全体主義は左翼から生まれる
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」377/通算808 どう生きる? 2025/令和7年3/27 木曜」 塩野七生先生の「サイレント・マイノリティ」(1985年、新潮文庫)から「全体主義について」の項を紹介する。長いのでキモをだけを整理し書き写しているが、それでも長くなってしまった。まあ勉強にはなるが・・・腰痛ヂヂイにはしんどかった。転んでもただでは起きぬ・・・そのうちパクリや痛みに効く良い方法を研究してみよう(セコイ!?)。以下、本文。
・・・・・・・・・・・・・・
◎:▼ 「全体主義」を辞書はこう解説している。《一つの政治上のドクトリンであると同時に、国家にあらゆることが吸収され、従属されることを第一義の目的とした体制を示す言葉でもある。全体主義政府は、国民に自由な政治上の活動を許さないだけでなく、経済から文化に至るあらゆる活動が独裁的な組織のもとに統合されることを何よりも目指す。全体主義とは自由主義とは反対の極に立ち、しばしば国家主義的であり、外国の強い勢力からの保護者として自ら認じ示す傾向を持つ》
我らが国日本が現在(1985年)全体主義の危険にさらされているとは私も思わない。だが(国民が)危険にさらされている(我が国は大丈夫なのか)と感じ始めた時はもう手遅れなのが全体主義の真の危険なところではないか。
全体主義的動向が台頭してくるのは「悪意」からであろうか? ノー、常に「善意」の所産である。「右翼」からであろうか? ノー、常に「左翼」と認ずる方向からである。旧世代の絶望から産まれるのだろうか? またも答えはノー。常に「新世代の希望」を発端にして生まれる。
有産階級がイニシアティーブをとる? ノー。無産階級とまではいかなくても、失うものをあまり持たない階級が常に温床になってきた。それは冷徹な計算から生まれるのか? ノー。常に情緒連綿たる心情が特色である。
全体主義は軍事的強制力がなければ実現しないのか? これは半分ノー。全体主義政体の無視できないいくつかの例を見ると、「人々の完全なコンセンサス(同意)」によって実現している。完全とまでいかないが、ほぼすべての人が多かれ少なかれ政府を支持している。
それは精神の腐敗によるのではないか? 答えはノー。彼らは概ね清潔、クリーンを好む潔白な人々で、彼らが主導力になって全体主義を進めてきたのだ。
私が全体主義や全体主義的動向を嫌うのは、確固とした信念があってのことではない。「人間性の自然に反する」と思うからである。何か一色で全部を塗りつぶすのは、種々様々なのが特色の人間性に対してムリ、不自然で、遅かれ早かれギクシャクしてくる。そのギクシャクを直そうとしてまた無理をするから制度としては非効率で、息が詰まりそうな、馬鹿げていて滑稽で、やりきれない気分にされる。
全体主義やファシズムは所持全般にわたってこのようなものであるが、悪人であっても能力のあるものに支配されるのならば我慢もするが、善人であってもアホに支配され、一色に塗りつぶされるというのは考えるだけでも肌に泡が立つ。
全体主義的な空気を頭脳の形成期間に吸ってしまった人は、一生自らの頭で自由に判断する能力を持てなくなってしまうことは問題だ。マキアヴェッリ曰く「自由なき政体下で生きてきた人は、たとえ自由を与えられてもそれを活用する術を知らない」と言っている。
(戦後のイタリアではファシズムが流行したが)ソ連の戦車がハンガリーに侵入して多くの西欧の良心的な共産党員や共産主義のシンパを失望させ離脱されていった。私は失望することの方がオカシイと感じた。人間的な共産主義(社会主義)なんてありえようはずがないのである。スターリンの方がよほど首尾一貫している。
バカなのはそういう社会が実現可能だと信じていた゛良心的なインテリ”たちである。私が(中露北のような)「真の共産主義者」なら、自称「良心的なインテリ」人間は社会に害毒を及ぼす人種と断じ、粛清でも何でもして消してしまったであろう。政治的センスのない「良心的な人々」が政治に口を出すことほど害なものはない。
ここ最近の某国の論壇動向を私は「論壇の私小説化」と見るが、間違っているであろうか。論理を駆使するはずなのに「私的」とか「私の」とかを頭につけた表題が多過ぎる。共通の論壇で戦うことを初めから拒絶しているようで、文壇ならいざしらず、「論壇人間」の取るべき態度とは思われない。
相対的な考え方を排して絶対的ななにものかを求める――気持ちはわからないでもないが、実に強靭な精神力を必要とするから、多くの人にそれを求めることほど非現実的なことはない。マジョリティはそれ一つですべてを律しきれるオールマイティでラクな考えを持つ方を好むのが゛自然”である。「論壇の私小説化」は進歩派の善意から言い出され、(共鳴した)若者が旗を持ち、少産階級が温床となり、クリーンで潔白で完全主義の人々が群れの先頭に立ち、しかもアジテーションを始めると、私は怖ろしいことになる危険を感じずにはいられない。それを強く強調すればするほど大衆の支持を得られ、やがて「サイレント・マジョリティ」と結びついた後は、全体主義は動向から完結への道を邁進するだけである。
コンセンサスをヒットラーもムッソリーニも大いに享受していた時期があった。しかし、文化は全体主義下では花開かないのである。それは他の分野でも同様で、文化史上の問題だけではないのだ。(以上)
・・・・・・・・・・・・・
ここで終わりにしようと思っていたら、石平氏が「今ここにある日本の国難」を上梓(ビジネス社、2025年3月17日)、購入するつもりでチェックしたら「試し読みができる」というので以下転載する。
《トランプに手も足も出ない習近平にどこまで媚びるのか 中国と密約を交わした国賊「石破政権」は退場せよ! 山上信吾前駐豪大使との対談収録! 日本人よ、「媚中」石破売国政権に怒りの一撃を! 日本外交の根深い病巣を白日の下にさらす! 石平・著『今ここにある日本の国難』より「はじめに」を全文公開いたします。以下本文
・・・・・・・・・・・・・・
◎:▼はじめに:権力闘争できしむ習近平政権の瓦解 かねてより筆者は、2022年10月の党大会で中国の習近平主席とその側近グループが共産党最高指導部を独占することにより、習近平独裁体制が真に成立したと記してきた。ところがいまになって体制の中枢部において、習近平主席とナンバー2の李強首相との深刻な軋轢(あつれき)が生じている。
事の発端は2023年の10月、習主席が国家主席として初めて中国人民銀行(中央銀行)を訪問して現場指導を行なったことであった。その訪問に、李首相が随行も立ち会いもしていなかったことは大いに注目された。
本来、中央銀行はまさに首相の“直接所管(経済分野)”である。国家主席が首相の頭越しに人民銀行を訪問するのはまずは異例なこと。その訪問に首相が立ち会っていないのはなおさら異例なことであった。
どうやら習主席が金融危機の管理に対する李首相の仕事ぶりに不満を持ち、自ら現場指導に乗り出したのではないかとの観測が広がった。理由がどうであれ異例づくしの中央銀行訪問は、主席と側近の李首相との間に不協和音がすでに生じてきていたことを意味する。
その後、習主席が李首相抜きの重要会議を主宰することは度々あったが、昨年2024年5月にはとうとう習主席主宰の中央政治局会議が、れっきとした政治局常務委員である李首相”抜き”で開催されるという前代未聞の事態が生じた。
しかも当該政治局会議の討議テーマが「中部地方崛起(くっき)促進の政策措置」と「金融リスクを防止するための責任制度に関する規定」であった。それは本来、経済所管トップの李首相こそが出席しなければならない会議なのだ。
ここまで来たら、習主席による李首相排除はもはや明々白々の事実となっていたわけだが、対する李首相のほうも黙ってはいなかった。昨年7月あたりから“猛反撃”に出た。
2024年7月19日、その前日に閉幕した共産党三中総会の結果を受け、国務院、全人代常務委員会、政治協商会議、そして党の中央規律検査委員会という四つの最高機関はそれぞれ、「三中総会の精神を学習する」会議を開いた。
この四つの学習会のうち、全人代・政治協商会議・中央規律検査委員会の三つは一様に、「習近平総書記の指導的地位の確立と習近平思想の指導理念としての確立(二つの確立)」を訴え、指導者に対する擁護と忠誠を表明した。
唯一、李首相主宰の国務院会議は「二つの確立」に対する言及は皆無で、他の三機関との鮮明な“違い”を見せた。中国の政治文化のなかでは、それはまさに李首相による「習近平離反」の挙動として理解された。
そして昨年8月4日、李首相主宰の国務院会議は「消費・サービス業の発展促進に関する意見書」を公布。そのなかで「学習支援産業の発展促進」をサービス業促進の具体策として打ち出した。
しかしながら中国国内では2021年7月、他ならぬ習主席の意向を受けて事実上の「学習塾禁止令」が敷かれていた。したがって李首相主導の「学習支援産業の発展促進」は誰からみても、習近平政策からの180度の転換で、独裁者の習主席に対する事実上の〝造反”であるとみなされた。
こうして現在の政権の中枢部では、最高指導者の習主席と党内序列2位の李首相との軋轢が拡大、すでに顕在化しているわけである。中国共産党政権史上、政権のナンバー1とナンバー2との間の軋轢ないし権力闘争は付き物だ。ときには大きな政治動乱を生むこともあった。
例えば毛沢東時代、毛沢東はナンバー2の劉少奇とその一派を打倒するために「文化大革命」という名の“紅衛兵運動”を発動した。そして劉少奇に取って代わってナンバー2となった林彪元帥は、毛沢東に対するクーデターに失敗し、非業の死を遂げた。
すでに始まった習主席と李首相との対立は今後どういう結果を生むのだろうか。なお本書はユーチューブ「石平の週刊ニュース解説」をベースに、最新の現地情報や国際情勢の変化、ユーチューブ送信時には気付かなかった視点を加味し、大幅に加筆したものである。皆さんの参考になれば幸甚です。2025年2月 石平》以上
・・・・・・・・・・・・・・
中共中枢の内紛・・・゛建国の父”毛沢東と並ぶ”発展の父”を目指す習近平は、軍事力でアジア太平洋を共産主義化したい。一方で李強は経済発展(資本主義化?)を重視している。
私利私欲の中共軍は習近平に付くか、李強に付くか、「上に政策あれば下に対策あり」で今のところは様子見のようだ。カネは欲しい、命は惜しい・・・先行きの情勢は不透明で、しばらくはどっちつかずの゛平和”が続くのかも知れない。それにしても「良い鉄は釘にならない」と伝統的に軍人をバカにし、ベトナム軍のゲリラ戦に翻弄されて勝てなかった中共軍は、実戦経験の蓄積や実体験がほとんどないだろう。習近平のアジア太平洋制覇は夢のまた夢に終わるのではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」377/通算808 どう生きる? 2025/令和7年3/27 木曜」 塩野七生先生の「サイレント・マイノリティ」(1985年、新潮文庫)から「全体主義について」の項を紹介する。長いのでキモをだけを整理し書き写しているが、それでも長くなってしまった。まあ勉強にはなるが・・・腰痛ヂヂイにはしんどかった。転んでもただでは起きぬ・・・そのうちパクリや痛みに効く良い方法を研究してみよう(セコイ!?)。以下、本文。
・・・・・・・・・・・・・・
◎:▼ 「全体主義」を辞書はこう解説している。《一つの政治上のドクトリンであると同時に、国家にあらゆることが吸収され、従属されることを第一義の目的とした体制を示す言葉でもある。全体主義政府は、国民に自由な政治上の活動を許さないだけでなく、経済から文化に至るあらゆる活動が独裁的な組織のもとに統合されることを何よりも目指す。全体主義とは自由主義とは反対の極に立ち、しばしば国家主義的であり、外国の強い勢力からの保護者として自ら認じ示す傾向を持つ》
我らが国日本が現在(1985年)全体主義の危険にさらされているとは私も思わない。だが(国民が)危険にさらされている(我が国は大丈夫なのか)と感じ始めた時はもう手遅れなのが全体主義の真の危険なところではないか。
全体主義的動向が台頭してくるのは「悪意」からであろうか? ノー、常に「善意」の所産である。「右翼」からであろうか? ノー、常に「左翼」と認ずる方向からである。旧世代の絶望から産まれるのだろうか? またも答えはノー。常に「新世代の希望」を発端にして生まれる。
有産階級がイニシアティーブをとる? ノー。無産階級とまではいかなくても、失うものをあまり持たない階級が常に温床になってきた。それは冷徹な計算から生まれるのか? ノー。常に情緒連綿たる心情が特色である。
全体主義は軍事的強制力がなければ実現しないのか? これは半分ノー。全体主義政体の無視できないいくつかの例を見ると、「人々の完全なコンセンサス(同意)」によって実現している。完全とまでいかないが、ほぼすべての人が多かれ少なかれ政府を支持している。
それは精神の腐敗によるのではないか? 答えはノー。彼らは概ね清潔、クリーンを好む潔白な人々で、彼らが主導力になって全体主義を進めてきたのだ。
私が全体主義や全体主義的動向を嫌うのは、確固とした信念があってのことではない。「人間性の自然に反する」と思うからである。何か一色で全部を塗りつぶすのは、種々様々なのが特色の人間性に対してムリ、不自然で、遅かれ早かれギクシャクしてくる。そのギクシャクを直そうとしてまた無理をするから制度としては非効率で、息が詰まりそうな、馬鹿げていて滑稽で、やりきれない気分にされる。
全体主義やファシズムは所持全般にわたってこのようなものであるが、悪人であっても能力のあるものに支配されるのならば我慢もするが、善人であってもアホに支配され、一色に塗りつぶされるというのは考えるだけでも肌に泡が立つ。
全体主義的な空気を頭脳の形成期間に吸ってしまった人は、一生自らの頭で自由に判断する能力を持てなくなってしまうことは問題だ。マキアヴェッリ曰く「自由なき政体下で生きてきた人は、たとえ自由を与えられてもそれを活用する術を知らない」と言っている。
(戦後のイタリアではファシズムが流行したが)ソ連の戦車がハンガリーに侵入して多くの西欧の良心的な共産党員や共産主義のシンパを失望させ離脱されていった。私は失望することの方がオカシイと感じた。人間的な共産主義(社会主義)なんてありえようはずがないのである。スターリンの方がよほど首尾一貫している。
バカなのはそういう社会が実現可能だと信じていた゛良心的なインテリ”たちである。私が(中露北のような)「真の共産主義者」なら、自称「良心的なインテリ」人間は社会に害毒を及ぼす人種と断じ、粛清でも何でもして消してしまったであろう。政治的センスのない「良心的な人々」が政治に口を出すことほど害なものはない。
ここ最近の某国の論壇動向を私は「論壇の私小説化」と見るが、間違っているであろうか。論理を駆使するはずなのに「私的」とか「私の」とかを頭につけた表題が多過ぎる。共通の論壇で戦うことを初めから拒絶しているようで、文壇ならいざしらず、「論壇人間」の取るべき態度とは思われない。
相対的な考え方を排して絶対的ななにものかを求める――気持ちはわからないでもないが、実に強靭な精神力を必要とするから、多くの人にそれを求めることほど非現実的なことはない。マジョリティはそれ一つですべてを律しきれるオールマイティでラクな考えを持つ方を好むのが゛自然”である。「論壇の私小説化」は進歩派の善意から言い出され、(共鳴した)若者が旗を持ち、少産階級が温床となり、クリーンで潔白で完全主義の人々が群れの先頭に立ち、しかもアジテーションを始めると、私は怖ろしいことになる危険を感じずにはいられない。それを強く強調すればするほど大衆の支持を得られ、やがて「サイレント・マジョリティ」と結びついた後は、全体主義は動向から完結への道を邁進するだけである。
コンセンサスをヒットラーもムッソリーニも大いに享受していた時期があった。しかし、文化は全体主義下では花開かないのである。それは他の分野でも同様で、文化史上の問題だけではないのだ。(以上)
・・・・・・・・・・・・・
ここで終わりにしようと思っていたら、石平氏が「今ここにある日本の国難」を上梓(ビジネス社、2025年3月17日)、購入するつもりでチェックしたら「試し読みができる」というので以下転載する。
《トランプに手も足も出ない習近平にどこまで媚びるのか 中国と密約を交わした国賊「石破政権」は退場せよ! 山上信吾前駐豪大使との対談収録! 日本人よ、「媚中」石破売国政権に怒りの一撃を! 日本外交の根深い病巣を白日の下にさらす! 石平・著『今ここにある日本の国難』より「はじめに」を全文公開いたします。以下本文
・・・・・・・・・・・・・・
◎:▼はじめに:権力闘争できしむ習近平政権の瓦解 かねてより筆者は、2022年10月の党大会で中国の習近平主席とその側近グループが共産党最高指導部を独占することにより、習近平独裁体制が真に成立したと記してきた。ところがいまになって体制の中枢部において、習近平主席とナンバー2の李強首相との深刻な軋轢(あつれき)が生じている。
事の発端は2023年の10月、習主席が国家主席として初めて中国人民銀行(中央銀行)を訪問して現場指導を行なったことであった。その訪問に、李首相が随行も立ち会いもしていなかったことは大いに注目された。
本来、中央銀行はまさに首相の“直接所管(経済分野)”である。国家主席が首相の頭越しに人民銀行を訪問するのはまずは異例なこと。その訪問に首相が立ち会っていないのはなおさら異例なことであった。
どうやら習主席が金融危機の管理に対する李首相の仕事ぶりに不満を持ち、自ら現場指導に乗り出したのではないかとの観測が広がった。理由がどうであれ異例づくしの中央銀行訪問は、主席と側近の李首相との間に不協和音がすでに生じてきていたことを意味する。
その後、習主席が李首相抜きの重要会議を主宰することは度々あったが、昨年2024年5月にはとうとう習主席主宰の中央政治局会議が、れっきとした政治局常務委員である李首相”抜き”で開催されるという前代未聞の事態が生じた。
しかも当該政治局会議の討議テーマが「中部地方崛起(くっき)促進の政策措置」と「金融リスクを防止するための責任制度に関する規定」であった。それは本来、経済所管トップの李首相こそが出席しなければならない会議なのだ。
ここまで来たら、習主席による李首相排除はもはや明々白々の事実となっていたわけだが、対する李首相のほうも黙ってはいなかった。昨年7月あたりから“猛反撃”に出た。
2024年7月19日、その前日に閉幕した共産党三中総会の結果を受け、国務院、全人代常務委員会、政治協商会議、そして党の中央規律検査委員会という四つの最高機関はそれぞれ、「三中総会の精神を学習する」会議を開いた。
この四つの学習会のうち、全人代・政治協商会議・中央規律検査委員会の三つは一様に、「習近平総書記の指導的地位の確立と習近平思想の指導理念としての確立(二つの確立)」を訴え、指導者に対する擁護と忠誠を表明した。
唯一、李首相主宰の国務院会議は「二つの確立」に対する言及は皆無で、他の三機関との鮮明な“違い”を見せた。中国の政治文化のなかでは、それはまさに李首相による「習近平離反」の挙動として理解された。
そして昨年8月4日、李首相主宰の国務院会議は「消費・サービス業の発展促進に関する意見書」を公布。そのなかで「学習支援産業の発展促進」をサービス業促進の具体策として打ち出した。
しかしながら中国国内では2021年7月、他ならぬ習主席の意向を受けて事実上の「学習塾禁止令」が敷かれていた。したがって李首相主導の「学習支援産業の発展促進」は誰からみても、習近平政策からの180度の転換で、独裁者の習主席に対する事実上の〝造反”であるとみなされた。
こうして現在の政権の中枢部では、最高指導者の習主席と党内序列2位の李首相との軋轢が拡大、すでに顕在化しているわけである。中国共産党政権史上、政権のナンバー1とナンバー2との間の軋轢ないし権力闘争は付き物だ。ときには大きな政治動乱を生むこともあった。
例えば毛沢東時代、毛沢東はナンバー2の劉少奇とその一派を打倒するために「文化大革命」という名の“紅衛兵運動”を発動した。そして劉少奇に取って代わってナンバー2となった林彪元帥は、毛沢東に対するクーデターに失敗し、非業の死を遂げた。
すでに始まった習主席と李首相との対立は今後どういう結果を生むのだろうか。なお本書はユーチューブ「石平の週刊ニュース解説」をベースに、最新の現地情報や国際情勢の変化、ユーチューブ送信時には気付かなかった視点を加味し、大幅に加筆したものである。皆さんの参考になれば幸甚です。2025年2月 石平》以上
・・・・・・・・・・・・・・
中共中枢の内紛・・・゛建国の父”毛沢東と並ぶ”発展の父”を目指す習近平は、軍事力でアジア太平洋を共産主義化したい。一方で李強は経済発展(資本主義化?)を重視している。
私利私欲の中共軍は習近平に付くか、李強に付くか、「上に政策あれば下に対策あり」で今のところは様子見のようだ。カネは欲しい、命は惜しい・・・先行きの情勢は不透明で、しばらくはどっちつかずの゛平和”が続くのかも知れない。それにしても「良い鉄は釘にならない」と伝統的に軍人をバカにし、ベトナム軍のゲリラ戦に翻弄されて勝てなかった中共軍は、実戦経験の蓄積や実体験がほとんどないだろう。習近平のアジア太平洋制覇は夢のまた夢に終わるのではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます