社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

広田純「ソヴェトにおける統計学論争」中山伊知郎編『統計学辞典[増補版]』東洋経済新報社,1957年

2017-10-05 21:22:33 | 5.ロシアと旧ソ連の統計
 1940年代後半から50年代半ばにかけての,ソ連における統計学論争を紹介した論稿。辞典の一項目とは言え,一本の論文に匹敵する分量で書かれている。構成は,以下のとおり。「1.『形式主義的=数学的傾向』の批判」「2.1948年会議の経過」「3.と掲学の対象と方法」「4.1952年論争における諸見解」「5.1954年の科学会議」。

 紹介されている統計学論争は,1948年の3つの会議,1952年の中央統計局での「統計学の理論的基礎に関する会議」,1954年の科学アカデミー,中央統計局,高等教育省による「統計学の諸問題に関する科学会議」である。他に『統計通報』『計画経済』『経済学の諸問題』などの科学雑誌での関連論文が適宜とりあげられている。

 革命後暫く,ソ連の統計学界では数理統計学が主流であった。この傾向に対しては,実践からの遊離がつとに指摘され,統計学死滅論(統計学は不要になり国民経済計算がそれに代位するという考え方)が唱えられた。数理統計学に重きをおく流れは,戦後も続き,この傾向はネムチーノフの統計学に代表される。ネムチーノフは,1945年に,『農業統計とその一般理論的基礎』を著し,スターリン賞を受賞している。

 論争はコズロフが『計画経済』第2号に,中央統計局公認のクレイニンによって執筆された『統計学教科概説』を批判したことに始まる。同誌第3号には,その後の討論の内容も反映した無署名論文「統計学の分野における理論活動を高めよ」が掲載された。筆者はこの論文に論点が集約されているとみて,詳細に紹介している。この論文では,要するに,ソビエト統計学が経済建設の実践から立ち遅れていること,その原因として統計学が数理形式主義的傾向をおび,統計学の教科書が「抽象的=数学的命題と操作の総体」を内容としていること,国家的報告組織の研究がなおざりにされていること,ブルジョア統計学に対して批判的検討が弱いこと,その背後にある観念論哲学,俗流経済学を軽視,あるいは無視していること,などが指摘された。

 その後,1948年に3つの関連した会議が開催される。一つは3月から5月にかけて科学アカデミー経済学研究所で開かれた「統計学の分野における理論活動の不足とその改善策について」の会議,二つ目は7月から8月にかけて開かれた農業科学アカデミー定期総会での会議,3つ目は科学アカデミー経済学研究所で,10月に開催された「経済学の分野における科学=研究活動の欠陥と任務」の拡大学術会議である。第一の会議では多くの人が,少なくとも言葉の上では理論活動の立ち遅れをみとめ,「形式主義=数学的偏向」の誤謬を認めた。しかし,ネムチーノフが「形式主義=数学的偏向」を批判しながら,実際の統計活動家の理論における立ち遅れと数学的方法の軽視を指摘し,他の論者も統計学一般利理論,統計的方法,数学的方法の効用をあげるなど,基本的な点で見解の不一致が残った。第二の会議ではいわゆるルイセンコ論争がルイセンコとネムチーノフとの間で戦わされた。この論争はルイセンコの学説(環境因子が形質の変化を引き起こし,その獲得形質が遺伝するという説,メンデルの遺伝学を非科学的と批判)をめぐるもので,ネムチーノフは染色体遺伝説を支持し,実質科学(生物学)に対する統計学の優位を主張した。言うまでもなく,現在,ルイセンコ学説を支持するものはいない。

 第三番目の会議で,オストロビチャノフは統計学の分野での理論活動が実践から遊離し,一連の統計学者がブルジョア統計学から抜け出ていないこと,一部の統計学者の見解に統計学の役割を過小評価する傾向がみられること,を指摘した。ネムチーノフはこの会議で,農業科学アカデミー定期総会での会議での主張の誤りを認めて自己批判している。ネムチーノフが自己批判したのは,実質科学(ここでは生物学)に対する数理統計学の優位を主張した点である。それでも,形式主義的偏向を認めたからと言って,「統計学から数学的方法を全然排除せよと言うことではない」との主張を変えていない。オストロビチャノフはこの点をとらえ「結語」で,ネムチーノフの自己批判が不十分であると指摘した。
翌年,コズロフは『経済学の諸問題』(1949年第4号)に「統計学におけるブルジョア的客観主義と形式主義に反対して」を書いた。その内容は,上記の論争を総括するものである。

1950年代の論争は,それ以前の論争の影響があるものの,論点は統計学の対象と方法に集約されていく傾向をもった。2月に中央統計局で「統計学の理論的基礎に関する会議」が開催されている。局長のスタロフスキーが司会をし,ソーボリが基調報告を行った。スタロフスキーは,統計学を歪曲するものを2のグループをあげている。一つは,統計学を大数法則に基礎をおく普遍的科学とする形式的数理派の人である,もう一つは統計の一般的原理および方法の妥当性を否定して統計学を個々の指標の体系に解消する若干の統計学者である。ソーボリは統計学の定義を次のように与えた。「統計学は社会科学である。統計学は社会経済現象および過程,過程の型および形式を研究して,それを適切に編成され,かつ社会経済諸関係の周到な分析を基礎に加工された数字資料の助けをかりて表現する」と。
この討論会では統計学の対象と方法とは何かが主要な論点であったが,関連して統計学と数学,数理統計学,経済学,他の社会諸科学との関係,大数法則の理解と位置付け,確率論の評価,統計学の教科書の構成,など多岐にわたった。注目されたのは,大数法則を統計学の理論的基礎とみなしていたピサレフの自己批判であった。席上,数理派弁護の論陣をはったのはポドバルコフであったが,支持者は少なかった。全体として数理派の退潮が目立った。

以上を受け,『経済学の諸問題』は誌上で,「統計学の対象と方法をめぐる論争」が組織された。この論争をとおして,「普遍的科学説」「社会的方法科学説」「独立の社会科学説」のおそれぞれの立場が明確になった。「普遍的科学説」は,統計学が自然現象,社会現象を問わず対象の量的側面を研究する方法を開発し,豊富化する科学であるとする学説である。この説を唱えたのは,ネムチーノフ,ピサレフ,ボヤルスキーなどである。「社会的方法科学説」は,統計学が社会現象の量的側面を究明する方法をその研究対象とする科学であるとする説である。社会科学方法論説を代表したのはН.ドルジーニンである。「独立の社会科学説」は,統計学が社会現象の数量的規則,法則を解明することを任務とする科学であるとする立場である。「実質科学説」に属したのは,コズロフ,チェルメンスキー,プロシコ,オブシェンコ,ソーボリなどである。
50年代初頭に展開された論争を集約する目的で開催されたのが,「統計学の諸問題に関する科学会議」(ソ連科学アカデミー,中央統計局,高等教育省共同主催)である。この会議は1954年3月16日から26日まで11日間にわたって開かれた。760人におよぶ研究者(統計学,経済学,数学者,哲学,医学などの諸分野),統計実務家が参加した。報告は文書によるもの20件を含め80件に及んだ。

 1954年会議は,科学としての統計学の定義に諸説があることをふまえつつ,あるべき統計学の発展の方向性を実質科学説の立場(コズロフ的見地)から次のように示した。それは.オストロビチャノフによる会議の次の総括として知られる。「統計学は, 独立の社会科学である。統計学は, 社会的大量現象の量的側面を, その質的側面と不可分の関係において研究し, 時間と場所の具体的条件のもとで, 社会発展の法則性が量的にどのようにあらわれるかを研究する。統計学は, 社会的生産の量的側面を, 生産力と生産関係の統一において研究し, 社会の文化生活や政治生活の現象を研究する。さらに統計学は, 自然的要因や技術的要因の影響と社会生活の自然的条件におよぼす社会的生産の発展とが, 社会生活の量的な変化におよぼす影響を研究する。統計学の理論的基礎は, 史的唯物論とマルクス・レーニン主義経済学である。これらの科学の原理と法則をよりどころにして, 統計学は, 社会の具体的な大量現象の量的な変化を明るみにだし, その法則性を明らかにする」と。

 この会議では,以上の結論とともに数理的,形式主義的偏向が厳しく批判され,普遍科学方法論説は後景に退いた。論点は,普遍科学説にたつ論客が統計学の対象として社会現象の数量的把握と解析を自然現象のそれらとを同一視する方法論(統計的方法が社会現象にも自然現象にも等しく適用可能とする考え方)に依拠することに対する批判であり,統計学が社会現象を数量的側面から観察し,分析する独自の課題を担うことへの無理解に対する批判である。普遍科学説はまた,大数法則が社会現象にも自然現象にも同じように作用すると理解したが,その過大な期待に批判の矛先が向けられた。

 筆者は最後に,この会議が統計学の内容,その対象と方法という基本的問題について,集団的な努力で一つの結論に達したことは,その後の理論活動の出発点として大きな意義をもった,と評価している。

森博美「承認統計調査」『統計法規と統計体系』法政大学出版,1991年

2017-04-27 21:41:11 | 11.日本の統計・統計学
 統計調整の専門法規は,「統計報告調整法」(昭和27年5月)である。この法律は統計調整を統計企画次元に限局し,その条文は調整技術的なものである。この法律の適用を受け実施される調査は,承認統計調査である。承認統計調査の実施状況を知ることで,「統計報告調整法」の特質を解明することができる。このような理由で,筆者は承認統計調査の特徴の考察を本稿で行っている。

 全体の構成は,次のとおり。「はじめに」「Ⅰ.承認統計調査の実施状況」「Ⅱ.承認統計における調査論理」「むすび」。

 「Ⅰ.承認統計調査の実施状況」では,「年次別調査承認状況」「現行承認統計の特徴」が示される。「統計報告調整法」が制定された昭和27年以来,昭和63年末まで承認された統計報告は16,929件である。この間,年間の承認件数は300-500件であり,昭和30年代前後は年平均350件程度であったが,その後承認のテンポが増えている。調査実施機関では,農水省,通産省,労働省,厚生省,運輸省が関わる調査が多い。特徴的なのは総務省がかかわる調査が,指定統計と比べても極端に少ないことである。承認制度発足当時は承認統計の二大実施機関のうち通産省の承認件数が農林省のそれを上回っていたが,40年代以降はこの関係が逆転している。

 『統計調査総覧』は,日本で実施された政府統計の総合リストである。政府統計の実施状況に関するディレクトリー情報をここから得ることができる。筆者はそれ(昭和59年版)に収録された承認統計調査に関する種々のデータを再集計し,分析して,現行承認統計の特徴をあげている。まず承認統計調査を最も多く実施した機関は農水省である(29.5%)。以下,通産省(17.4%),厚生省(13.7%),労働省(9.8%),運輸省(8.7%)が続く。

 対象属性別では,事業所(45.8%),企業(19.7%)が多い。しかし,調査対象の属性は,調査実施機関によって大きく異なる。承認統計をもっとも多く実施しているのは農水省であるが,その約3分の1は個人,世帯を対象としている。これに対し,通産省ではこの種の調査対象をもつ調査はわずか4件である。

 調査の実施系統と調査対象の関係に関しては,企業が対象とした承認統計の場合,全体の3分の2が実施機関から直接に報告をもとめる形をとる。事業所の場合には調査実施機関による直接調査を含め,その地方直轄組織を経由して実施されるものが全体の71.2%にのぼる。世帯あるいは個人を対象とする場合でも,調査実施機関の地方直轄組織を経由して実施されるものが49.2%である。調査対象の選定方法の内訳は,全数調査39.2%,無作為抽出標本調査38.1%,有意抽出調査22.6%である。これを調査対象の属性でみると,企業や事業所の調査で半数以上が全数調査であるが,個人や世帯の調査では3分の2が無作為抽出調査である。調査票の配集方法に関しては,承認統計調査では全体の3分の2が併用型を含めた郵送法で行われている。この点で,調査員依存型調査が63.0%の指定統計とは対照的である。これを調査対象の属性別でみると,企業や事業所を調査対象とする調査では調査員併用型の調査を含め4分の3が郵送法で実施されている。個人や世帯の調査では調査員依存型の調査比率が高い。調査の定期性では,調査周期1年以下の調査の割合は,企業を対象とする調査で71.6%,事業所54.7%,世帯47.8%,個人24.2%である。2年以上の調査周期(1回限り,不定期を含む)を有する調査の割合は,個人を対象とする調査をのぞけばいずれも半数以下である。

 「Ⅱ.承認統計における調査論理」では,承認統計の調査論理の解明のために,農水省と通産省の承認統計に代表される2つの調査類型のそれぞれについて,現実の調査実績にそくした検討がなされている。承認統計の場合,指定統計や業務統計にみられるような実査過程における法的強制としての調査協力誘因メカニズムは働かない。承認統計の実査過程を特徴づけているのは,申請者の「被拘束性」に象徴されるこの種の統計に固有の論理,すなわち調査実施者と申請者との間に日常的,恒常的に維持されている行政指導的レベルでの強制関係である。換言すれば,このような申請者の「被拘束性」にもとづく非法規的強制関係という調査論理が,統計法規あるいは個別業務法規による調査協力要請メカニズムをもたない承認統計への申告者の「自発的」協力を支えている。

 筆者は以上に要約される承認統計の調査論理を,実際の調査過程に探っている。その結果,得られた結論は次のようである。少々長いが引用する。「個人や世帯を対象とする調査の中にも,実査過程において調査実施者と申告者との間には,単なる統計作成行為を超えた現実の業務を媒介した特別な社会的関係が日常的に維持されているものが多く含まれる。・・・実査過程で成立する社会的関係の形態は多様である。実査における協力要請を日常的に維持されたこのような社会的関係に依拠するという点でこの種の調査は,単に無作為標本として抽出された不特定多数を対象とする調査とは明らかにその調査論理を異にする。このような特別な社会的関係に制約された調査対象としての個人や世帯をここでは特に『被拘束的』個人・世帯と呼ぶことにする」と(268頁)。事業所を対象とする調査でも,事情は同じである。ここでも「恒常的に維持されている『管理-被管理』という特別な社会的関係が,申告者に対する協力要請面で有効な強制力を持ちうる」(269頁)。「中央で指導・監督の立場にある調査実施者が管下の企業や事業者に対して調査を実施する場合,承認統計において広汎に採用されている郵送・自計法は,調査実施者と統計原情報の提供者の間に成立する独特な『被拘束的』関係,さらには定期性調査に対する報告者側の組織的対応という要素を考慮すれば,獲得される結果数字の精度の点からも積極的意味を持つ。なお新規調査や新設の調査項目への記入にあたっては,しばしば過去に遡及した資料の再整理が必要になる。これについても承認統計では報告者側から調査実施者に問合せが行われるのが一般的である。このことも,承認統計調査の実査における調査実施者と報告者の特別な関係を象徴している」(270頁)。

 筆者は「むすび」で,承認統計による結果数字の性格,「個人情報保護法」(昭和63年12月)の制定にともなう「報告調整統計法」の一部改正,承認統計における「裾切り調査」の役割と特徴,「裾切り調査」と「無作為抽出標本調査」との関係と前者の政策関連統計としての存在合理性などに言及し,承認統計が調査協力要請の論理という点でも,調査資料の行政目的への使用の面からも,指定統計と業務統計の中間的存在であることを確認して,本稿を閉じている。

森博美「統計体系論の視角」『統計法規と統計体系』法政大学出版,1991年

2017-04-26 21:37:29 | 11.日本の統計・統計学
本稿は筆者による『統計法規と統計体系』の第二部の冒頭に書かれたもので,統計体系をめぐる論点整理がその内容である。統計体系の内容に関しては,従来2つのタイプのアプローチがあったという。一つは統計体系を実現すべき行政目標としてとらえるアプローチであり,もう一つは統計利用の観点から統計体系を構成する諸統計の基本的性格の歴史的・社会的規定性を明らかにするアプローチである。前者は主として統計行政の担当者が提唱してきた統計作成者の体系論であり,後者は一部の統計研究者の体系論(統計利用者の立場)である。

 最初に「統計法」の起草者の一人であった山中四郎の統計体系についての二様の理解が紹介されている。第一の理解は,統計調査重複の除去その他を通じて達成される一国の全体としての統計体系である。統計体系の整備は,統計調査重複その他の政策によって達成される行政目標としてとらえられる。第二の理解は,個々の統計の比較可能性との関連で説かれる体系である。前者では作成されるべき諸統計が客観的存在としての現実あるいはその問題領域と直接対置され,統計体系として想定された統計の総体が現実の統計の整備状況に対する基準となる。後者では統計間の比較可能性,その連結利用という意味で統計相互の連関という形で統計の体系性が問題となる。

 戦後の日本の統計の発展過程に着目してこの2つの統計体系理解を考察すると,第一の観点の延長線上に統計の体系性をとらえたものに,昭和60年の統計審議会答申がある。統計行政の総合的な中・長期構想をまとめたこの答申は,ストック,サービス,環境統計について「統計体系上」の整備が急務であると提唱している。ここでは統計体系は客観的存在としての現実,統計が反映すべき問題領域に対する既存の統計の不足,不備の理念的検出基準として想定される。第二の観点の具体化は,国民経済計算の定着にそって既存の経済統計がこの体系を構成する勘定項目の推計資料としての性格に担わされ,ここでは統計の過不足は勘定体系の編成という統計の使用目的のフィルターをとおして認識される。

 筆者は関連して,鮫島龍行による明治以降の統計の発展過程の理解を参考に掲げている。自らも統計調査行政に従事した鮫島は戦前の統計の発展がたぶんに自然発生的であったとし,統計体系を整備する発想が生まれたのは戦後であったと唱える。戦前の統計の自然発生性が戦後あらためられるにいたったその契機は,鮫島によれば一つには無作意抽出調査の導入による母集団概念の定着であり,もう一つは国民経済計算体系を中心とした加工統計の普及である。日本の「戦後の統計は,標本調査並びに加工統計の普及を原動力として,調査形態,対象分野さらには連結可能性といった次元で,相互に有機的に連結された統計として全体的な体系化がはかられること」になった(222頁)。戦後の統計の整備に統計行政の面から関与した工藤弘安も,ほぼ同様の理解を示している。(工藤弘安「統計行政の歩み」Ⅳ,Ⅴ,Ⅵ,『統計情報』第36巻,1987-8年)

 統計体系に対するもう一つのアプローチに,統計利用者の側からのそれがある。このタイプの統計体系論は,統計利用の前提として,統計体系を構成すると考えられる既存の諸統計の特質さらに統計相互間の関係の解明を課題とする。大屋祐雪は統計の作成およびその利用が社会経済体制からいかに規定されるかという観点から,大量観察代用法の一形態である標本調査が資本主義経済体制の下で,「経済性」「迅速性」によって合理的な存在であるとしている。資本主義経済において諸統計が構成する統計体系は,センサスとそれに類する大規模な基本的統計調査を軸に,業務統計と標本調査を車の両輪とし,回転していく。筆者は別の論文(「現代政府統計の二形態」『中央調査報』中央調査社,No.285,1981年7月)で一部調査としての「裾切り調査」が「経済性」と「速報性の」を充足した統計として位置づけ,その存在意義を示したが,一部調査のなかの無作為抽出調査と「裾切り調査」も相互にそれぞれの役割を担って,政府統計体系を構成する。

 大屋はこの他にも,第二義統計(業務統計),調査統計(指定,承認,届出統計)のそれぞれを社会経済体制との関連で,作成過程を規定する諸要因を検討し,そこに働く論理が統計の真実性の確保にどのように関係するかを考察した。
上杉正一郎は,政府統計体系のなかで第二義統計の位置を明らかにする課題に取り組んだ。上杉は第二義統計を統計資料の源泉と統計作成主体の正確にしたがって,(1)届出,申告に基づき作成される統計,(2)官庁自身の所管業務の遂行記録として作成される統計,(3)経済行政官庁が管下の企業などから徴集する報告にもとづいて作成される統計,(4)国家企業の業務記録にもとづいて作成される統計に分類し,統計作成過程を規定する社会的関係が統計の信頼性,正確性をどのように制約しているかを論じた。

 筆者は以上をまとめて,「上杉や大屋の所説からも明らかなように,統計利用者の立場からこれまで展開されてきた統計体系に関する諸見解では,いずれも統計の作成過程を規定する社会的,調査技術的諸要因との関係で,体系を構成する諸統計のいわば調査論的理論化にその中心的関心が向けられてきた」(226頁)と総括している。
筆者は「むすび」で,統計数字の基本性格に,実体的特性と形態的特性があるとしている。実体的特性は,対象反映性の側面に関係した統計の性格規定である。形態的特性は,統計の作成形態による性格規定である(静態と動態把握,構造把握と動向把握,調査統計と業務統計など)。これらの性格規定は本稿で論じられた統計体系の内容と密接にかかわる。すなわち統計の実体的特性は現実の問題領域に対応した統計の整備といった統計行政上の問題に通ずる。形態的特性は,統計の等質性を担保する。このようにみると,統計行政との関連で提起された統計体系が有する2つの内容は,統計数字そのものが固有の属性として備える二面性の統計体系次元への投影である。

 統計研究者が提起した統計利用者の立場からの統計体系論は,調査論を中心に展開されたものである。そこでは統計の作成とその利用形態が社会的諸関係の中に位置づけられ,統計体系についてはそれを構成する種々の形態の統計がその作成過程を規定する社会的あるいは統計的技術的条件によってどのような特質を付与されるかが中心的研究テーマであった。このような研究が,統計体系の全体的構造解明へと向かうのは自然である。しかし,統計体系論的見地からの諸統計の特質さらには体系の全体的構造解明という研究課題に関しては,多くの部分が未開拓である。

森博美「届出統計調査」『統計法規と統計体系』法政大学出版,1991年

2017-04-25 21:39:30 | 11.日本の統計・統計学
 届出調査の法的根拠は,旧統計法第8条の指定統計調査以外の統計調査に関する届出義務規定を受け,政令第58号として昭和25年4月1日に制定された「届出を要する統計調査の範囲に関する政令」(以下,「政令」と略)である。この政令は,その運用規程である「統計調査届出手続規程」(昭和28年4月 行政管理庁告示第11号)とともに,旧統計法第8条の運用細則の性格をもつ。
「政令」は第1条で法の目的(届出を要する統計調査の範囲並びに届出の方法)を,第2条で法の適用範囲を,第3条で届出の方法(統計実施者に対する調査届出義務)を規定している。「政令」の核をなすのが第2条である。ここには,(1)調査実施主体,(2)調査目的,(3)調査区域,(4)調査内容が規定されている。

 「(1)調査実施主体」は2つのグループで構成され,第一グループは国,都道府県,指定都市,日本銀行,日本商工会議所である。第二グループは,指定都市以外の都市である。      

 「(2)調査目的」は,「集計し,かつ,製表することを目的として申告若しくは報告又は資料の提出を求める」場合,いずれの調査機関が実施する調査についても,全て届出の対象となる。統計作成以外の目的のための集計,製表もこの規定の適用を受ける。

 「(3)調査区域」は,第一グループに属する調査機関が実施する調査に関しては都道府県,指定都市,都特別区の存在する区域,あるいは2以上の都道府県にわたって実施されるもの全てが届出の対象となる。また,指定都市以外の市が実施する調査についても,その市域全体に関する調査の場合は届出が必要である。なお,調査の実施が区域の一部にとどまる場合は,原則として届出の対象外となる。都道府県や市の区域全体の状態に関する推計を目的とした部分区域調査については,届出が義務づけられている。

 「(4)調査内容」について,第一グループの調査期間が実施する調査はその内容にかかわらず,調査区域,調査目的が届出基準に合致する場合には届出の対象となる。第二グループに属する機関が実施する調査に関しては,次の7分野の調査に限り,その届出が義務づけられる。(1)土地,(2)人口,世帯,住宅,(3)物価,生計費,(4)公衆衛生,(5)雇用,失業,賃金,(6)商品の販売・仕入れ額,企業の資本額,(7)生産高,原料・動力燃料の消費,在庫量。

 「政令」第3条第3項には,届出手続き及び届出書の様式を定めることが規定され,政令の施行とともに「統計調査手続規程」が設けられた。
届出統計調査の年次別届出状況をみると,都道府県や市区町村といった地方公共団体が実施する調査が大半を占める。他方,国の機関ならびに日銀・公社等が実施する届出統計についてその新規届出の時期は,大部分が昭和50年以前のものである。
 筆者はさらに,政府の届出統計の特徴を,機関別実施状況,分野別実施状況,調査対象の属性,調査対象抽出方法,実施系統,実施の周期性について解説している。経済統計の中で日本の金融統計は,日銀が各金融機関に定期的に情報の提供をもとめ,その報告にもとづいて作成される届出統計に依存している。経済以外の分野では,指定統計,承認統計に比べ,教育,福祉,司法さらに郵便といった社会生活関連統計を比較的多く含む。調査対象としては,行政機関が最も多く,次いで事業所(学校を除く),地方公共団体の順である。個人,世帯を調査対象とする調査は,極めて少ない。調査対象の抽出方法では,全数を調査対象とするものが圧倒的大部分である。この点では全数調査の割合が約30%にとどまる承認統計と対照的である。

 調査の実施系統では,中央官庁が下部の行政機関,地方自治体から直接報告をもとめる場合や,中央と地方の間の業務遂行系統がそのまま調査系統となる場合が圧倒的に多い。このため,調査方法は郵送配集による自計式が採用される。実査が調査員を媒介しないのが普通である。調査の周期性では調査周期1年以下の調査が全体の79.5%に達している。承認統計も調査の周期性を特徴としていたが,調査周期1年以下の調査が48.9%であった。政府届出調査の定期性は承認統計より顕著である。

 以上を要約すると,「中央政府が作成する届出統計は,基本的に非経済行政機関が社会生活分野を主たる調査分野として主管官庁の(地方)下部組織に対して,自らの行政活動の結果あるいは活動を通じて把握した事柄について,郵送・自計により定期的に報告をもとめる調査」ということになる(284頁)。政府届出統計のこの性格は,そのなかで特異な地位をしめる日銀の金融統計にも該当する。筆者はこのことを含めて,政府届出統計を「組織内部統計」と特徴づけている。

浦田昌計「C. Th. Hermanの統計思想-その「統計批判」論を中心として-」『経済学会雑誌』第3巻第3・4号,1972年2月

2017-04-10 00:19:21 | 4-2.統計学史(大陸派)
 C.ヘルマン(1767-1837)は,シュレーツエルの下で学んだ国状派統計学者である。ドイツで生まれたが,ロシアで活動したので,ドイツの統計学史では取り上げられることはほとんどないが,ロシアの統計学者の間では高く評価されている。本稿は,ヘルマンがドイツ国状学派の統計思想をどのように継承発展させたかを,統計資料論と統計批判論に重点をおいて検討することを課題としている。

 筆者は最初に,ヘルマンの経歴を知りうる範囲で紹介している。1767年,ダンツィッヒで生まれ,1793年にロシアに移住し,後のロシアの大蔵大臣トゥリエフの家庭教師となる。その直前までにゲッチンゲン大学で「歴史,官房学,統計学」を学ぶ。ロシアに移住したその年に,陸軍第一幼年学校の「歴史,地理および統計学」の教師となる。1798年にアカデミー附属ギムナジウム(中学校)の校長に就任。1805年にペテルブルグ科学アカデミーの経済学および統計学の助手に任命される。1804年に「ロシア林業の歴史と現状」を執筆。1806年,高等師範学校の統計学教授に任命され,ロシア最初の「統計学雑誌」を創刊。1809年,『一般統計理論,この教科の教師のために』を発刊。1811年以降,ロシアの最初の統計機関となった警察省統計課(後の内務省統計課)の指導を委ねられる。1819年,高等師範学校がペテルブルグ大学に改組され,引き続き統計学の正教授。1818年以降,財政学も担当。1821年,ペテルブルグ四教授事件で告発され,大学から追放される。1827年に自由な活動を許され,1834年にアカデミーのの正教授として迎えられる。

 ヘルマンはシュレーツェルの影響を強く受け,統計学を政治的科学の一環として位置づけた。彼は統計学を狭義には顕著事項の記述としたが,広義には「ある一定の時期の国家の状態にかんする基礎的な知識」とした。国家の状態については,政府の状態と人民の状態とに区分し,後者を第一においた。ヘルマンはシュレーツェルのいわゆる「国家の基本力」(社会的経済的現象)の体系化を試みた。その背景にあったのは,シュレーツェルの啓蒙的国家観より進んだ市民的国家観,社会観である。また統計学の新しい段階をスミスに代表される政治経済学との結びつきにもとめたことは特筆できる。このような新しい統計学の課題にこたえる統計理論の中心的内容は,統計学=国状記述の指標体系の設定とそのための統計資料論(資料の批判的利用)であった。

 ヘルマンがシュレーツェルを継承して取り組んだのは,統計的認識の真実性の問題である。この点について論じたのが「ロシア統計のための材料,序説,統計的著作の効用および詳細な統計的情報に付随する困難について」(1806年),『一般統計理論』第4章「統計学の資料源泉について」(1809年)である。前者では,「下級警察行政機関の報告」を例に,その不完全さが指摘され,その原因の分析(書式の不完全性による回答の不完全性,写字生の誤読および下級職員の怠慢)が与えられている。ここではまた「統計批判」の実際的手順が予約列記されている。後者では諸種の統計的資料の真実性とその批判の問題が総括的に論じられている。『一般統計理論』第3章「統計学の典拠について」では,統計報告のイデオロギー的性格,下級官庁とその職員の故意あるいは怠慢にもとづく誤りとともに,被調査者の回答の不真実にもとづく誤差の問題,被調査者の利害の程度に言及している。
ヘルマンの統計学で扱われる資料は,その大部分が数量的資料であり,表式調査を中心とする政府調査の結果である。未整理な部分があるとはいえ,1806年と09年の論文によって,統計調査結果の吟味批判の主要な論点は提示されている。ヘルマンの「統計批判」論は,シュレーツェルから彼が学んだものであり,その本格的な展開であった。このことは,「統計批判」が国状学派統計学の共有財産となりつつあったことの証左である。同時にヘルマンはその厳しい統計批判論をもちながら,統計に対する懐疑論,否定論に一貫して反対した。筆者は最後に次のように述べている。「われわれはこのヘルマンの楽観的な言明が,単なる主張ではなく,彼のロシアにおける現実の統計的資料にもとづく諸研究によって裏づけられていることを見なければならない。そしてまた,これらの研究がロシアにおける「国家の状態」,「諸階級にあいだの関係」の解明をその究極の主題とし,結局,統計学がそれを通じてロシアの農奴制社会の矛盾とその改革の必要をあきらかにしうることに彼がはっきりと確信をもっていたことと無縁ではないであろう。この統計的研究を支えるものが,彼にあっては,スミスに代表される新しい社会科学をふまえた統計理論そして「統計批判」であった」(136頁)。