大病院の待合室。
昨年(2019年)3月も大病院の待合室での光景を記したことがある。
その時は緊急外来での様子。
幼子を抱いた若い母親の様子にとても心を洗われた。
私自身が病弱であり、両親の苦労が少しは見えたような気がした。
そして昨年はこの病院へ何度か父親を連れて行ったことがあったし、入院の見舞いにも通った時期があった。
連休明けの本日の大病院はど凄いほど人がいた。
他の病院の紹介状を持ち、予約をしてあっても、少々待たされた。
私は単なる付き添い兼運転手に過ぎず、母親の治療もその場でやってくださると思っていたので、周りの付き添いの方々に比べれば安気なものであった。
専門医受付の窓口の前で時間が過ぎるのを待っていたときは、母親の隣に座っていた。
だが、時間が近づいて診察室前に移動したときは遠くから見守った。
本日が物凄い人でなければ、近くに座りたかった。
だが、私も人の子であり、混雑しているのに病人を差し置いて、健康そうな日焼けおじさんが座るわけにはいかず・・・。
遠くから見る母の姿。
ひっきりなしに電光掲示板見るその姿はとても小さく見えた。
昨年病院の行きと帰りに父親を背負って階段を降り、昇りしたことが数回あった。
驚くほどに軽かった。
本日の母親の姿と昨年の父親の軽さは石川啄木の詩を思い出すぐらいであった。
母親はまだまだとても元気であり、一人で何でもしてしまう。
それでも年齢相当に時々病院に行く。
「本日がちょうど私の休みの日でよかった」と思うと同時に父親の「ばあさんと孫を頼んだぞ」という言葉も思い出した。
まあ、私が予想した通り、その場で処置してくださったので、次回は術後経過(?)を診ていただくだけであり、これは妹の手を借りるつもりである。
何にしても、専門医を紹介してくださった近場の医者と、紹介状と検査データを準備し、なおかつ予約まで取ってくださった専門医、本日すぐに処置をしてくださった大病院の専門医に感謝、感謝、感謝である。
実は私もつい数週間前に大病院で検査をしている。
これはこの数十年まったく引っかからなかった(昔何度か苦しんだことがある)部位が引っかかったからであった。
それでも私は(昔のことを思い出しながらも)「そんなもんとっくに治っているさ」的な自覚があり、さほどの心配はしていなかった。
実際、精密検査をしたところ、まったく問題がなかった。
つまり、知らないうちに軽くひっかかり、知らないうちに治っていたというパターンである。
ただ、これは「今まで以上に体を大切にしなさい」という知らせであるような気がした。
さて、読者様の中にはきっと「相変わらず長い前置きだなぁ・・・」と思った方がいるに違いない。
実はその通りであり、本題はこれから・・・。
本日様々な外国人の患者さん、その付き添いの外国人を見た。
どの病院で観察していても、南米の方々は通訳を連れてきたり、病院の医療通訳を希望するケースが多い。
自分でしっかり対応できている方も多いのだが、南米の方々の場合、これが目立つ。
ところが、中国はもちろん、東南アジア国の方々は通訳を希望しないことが多い。
おそらくそれぐらいの覚悟でこの国に深く根をおろしていらっしゃるのであろう。
(まあ、英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、韓国語はともかくとして、ベトナム語等の医療通訳も多くはないとは思うけれども。)
だが、私は何もブラジルやペルーの方々がこの国に深く根を下ろしていないとも思えない。
実際マイホームを建て、固定資産税も払っていらっしゃる方々もいるわけであり、集合住宅を借りて細々と生活している私が羨望の眼差しで熱く見ることがざらにある。
日本語教師をしていた私よりもしっかりとした日本語を話す方々は多い。
しかし、ブラジルやペルーの方々の場合、同じカルチャーのコミュニティの中にだけいて、それほど自由に日本語を話せないケースもかなり多い。
そして今の日本はそういう方々の労働で成り立っているのである。
外国で外国人として生活をしていた自分を振り返る。
薬局や町医者での簡単な説明ならともかくとして、大病院を一人で乗り切れるほどの自信はなかった。
おそらくそれは当時よりも語学力がアップしている今でも同じこと。
私の場合、仕事で日本語を使うわけであり、学内では日本語がわからない職員に対してのみ、中国語を使うだけであった。
しかし、中国生活もほとんどはできるだけ日本人とはつるまずに生きていた。
日本人が近づいてきても、私は避けていた。
もちろん、中国在住時代のうち2/3はたったひとりの日本人教師をしていたわけであり、日本人の友達がいれば、それはとても有難いことであった。
それでも私は頑なに日本人とは付き合わなかった。
(その背景には現地駐在員との経済差や考えの差がある。)
しかし、頑なにひとりで中国語を使い生活をしていたとしても、やはり病院でのやり取りは難しい・・・。
それを考えると、本日遭遇した東南アジアの方々はかなりの努力をされていることになる。
本日受付等での外国人の患者やその付き添いに対してのやりとりを見て、「自分はこれを中国語や英語でどう伝えるであろうか」と考えてみた。
中国語でさえも、「あれれれ・・・」と表現に詰まることがあった。
私はまだまだ発展途上である。
昨年(2019年)3月も大病院の待合室での光景を記したことがある。
その時は緊急外来での様子。
幼子を抱いた若い母親の様子にとても心を洗われた。
私自身が病弱であり、両親の苦労が少しは見えたような気がした。
そして昨年はこの病院へ何度か父親を連れて行ったことがあったし、入院の見舞いにも通った時期があった。
連休明けの本日の大病院はど凄いほど人がいた。
他の病院の紹介状を持ち、予約をしてあっても、少々待たされた。
私は単なる付き添い兼運転手に過ぎず、母親の治療もその場でやってくださると思っていたので、周りの付き添いの方々に比べれば安気なものであった。
専門医受付の窓口の前で時間が過ぎるのを待っていたときは、母親の隣に座っていた。
だが、時間が近づいて診察室前に移動したときは遠くから見守った。
本日が物凄い人でなければ、近くに座りたかった。
だが、私も人の子であり、混雑しているのに病人を差し置いて、健康そうな日焼けおじさんが座るわけにはいかず・・・。
遠くから見る母の姿。
ひっきりなしに電光掲示板見るその姿はとても小さく見えた。
昨年病院の行きと帰りに父親を背負って階段を降り、昇りしたことが数回あった。
驚くほどに軽かった。
本日の母親の姿と昨年の父親の軽さは石川啄木の詩を思い出すぐらいであった。
母親はまだまだとても元気であり、一人で何でもしてしまう。
それでも年齢相当に時々病院に行く。
「本日がちょうど私の休みの日でよかった」と思うと同時に父親の「ばあさんと孫を頼んだぞ」という言葉も思い出した。
まあ、私が予想した通り、その場で処置してくださったので、次回は術後経過(?)を診ていただくだけであり、これは妹の手を借りるつもりである。
何にしても、専門医を紹介してくださった近場の医者と、紹介状と検査データを準備し、なおかつ予約まで取ってくださった専門医、本日すぐに処置をしてくださった大病院の専門医に感謝、感謝、感謝である。
実は私もつい数週間前に大病院で検査をしている。
これはこの数十年まったく引っかからなかった(昔何度か苦しんだことがある)部位が引っかかったからであった。
それでも私は(昔のことを思い出しながらも)「そんなもんとっくに治っているさ」的な自覚があり、さほどの心配はしていなかった。
実際、精密検査をしたところ、まったく問題がなかった。
つまり、知らないうちに軽くひっかかり、知らないうちに治っていたというパターンである。
ただ、これは「今まで以上に体を大切にしなさい」という知らせであるような気がした。
さて、読者様の中にはきっと「相変わらず長い前置きだなぁ・・・」と思った方がいるに違いない。
実はその通りであり、本題はこれから・・・。
本日様々な外国人の患者さん、その付き添いの外国人を見た。
どの病院で観察していても、南米の方々は通訳を連れてきたり、病院の医療通訳を希望するケースが多い。
自分でしっかり対応できている方も多いのだが、南米の方々の場合、これが目立つ。
ところが、中国はもちろん、東南アジア国の方々は通訳を希望しないことが多い。
おそらくそれぐらいの覚悟でこの国に深く根をおろしていらっしゃるのであろう。
(まあ、英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、韓国語はともかくとして、ベトナム語等の医療通訳も多くはないとは思うけれども。)
だが、私は何もブラジルやペルーの方々がこの国に深く根を下ろしていないとも思えない。
実際マイホームを建て、固定資産税も払っていらっしゃる方々もいるわけであり、集合住宅を借りて細々と生活している私が羨望の眼差しで熱く見ることがざらにある。
日本語教師をしていた私よりもしっかりとした日本語を話す方々は多い。
しかし、ブラジルやペルーの方々の場合、同じカルチャーのコミュニティの中にだけいて、それほど自由に日本語を話せないケースもかなり多い。
そして今の日本はそういう方々の労働で成り立っているのである。
外国で外国人として生活をしていた自分を振り返る。
薬局や町医者での簡単な説明ならともかくとして、大病院を一人で乗り切れるほどの自信はなかった。
おそらくそれは当時よりも語学力がアップしている今でも同じこと。
私の場合、仕事で日本語を使うわけであり、学内では日本語がわからない職員に対してのみ、中国語を使うだけであった。
しかし、中国生活もほとんどはできるだけ日本人とはつるまずに生きていた。
日本人が近づいてきても、私は避けていた。
もちろん、中国在住時代のうち2/3はたったひとりの日本人教師をしていたわけであり、日本人の友達がいれば、それはとても有難いことであった。
それでも私は頑なに日本人とは付き合わなかった。
(その背景には現地駐在員との経済差や考えの差がある。)
しかし、頑なにひとりで中国語を使い生活をしていたとしても、やはり病院でのやり取りは難しい・・・。
それを考えると、本日遭遇した東南アジアの方々はかなりの努力をされていることになる。
本日受付等での外国人の患者やその付き添いに対してのやりとりを見て、「自分はこれを中国語や英語でどう伝えるであろうか」と考えてみた。
中国語でさえも、「あれれれ・・・」と表現に詰まることがあった。
私はまだまだ発展途上である。