goo blog サービス終了のお知らせ 

まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

外国語で日本語を教えるとなると

2023-05-12 23:37:17 | 初級授業(日本語)

18年前、中国で日本語を教えることになった。

1年で帰国するつもりでおり、日本帰国後は初級を専門として工場などに食い込む考えでいた。

 

ところが、1年では帰れなくなってしまった。

その理由は当時教えていた高校生の年齢のクラスには私が必要であったので。後にそのクラスのうちの精鋭と大人のクラスの合同には上級を教えることにもなった。

その初めての上級はとにかく準備が大変であり、夏の終わりから晩秋の約3か月土日も事務所(職員室)で準備をしていた。

その前にある種の布石がなかったわけでもないが、それが始まりであった。

そして、中国で日本語を教え続けるうちに、いつの間にか中・上級専門となってしまった。

 

もちろん初級もけっこうな数を経験していたし、日本に戻る直前も(上級を教えながら)初級を教えた。

 

と、初級へのこだわりも記してみた。

 

何度かこのブログに記しているが、レベルは一応初級から上級、ビジネスまで、教科としては文字語彙、読解、聴解、会話に加えて、中国で教えたネイティブ教師としては珍しく文法も自信がある。

 

しかし、それは中国で中国語ネイティブの中国人やノンネイティブだが、普段生活で中国語を使っている中国人(多くは少数民族)の方々に教えていたに過ぎないのである。

 

つまり、「私は様々な国や地域から来た方々がいるクラスで教えることができるのであろうか」と考えるわけで・・・。

中上級ならばまだともかくとして・・・。

 

これ(直前二段落)については、先日私の仲間で今も現役の日本語教師にも吐露しているのだが、信頼できる仲間の話を聴き、言葉を教える以前の苦労も現れることを改めて知った。

その話で昔を思い出した。

前述の高校生のクラスで当初は「俺って言葉の教師ではなく、まるで生活指導の先生じゃん・・・」と何回思ったことであろうか。

 

ここで少々話は変わる。

昨年(2022年)の晩夏ぐらいからこのブログに「日本語を中国語や英語で教えるとどうなるか」と記すことが増えた。

 

ただ、その需要の多くは初級から中級の橋渡しぐらいまでであり、中級や上級では少なくなるに違いない。

実際にYouTube等を活用していらっしゃる教師の作品を見ていてもそれを感じる。

 

つまり、外国語で日本語を教える場合、その多くは初級なのではなかろうか。

[初級にこだわった表現をすれば、多くは初級なのかもしれない・・・。]

 

ただ、一回に教える人数は直接法よりも減る可能性があるため、学習者と教師のマッチング度という問題も現れるに違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

直接法と間接法の間に揺れる心

2023-03-24 23:50:57 | 初級授業(日本語)

どうでもいい話かもしれないけれど、男闘呼組が好きだった。

そんな彼らの再結成には考えさせられるものがある。

 

さて、この「考えさせられるもの」の場合の「もの」。

日本語を教えていた頃に自分なりの表現として選んだのが「心」であった。

中国で教えていたので、文法書などに載っているもっと格好いい表現で言い放ってもわかってもらえる。

しかし、「本当にそれで良いのだろうか」「本当にそれで良いものだろうか」と思うのである。

 

もちろん簡単な言葉であればあるほど、抽象的になる部分も出てくるとは思う。

ただ、それをズバッと伝えたところで、学習者は「あ、そう」で終わってしまうような気がしてならない。

 

とはいえ、「はっきり伝えるのが良いのか、ある程度学習者に考えさせるほうが良いのか」は状況次第ではなかろうか。

 

 

言葉については頻繁に考えることが多い。

その理由として、

 

1.以前日本語教師をしていた

2.仕事で文を組み立てることも多い

3.外国語学習者でもある

 

と記しておく。

 

1については言うまでもない。

 

2の「仕事で文を組み立てることも多い」という事情から、授業のとき以上に考えてしまったりする。

特に形式名詞に関しては、それで言いたいことが伝わるかどうか悩むことがある。

 

ただ、「1.以前日本語教師をしていた」私は「3.外国語学習者でもある」ことから「これを中国語や英語で説明するとどうなるのかな」と考えることも多かったりする。

 

そう考えたとき、「自身が中国語(英語)のネイティブではないこと」と「中国語(英語)のノンネイティブからその言語で日本語の説明を受ける中国語(英語)ノンネイティブの日本語学習者の立場」を考え、自分がダイレクトに訳しやすい言葉を選んでみたくなるのである。

 

私はおおむね直接法で日本語を教えてきた。

しかし、日本語以外の言語を媒介語にすることが良くないとは思っていない。

特に初級であれば、学習者の時短になり、金銭的負担も減る。

 

本日はここまでにしておく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

非母語話者と母語話者の授業区分の垣根

2021-02-09 22:40:33 | 初級授業(日本語)

ある言語の学習ビデオを見た。

それは直接法によるものであったのだが、「リアルな直接法」であり、とても興味深く拝見した。

繰り返し拝見しようと思っている。

 

私も基本的には直接法により日本語を教えていた。

しかし、初級の場合、中国人教師が先に文法などを教えることになる。

その場合、直接法と言いながらも、そうではない部分が大きい。

もっとも自分のスケジュール上中国人教師よりも先に進むこともあるにはあったが。

 

さて、その直接法であるが、(日本語教育の場合)何も日本人母語話者だけの専売特許ではない。

 

本日とある中国人教師による直接法での初級教育を思い出した。

彼女の良く通る声は今でも私の耳に残っている。

 

中国にいた頃、「二度と戻るか!」と思っていた学校に戻ったことがある。

もちろんいくつかの理由があってのことではあるが、今回そちらは本題から外れるので控えたい。

 

そうはいっても、話の展開上そのうちのひとつの理由を記すと、「日本人教師がひとりしかいなかった」からであった。

 

(後に私も計5年たった一人の日本人教師をすることとなったのだが、クラスが少なかったこと、私以外は母語話者に近い中国人教師であったとはいえ、けっこう大変な毎日であった。)

 

戻ったときにその日本人教師の授業を見学させていただいたことはもちろんである。

いくら自分がその学校で教えていた経験があったとしても、1年も離れていては変わった部分も多いに違いない。

それ以前にその日本人の方とは今まで面識がなかったので、授業スタイルを知らない。母語話者・非母語話者に限らず、授業を見学できるチャンスは必ず掴んでおきたい。

授業の見学など決して当たり前というわけでもないのだから。

 

私はある中国人教師に興味を持った。

その方の授業スタイルを知らないだけでなく、日本人教師が行う授業を日本語だけでやっていたので。

それも初級を。

何でも日本語母語話者教師が足りないので、他のクラスでは普通に中国人教師の立場でいながら、初級クラスだけ直接法を担当していたとか。

 

実はその教師はその学校の卒業生であった。

私も中級終了後から卒業までの数か月と卒業して半年後に開催された旧日本語能力試験1級試験対策のうちの2級の復習部分を教えたことがある。

 

卒業の就職先ではあまり日本語を使わなかったようであり、試験対策で再開したときはかなり日本語力が落ちていた。

しかし、後に勤めた企業でかなり努力したのであろう。

私が三度目に出会ったときはとても素晴らしい日本語を身に着けていた。

 

もちろん他にも相当なレベルの日本語力を持つ(以前から顔見知りの)同僚もいた。

だが、素晴らしい日本語力があるからといって、中国で中国人教師がすべて直接法で教えられるかといえば、そうではない。

 

簡単にいえば、日本人の担当部分を日本語でやってのけた中国人教師はその学校(大学ではなく、中専部門も併設されていた日本語学校)で何人もの日本人教師による授業を受けている。

とはいえ、すべて日本語で、それも日本人教師のパートまでを担当していたのだから、相当な技量の持ち主であることは言うまでもない。

 

私は特に中・上級を教えることが多かったこともあるので、初級はかなり大変であるということをある意味良く知っている。

 

今思い出したのだが、その教師の中国人教師としての授業を見学したことがない・・・。

日本語母語話者教師だけでなく、中国人教師の中国語を交えた授業もけっこう見学させていただいたのに。

 

 

さて、本題・・・・・・。

 

時々考える。

私が直接法だけでなく、中国語や英語を用いて(特に初級を)教えることになった場合について。

もちろん初級から直接法で教えたほうが、(学習者にもよるが)もかなり伸びる。

だが、授業において学習者も教師もかなりしんどい・・・。

どんなことにもプラス面とマイナス面がある。

 

時期が来たら、外国語による日本語教育も行ってみたい。

いつかその時期が迎えられるように、今は他のあれこれを勉強しておきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会話授業の準備は難しい

2019-12-18 21:41:23 | 初級授業(日本語)
中国で(日本語を)教えているとき、学校(というか責任者)によって、指示が違うことは良くある。

例えば、教科書を使って初級を教えているとする。
いくら教科書を使っていたとしても、外教に求められるのは中国人教師にできないことである。
そして、初球の場合、その代表的なものは会話ではないかと思う。

もちろん私もできるだけ、既習語彙を使うようにはしていた。
特に1日1課進むような学校の場合は。

もし、数日で1課進むような場合であれば、多少は未収語彙を導入して会話表現を広げることができないわけではない。

それをする、しないかはやはり学校に合わせるべきではないかと思う。

(まあ、駄目だと言われた場合、私は「導入はしない」「会話文に織り込んでいただくことはしない」が「自分が放つ言葉の中に(自然に)入れておく」こともある・・・。)

学生の中には、はっきり意味がわからないと不安になり、あーだこーだ(他の先生に)文句をたれる方もいらっしゃる。

しかし、(文句を言われようが)可能な限りでそれをやらかしておく私が良い教師であるのか、悪い教師であるのかは自分ではわからない。

「ぶっちゃけ」などという言葉を使うと、「本当に日本語教師だったのぉー!?」と言われるかもしれないのだが、ぶっちゃけ「どんなに良い教師であっても、学生にとって気に入らない点のひとつやふたつはある」ものだと自分勝手に思っている。

ただ、学生は面白い言葉はすぐに使いたがる。
それをどんな場面でも使って良いわけではないことだけは教えておかなければならない。

導入していないはずのことばであるのに、使用できる場面を教えておかねばならないというのも、矛盾している話であるのだが、実はこんなところにも授業のヒントがあったりする。

あまりに「ぶっ飛び過ぎて」学校を追い出されては、異国での生活も困るのでほどほどにしておくことをお勧めするが・・・。


最近になって、昔の学生たちからの私の評価を聴き、涙が出るぐらい嬉しかったりする。

おちゃらけてはいるが、根は真面目であるので、(遊びの最中に)真剣に考えていた。
(逆に授業の準備中に遊んでいることもあった。)

私より真面目である場合、この意味がどれだけ通じているのかはわからない。
「偉そうにふざけ切ったことを書いてんじゃねえよ!」という意見も多いかもしれない。

ただ、私が言いたいことは「私は今よりも、学生の将来を考えていた」ということ。

はい、はい。

何度も記している表現を使うと、
「てめぇ何様だ!」→「いかさまでございます」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初級で数字や数量詞を教えるときは「ああ恐ろしや・・・」

2018-04-14 22:09:33 | 初級授業(日本語)
初級を教えるときに困るのが数字。

もっとも私は細かいところは追及しない。
その追及しないというのは・・・。

4・・・し・よん
7・・・しち・なな
10分・・・じゅっぷん・じっぷん

4についてはまあなんとかなる。
問題は7と10分。

7の場合、1(いち)と7(しち)では聴き間違える場合があるので7(なな)とも言うとは教えておく。
普通はそれで終わる。

しかしそれに付随して「7時」を「しちじ」ではなく、「ななじ」ということがある。
そして学生が日本語学校に入学して来る前に日系会社勤務時代にそれを使っていたとする。

実際私が関係している仕事のいくつかでもそうであり、職種によって使いわけている。

しかし私はあまり深追いせずに「そう表現することもあるが、しちじ』が多い」とさらりと流しておく。

実際言葉の通じない初級の最初の頃にそんなことを日本語で言ったところで多くには通じない。
初級の最初の頃と記したが、実際学校によってはゼロ初級・・つまり五十音の時に教えることもあるのだし。

そして10分。
テキストには記さなくても良いのに記してあるのがつらい・・・。

確かに多くは放送局で「じっぷん」と使うわけであり、私もそう教えて深追いはしない。
だが実際はけっこう多くの場面で使われているのである。

そしてそれは「分」だけではない。

これについては今まで学生からツッコまれたことがないのだが、これだけ海外で日本のアニメやドラマを見ることができるとなると、これからはツッコまれる可能性がないわけではないように思える。

ただもしツッコまれたとしても、大丈夫だと思う。
それはわざわざ「分」という数量詞を出してあることがヒントなのである。

つまり「いっぷん、にふん、さんぷん、よんふん・・・」と何故に後ろの発音が変わるのかということこそが学生にとって難解であるので。

中国の場合学生の中に南方方言が母語や生活言語である方もいる。
その方々はあまり深くは悩まないように思える。
ここでは記さないが中国語南方方言で考えるとある種の法則があるので。

しかしここで大きな問題がある。
それは我々日本語母語話者で数量詞の発音が違うということ。

例えば「階」。
「いっかい、にかい、さんがい、よんかい・・・」
だが「いっかい、にかい、さんがい、よんがい・・・」という方もいる。
さらには「いっかい、にかい、さんかい、よんかい・・・」という方もいる。

実際私も初めてそれを教えるまでは「よんかい」も「よんがい」も使っていた。

それでも「よんがい」は実際あまり多くはないし、テキストには載っていない(と思う)。

であるから、教える前に良くテキストにはどのように記してあるのか、普段自分がどのように言っているのかまで注意しなければならない。

だがしかしここが落とし穴。
教案などを考えているときは実際そんなことなど思い付かない。
たいていは学生に指摘されて気がつく。

もしあなたがその学校でたった一人のネイティブ教師であり、現地の教師に日本留学経験者や日本で働いたことがある方がいなかったとしたら、誰に確認したら良いのやら・・・・・・。

ああ、恐ろしや・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする