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まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

真面目な方は要注意の中国での仕事

2018-03-14 21:10:21 | 中国生活
今月は昨年12月同様にかなり忙しい。
今の仕事を続けることができるのは中国という国で仕事をしていたからに違いない。
(と、記せば中国の方が気を悪くするかもしれないが・・・。)

中国での日本語教師生活。
なんと言ってもある時急な変化が発生する。
決まった時点で教えてくれればまだ良い。
だが教えてはくれない。

それでも教えてくれるのならば、まだ良い!

朝出勤して異変に気づき、連絡を取ったときにやっとわかることもある・・・。

個人としては「計画はとても大切だと思っている」。
もちろん計画が計画通り進むことはない。
それでも計画があるからこそ、照らし合わせて良し悪しを判断することができるのである。

しかーし! 計画にとらわれ過ぎていては中国で生活などできない!
精神異常を起こし、体のあちらこちらが悪くなることは間違いない。

であるから、計画や約束などまともに考えていてはやってはいけない。
約束などその時点での話。
時間が過ぎて状況が変われば、約束など約束ではない。

中国で仕事をしていくにはかなりの柔軟さが必要なのである。

さらに日本でも同じことなのだが、おいしい話にはご用心。
「オマエ何様だ!」と言われるかもしれないのだが、「騙されるほうが悪い」のである。


この記事は本来ほかのブログに記すつもりであった。
だが私のブログの中で一番影響力があるこちらに記すことにした。
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必殺仕事人に支えられた尖閣問題勃発後の私

2018-01-07 18:58:17 | 中国生活
2012年の夏の一時帰国。
中国に戻る前には尖閣問題が発生していた。
せっかく日本で新しいパソコンを手に入れて中国の住み慣れた部屋に戻れば、テレビが故障。
続いて冷蔵庫さん故障。
冷蔵庫は必需品であるため、学生にお願いして村の修理店に運んでもらった。
私は普段できるだけ日本語の学生や中国人同僚にお願いせずに、出来る限りのことは自分で解決していたのだが、こればかりは時期が悪かった・・・。
やっと少し安心したかと思えば、二槽式洗濯機の脱水槽が故障・・・。

テレビと脱水機を買ったのは尖閣問題が落ち着いてきた後であった。
それでもまだそのときは日本人が1人で近くの繁華街の電気屋で注文し、村のアパートに届けてもらうにはドキドキしないわけがない時期であった。

だいたい公安から学校に連絡が入り、「9月18日前後には村のアパートには絶対にいないようにしてくれ」(つまり学内の寮にいてくれ)という要請があったわけであるし、以降の私は10月の終わりぐらいまでは学校に行くときには必ずパスポートと日本の財布、パソコンバッグを持ち、さらには手に護身用の折り畳み傘を握っていたぐらいの緊迫状態であった。

同じ市内にいた日本人でもまったく平気で生活していた方もいたのだが、だいたい住んでいる場所が違うのである。
昔は外国人が多かった村(特に日本人)も2010年秋からは私一人であったのだし、村の主だった店は私が日本人であることは重々承知であった。
いつも行く店でも変わらない笑顔で迎えてくださったところもあれば、明らかに「今来られると困る・・・」的な顔の若女将さんがいた店もあった。

実際に村でも市で最大の繁華街でも危険な目にも遭っている。

そんなせいもあったのであろう。
私は11月にある病気になった。
下手に病院にも行けないこともあり、完治までに1年近くかかった。

その12月に私は日本本格帰国の最終期限日を決めた。
そしてその正月からは「いつ日本に帰ることになっても良いように、中国生活を満喫しておこう!」との決意、さらには健康管理のために(今まで以上に)あちこちバスと歩きで出回るようになった。

ちょうどその頃、新しいパソコンで『必殺仕事人』の2007年~2009年を見ていた。
8月16日に中国に戻って来てからは中国や韓国のドラマをよく見ていたが、やはり多少中国生活に疲れたこともあり、日本のドラマも見るようになっていたのであった。

中国の田舎をてくてく歩くと頭の中で流れるのは経師屋と仕立て屋の仕事の音楽。
特に後者はお気に入りであった。
(これが街中やマカオ、香港だと流れないのも不思議であった。)

また渡辺小五郎の仕事の時の目の鋭さもお気に入りである。

もちろんジャニーズの仕事人も最初からすべてが様になっていたわけではない。
だが何事もどんどんと次世代につなげてゆくようにしなければならないのである。
(中村主水役の藤田まこと氏のご冥福を心から祈っている。)

それが証拠に脇を固める悪人も大物たちがつとめているではないか。


話を元に戻す・・・。
今晩の必殺仕事人、とても楽しみにしている。
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異国行きと日本本格帰国の片道切符

2017-12-14 22:36:17 | 中国生活
2005年晩秋のある金曜日。
セントレアから片道航空券で広州白雲空港に降り立った。

2014年夏のある金曜日。
広州白雲空港から上海浦東空港経由の片道航空券で23時過ぎにセントレアに降り立った。

実際赴任の時は往復にして、戻りを捨てればかなり安くなったに違いない。
だがそれをしなかったのは甘えを断ち切るため。

雨宮塔子さんの『金曜日のパリ』ではないが、片道切符でなければいけなかったのである。

私にとって様々なものを捨てて、異国生活をするにはそれぐらいの決意が必要であった。

もちろん人それぞれ考え方は違う。
当然明らかに劣悪な労働環境である場合は遠慮なく立ち去るべきであろう。

ただ私にとっては旅行で中国の様々な地域に行っていたわけであり、人が思うほど田舎だとは思わなかった。
おまけに私にとって「教えるという仕事」はとても楽しかった。
楽しいといっても、大変なのであるが、私には一番似合っているように思える。

一年で帰国するはずが、高校生ぐらいの年齢の2つのクラス・・それはのちに合併した・・を捨てて帰国するわけにはいかなかった。

そんなこんなの繰り返しで、8年9か月近く広東省の2つの都市で日本語を教えた。

最後に7年いた都市はそれなりにおしゃれな都会であり、さらには多くを郊外で住んでいた私にとって田舎の良さもあった。

ただ人間には必ず「合うこと」と「合わないこと」があると私は自分勝手に思っている。
私には「合った」ということ。


赴任した夜に知ったこと。
それはある意味契約違反。
(部屋とインターネット)
ただ1か月我慢すれば最初の約束通りの部屋とネット環境が手に入るわけであるし、様々なことを捨てて赴任した以上、簡単には帰国できない。

最初の1か月は中国人同僚の部屋に間借りをした。
それはそれでけっこう楽しかった。
ただそれまでの旅行でも経験していたのだが、私にとって「シャワーとトイレの場所が一緒であること」は耐えられなかった。
最初の晩は泣きたくなった。
それでも段々と慣れていき、1か月後に約束通りの宿舎に入ったときには(少しは抵抗が残ってはいたが)慣れてしまっていた。


私は行動計画を勉強して、さまざまな願いを手にしていったのだが、人間は習慣で生きているということは知っていたほうが良いと思っている。
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あまり計画にとらわれると、ノイローゼになりますよ【中国生活】

2017-10-05 22:10:20 | 中国生活
昨日2017年10月4日は旧暦8月15日であり、中秋節であった。
(実際の月齢では本日5日が14.9日であり、本日から明日にかけてが本当の真ん丸お月さんであると思う。)

旧暦というか農暦というかは中国に渡る前からけっこう把握していた。
だが中国に行ってからは常にそれを意識するようになった。

それは季節の行事だけでなく、人の誕生日にも当てはまる。
誕生日が太陽暦の方も農暦の方もいるわけで・・・。

いくら身分証明証の誕生日が来ても、実はもっと後が本当の誕生日である方は多い。
そしてその算出も単に本年の農暦の日付であるとは限らない・・・。

中国の方が外国で誕生日を祝ってもらったとする。
実はそれは農暦であり、実際の誕生日は違うのだが、申し訳なくて言い出せない場合もある。

確か中国も本来届出は新暦(太陽暦)のはずであったと思う。
しかしいまだに農暦の方もいらっしゃることからも、農暦を大事にしていることがよくわかる。

よく学生に質問されたこと。
「どうして日本は急速に発展できたのか」

私はその問いの答えのひとつに「ほとんどすべての生活において太陽暦を用いているからであるかもしれない」とのたまうことがあった。

もちろんそれはあくまで持論であることは伝えてある。
ただけっこう正しいのかもしれない。

それは計画を立てやすいので。
毎年正月の日が違うと、長期計画が立てづらくなる。

どこで休みがあるのかわからないので。
もちろん計算はできる。
しかし前年の終わり頃に翌年の休みのスケジュールが発表されのである。
中小企業であると直前になって休みが決まる場合もある。
もちろん日本語学校も・・・。

中国の場合、長期休暇の前後には出勤日の調整がある。
例えば、休みは長いがその前の土日が出勤日となったりすることもある。
そして休みが明けた後に7日以上連続出勤ということもある。

早くからそれがわかっていれば良いのだが、直前に言われると帰省も困難になる。
だいたい切符が取れない・・・。

もちろん我々外国人も同じ。
大手企業ならともかくとして、中小企業の現地採用の場合は・・・。

教えた卒業生が連休中に優雅な海外旅行を行っているのに、我々は近場をうろうろして連休が終わることなど珍しくもない。

極端な話、そんな生活を送っていた。
そうなると、それまで行動計画により様々なものを手に入れてきた私であっても「(予定などすぐに変わるから)臨機応変の行き当たりばったり」を選択するようになってしまったのであった。

計画が変わったので、ほとんど徹夜で授業準備をした。
翌朝事務所で「それは無駄な努力であった」ことを知ったことがあった。
前日夕方に変わったのならば、電話で教えてくれればよさそうなものだが、そうではない。

まあ、その日は行き当たりばったりの授業を行い、逆に成功しているのだから、中国で生活をしていると、とっさのことに強くなるわけである。

前日に変わったのに、翌日の授業直前まで何も知らないことは多かった。
例えばすでに学生は帰省していたり・・・。
例えば授業時間の変更が知らない間に元に戻っていたとか・・・。

だがそんな中国も確実に変わってきている。

アバウトなのは街中の日本語学校だけであったりして。
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大きな罪・・・

2017-10-01 01:22:33 | 中国生活
日本に帰国したのが2014年の7月下旬。
中古車を手に入れたのが9月中旬。

以降月に一度父母の定期通院に連れて行っている。
(帰国の5か月ほど前の一時帰国時は当時まだ残してあった父親の車で連れて行っている。)
それまでは市内に住む妹がやってくれていた。

両親が病院に行くのはたいてい月末に近い土曜日。
であるので、私はそれに合わせて土曜休みを取る。
(昨年は完全週休2日の仕事であったので問題はなかったのだが)やはり土曜日に休みたいのは私だけではないので、時々土曜日というわけにはいかない場合もある。
8月も仕方なく(本来は自分の担当していたある仕事の期限日であった)月曜日に休んでいる。

実は私も月に一度は内科に通っており、たいてい第2土曜日に休みを取っている。

これも時々土曜日というわけにはいかない場合もある。
ただ、数か月に一度は他の科の診察も受けているため、土曜日ではないことがありがたい場合もある。

問題は両親のほう。
両親の場合は月曜などの平日よりは土曜日が望ましいのである。

私がお金を稼げる職種から離れたのは、自分の身体のためだけではなく、両親の病院通いや実家の買い物等のために休みを取りやすくするためでもあった。

まあ本日の月末の土曜日は休みを確保できたのでよかった。
10月は両親のほうも自分のほうもしっかりと土曜日を確保してはある。


さて本日両親を病院で降ろしたあと、近くのコンビニにコーヒーを買いに行った。
今まで使っていたサンクスはファミリーマートに変わらずに店をたたんだ。
そのため、少し離れたファミリーマートに行くようになったのだが、そんなことをするのならば、自宅近くのファミリーマートに戻ったほうが良くなることに気づいた・・・。

そこで本日はまったく違う方向にある7-11を利用した。
そこに車を走らせているときに遠くに見えた八端十字で2014年春節時の一時帰国を思い出した。

そんなところに八端十字があることを初めて知ったのが2014年2月。
ずっと住んでいた地元なのに・・・。
もちろん十字架があることは知っていたけれども。

もっともカトリックとプロテスタント以外のキリスト教に詳しくなったのは中国に行ってからであるので仕方がない。

時にお寺の門や神社の鳥居もそうなのだが、特に十字架というのは人の心を落ち着かせる。
何か不安や心配事があるときなど、効果覿面。


さて長々と引っ張ってここからが本題・・・。
私の罪とは何であろうか。

人間は知らず知らずに罪を犯す。
当然知っていていながら犯す罪もある。

1年で帰ると言いながら、結果9年近くも両親をほかっていたことも罪といえば罪。
2010年夏に父親がとても大きな病気をしている。
当時私は学校移動の都合及び金銭的な問題もあり、帰るに帰れなかった。

その学校移動に伴って、泣く泣くあるクラスを捨てている。
学校が進路変更をすることになった。
私の待遇がとても悪くはなるのだが、そのクラスだけは最後まで教えようと思った。
元々そのクラスを最後まで教えてから、本格帰国をするつもりであったので。
だが、結果は最後のたったひとりの日本人教師の私まで契約満期という名のクビ。
もっとも最後の最後まで学生たちを救おうと努力はした。

だが何事も最終判断は本人が行うもの。
下手に私が情けで良く知っている違う学校に送り込んだとしても、何かが発生すれば私が嘘つきになってしまう。
つまり私が学生の人生を狂わせることを避けたのであった。

その1年数か月前にはやはりあるクラスを上級まで教えずに移動している。
このときも本当に仕方がなかった。
ただ早く移動しないと危ないのに、私は責任感からそのクラスの中級の授業を終わらせてから移動した。

2008年は中国での新規のビザ発給がとても厳しかった。
これを読んでいらっしゃる方の中にも経験された方がいらっしゃるに違いない。

街中の外国語学校での新規ビザ取得も難しくなった。
さらには多くの都市の街中の外国語学校の外国人教師にも外国人就業許可証ではなく、外国人専家証取得によるビザ取得が義務付けられた。
そうなると今までその学校で働いていた教師でさえも、ビザが取れないということも発生していた。

私は危険な年だとわかっているのに、仕方なく学校を移動した。
もちろん間違いなくビザが取れるというので移動したのだが・・・。

ではどうしたのか。
そう、今では決して行うことができないギリギリのグレーゾーンで仕事をしていた。
しつこいようだがグレーというのは潔白ではないという証拠である。

一度日本に戻ったり、外国に出たりして商用ビザを取ってくる方もいれば、2週間に一度香港やマカオ、または外国に出て戻ってくるという行為をした方は多かったに違いない。
【今はそんなことは通用しません。】

私たちの場合も日本語学校で教えているということで、仕方なく見逃していてくださっていたのだと思う。
だがついに一度中国本土を出たら、二度と入境できないであろうことを聞かされた。
私だけ・・・。

当時私は学外に住んでいた。
だが労働ビザではないため、アパートの大家さんに迷惑をかけるといけないので、警察への外国人の登録住所は学校においたままであった。

(もちろん私もビザが取れたら住所を移動するつもりでいた。
警察も何度か「登録しなさいよ」と言っていたらしい。)

だが、たまたま警察が学校に確認に来た時に外国人の中で私だけ存在が確認できなかったとか・・・。

[ちなみに外国人は常に監視されている。
同じ都市でも郊外は(以降背後に注意していた私の観察によると)ビザ更新の前後程度と2012年の尖閣問題の時ぐらいであったが、街中は絶対のこと。]

実はすでにその前に退職願を出して認められており、1日休んで学校移動のための健康診断に行き、さらにはその足でマカオに出て、さらに中国本土に戻り滞在を15日稼いであった。
数日後にパスポートとその健康診断の書類や大学の卒業証明、日本語教師資格を古巣の学校に提出してあった。

そう。
古巣の学校から戻って来て欲しいというラブコールが何度もあった。
ラブコールを送ってくださった学校もずっと私のビザ問題は心配していた。
(事の発端はあんたが契約満期の名目で俺をクビにしたからだろが・・・。)
二度と戻るつもりはなかったのだが、大学時代の中国語の恩師へビザが下りないことを相談したところ「中国はそんなに甘い国ではないので、危険なことをいつまでも続けていてはいけない」というアドバイスをいただき、移動を決意した。
さらには当時仕事量とビザ問題によるストレスで健康に大きな問題があった。

それらの行動が一日でも遅かったのならば、私はその後5年数か月も中国にいることはできなかったかもしれない。

学校の経営者と一緒に警察にビザ申請の書類を提出した時のドキドキは今も覚えている。
無事に受け取ってもらえた瞬間のあの安堵感は決して忘れないであろう。

その後もビザに関しては決して安泰ではなかった。
それはその2009年3月に取得し、2010年3月に更新したビザの発給地にあった。

2010年夏の学校移動時に専家証を取得してはあったのだが、ビザは以前のまま使っていた。
その理由は私のビザの申請をする直前に市内の不良外国人が問題を起こし、私の申請もそうとう難しくなったため。

翌年3月にやっとその都市でビザを申請したときに、直前のビザ発給地が違ったこと、そして「パスポートの記録からおそらく2、3年前からこの市にいたはず」ということで始末書添付の申請書類を提出する羽目になった・・・。
(実際その3年半前からその都市に住んでいた。)

つまり私のビザ騒動は2011年3月にやっと収まったのであった。
ただ専家証の期限に合わせた半年しかビザが降りずに2011年9月の申請でやっと1年のビザを確保している。

その都市に来てからビザ更新の心配を何もしなかったのは翌2012年の9月だけであろうか・・・。

(2013年は発給に1か月ぐらい時間がかかるという情報のため、夏に帰国せずに1か月前に申請したら、1週間で降りたという笑い話もあるけれども。)


つけたし:中国で契約満期という名目のクビを2回経験している私は日本で2回同僚をクビにしてます・・・。
つまり、自分がしたことは必ず戻ってきます。
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