われた。その内容には多くの難点(前近代性)を内包していたが,採用された一戸ごとの点計主義の調査方法,さらに戸籍票・職分表の作成など,日本の人口静態統計,動態統計の起点に位置するものである。

 しかし,戸籍にもとづく戸口調査を基礎にした人口統計作成に批判的であり,「人別調」と「戸口調」とが本質的に異なるとの認識にたっていた杉は,全国人別調の必要性を建議した。しかし,おりから中央統計機関としての機能をはたすものと考えられていた太政官製表課が縮小される憂き目にあい,くわえて西南戦争という事態が生じ,杉の建議はなかなか受け入れられなかった。宿願は「甲斐国現在人別調」(1879年[明治12年]12月31日現在)として実現した。筆者はこの「甲斐国現在人別調」について次の評価を与えている,すなわちこの調査は「杉が多年にわたり吸収,蓄積につとめた統計思想を具体化させたものであった。しかもその後,欧州先進国諸国の統計理論,とくにドイツ社会統計学を体系的に学ぶ機会を得ることによって,科学的な認識のもとに実践化された日本の統計調査史上初の試みであった」と(176頁)。

 「甲斐国現在人別調」の意義をこのようにまとめた筆者は,この調査の集計方法,調査時点の設定の仕方,調査を「現在」人口(常住的家族人口)とした根拠,職業属性の調査方法,満年齢による観察など,具体的に詳しくその内容を点検している。(その後,人口動態調査「甲斐国人員運動調」(1883年[明治16年])が統計院によって企画されるが,同年12月の内閣制度の大改革に遭遇し,頓挫)。
杉にとって「甲斐国現在人別調」は,国勢調査の予備的試験調査の役割をもつものと,意識されていた。すなわち,この調査は「全国現在人別調」につながるはずのものであった。しかし,事態は思うとおりに進まなかった。財政問題,専門スタッフ(統計職員)の不足,中央統計機構の機構改革(機能縮小)がその前途をはばみ,杉は「甲斐国現在人別調」に続き,「全国現在人別調」の前段に行われる予定であった東京府の人口調査も断念している。もっとも,この間,人口統計の整備が全く進まなかったわけではない。戸籍業務にもとづく人口動態統計の整備は,地道に取り組まれていた。人口静態統計調査は1898年に第一回調査が実施され,以来5年ごとに取り組まれ(精度の低さは否めなかったが),その中間年次には人口動態統計での補完があった。また,政府レベルでの国勢調査に向けた足取りの遅滞とは裏腹に,民間レベルでの統計団体の不断の取り組み,統計関係者の熱心な啓蒙活動には見逃せないものがあった。1876年(明治9年)に結成されたスタチスチック社,1878年(明治11年)に創立した東京統計協会の活動がそれである。杉亭二,呉文聰,高橋二郎,横山雅男,臼井喜之作,相原重政などの統計関係者は断続的であったが,国勢調査促進の運動に関わった。

 停滞していた国勢調査実施の動きは,国際統計協会から日本政府にあてられた1900年「世界人口センサス」への参加勧誘を契機に再燃する。すなわち,国際統計協会は1985年8月にスイス・ベルンで開催された会議で,世界人口センサスの実施が提案,決議された。この決議は,同協会・報告委員ギュイヨーム(スイス連邦統計局長)より,日本の内閣統計局長に伝達依頼された。この勧誘は沈滞気味であった国勢調査促進運動を活発化させた。具体的には,国勢調査促進運動に長年にわたり展開してきた東京統計協会による建議の提出,衆貴両院議長への請願の提出などである。しかし,この機に及んでも政府の対応は鈍かった。政府の方針は,人口センサスへの参加より,統計専門機関の整備が先決であった。確かに,ぬきさしならない事情はあった。朝鮮出兵,日清戦争開戦,台湾占領などにともなう軍備拡張,戦後経営の負担である。結果として,種々の要望はむなしく,1900年人口センサスの施行は実現とならなかった。

 その後,1898年(明治31年)6月,伊藤博文内閣総辞職,初代統計院長を務めた大隈重信内閣の成立で事情は,変わる。同年10月22日,内閣統計課は内閣統計局に格上げがそれである。職員は拡充され,統計業務に国勢調査の研究が位置付けられ,欧米への実地調査が組まれるにいたる。民間レベルでは,東京統計協会,統計学社,統計懇話会の3団体において,「人口調査審査委員会」が選出され,国勢調査に関する予算,方法などの検討に手がつけられるようになる。こうした動きに支えられ,1902年(明治35年)2月18日,「国勢調査ニ関スル法律案」が衆議院へ提出され,3月6日,両院を通過し,12月1日,公布の運びとなった。

 ここまで来れば国勢調査の実施は可能なようにみえるが,政府は国際環境の変化,財政難などを理由に,この種の全国的規模の調査が未経験であったことも手伝って,その実現に踏み切れなかったようである(調査項目の検討などでは一定の前進はあった)。1905年,1910年,1915年と調査は見送られ,実現されたのは漸く1920年のことである。筆者はこの間の事情,例えば地域人口センサスが相次いで実施されたこと(熊本市,東京市,神戸市,札幌区,新潟県佐渡郡,京都市),植民地台湾で戸口調査が行われたこと(1905年),朝鮮では土地所有権の再確認という名目で土地調査が行われたこと(1910-18年)を紹介している。筆者はこれらの調査の内容を詳らかにしている。

 1920年国勢調査実施は,寺内正毅内閣(軍閥内閣)によって断行された。それは第一世界大戦の最中の1917年(大正6年)の第39回特別議会においてでった。翌1918年の第40回議会で第一回国勢調査費を含む予算が成立し,調査実施の段取りが一挙に進んだ。背景に軍事大国への傾斜を強めた当時の情勢があったこと,国勢調査の実現が軍事上の必要に基づいて推進されたことは否定できない。第一回国勢調査の実施を前にして,1920年5月15日,内閣統計局と軍需局とが併合され国勢院が設置され,併行して軍需工業動員法(1918年),軍需調査令(1919年)が公布された。(高野岩三郎は,軍事上の必要性が突出することに対し学問的立場から反論した)。そのことを明確に示した資料として,筆者は当時の牛塚統計局長から上原勇作参謀総長にあてた意見書「国勢調査ノ軍事上必要ナル所以」(1917年[大正6年]7月)の全文掲げている(237-9頁)。

 なお本文中で,筆者は国勢調査という名称の由来を明らかにしている(207-8頁)。それは「国の情勢」という意味である。センサスの訳語として「国勢調査」あてられたのは,国民が理解しやすいようにという宣伝効果が考慮されてのことであった。