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まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

帰国前の笑える片付け話(その2)

2022-09-04 21:54:22 | 中国生活

中国から日本に帰国する前。

片付けるものはアパートの部屋の中だけではなかった。

学校の事務所(職員室)も同じこと。

悪いことに2012年の尖閣問題以降、事務所の机の引き出しの中や机の下(椅子の前)にもあれこれ置いてあった。

 

アパートに持って帰れるもの、日本語教材やその自作補足資料などで上司にあげるもの、処分するものに分けてみた。

困るのは処分するもの。

 

これも唯一の日本人が捨てたと知られたくないので、学校から住んでいる村に帰る途中の広場に運んだ。

そこは住んでいる村のゴミ置き場から運んだゴミの一時的な堆積所となっていた。

そのコンテナの中に何回かに分けて投入した。

 

最後のワンクール(2014年2月下旬~6月末)は2010年夏から2011年夏まで所属した学校に戻っていた。

(最後の4年間は経営者である上司たちとともに、2つの学校3か所で教えた。)

だが、今までの学校・企業団地内ではなく、外の校舎で教えていた。

 

夏の強烈な太陽の下、汗だくで運んだ記憶が残っている。

現地で夏の暑さに慣れていた自分にとって、とても眩く暑い夏の思い出となっている。

 

もちろん自宅からのものでも、わざわざそこに運んだものもある。

 

ここであえて記しておきたいことは「お金さえあれば、自宅にも学校にも処分業者を呼んでいたさ・・・」ということ。

 

この辺が現地採用の弱み。

ましてや日本語教師の収入は(いくら他の業種より給料が良くても)外資系企業で働く元教え子に比べたらたいしたことなどない。

さらには2008年にいろいろあって、体のためと身を守るために、帰国後の数か月のために残してあった日本の貯金も崩していた。

当然中国での貯金も使い果たした。

 

であるから、日本に帰国するたびに、人民元を日本円に交換したり、中国の銀行のキャッシュカードの銀聯機能を用いて、都市銀行のATMで直接円を引き出すことで、(日本の口座に)補填していた。

最後の一時帰国となった2014年春節時にやっと元通りとなる目途がついていた。

だが、本格帰国が1年以上早まったことで、中国の貯金も増えてはいない。

帰りのチケットも自分で出した。

 

本来はビジネスクラスぐらい使いたかったのだが、帰りもエコノミー。

(その分日本の空港前のホテルのランクを少しだけ上げておいたけれど。)

 

帰国直前ドドーンとお金は出て行ったし、出国当日も荷物の超過重量料金も支払っている。

帰国当日の23時過ぎに空港ATMで中国の銀行の口座から(日本円で)引き出したお金と、翌日の午前に空港の両替所で交換して手に入れた日本円でなんとか最初の1か月の活動資金14万円ちょっとを調達できたような感じであった。

そのお金は何とか9月頭まで持たせた。

 

7月下旬に帰国、9月頭に仕事を決め、中古車を購入、9月下旬から就職。

最初の給料である10月25日は微々たるもの。

そんな状態であったが、なんとか9月頭から翌11月25日の給料日までは食つなぐことができた。

 

そんな綱渡り状態。

 

仮にお金があって、留学に出かけたとしても、出国と帰国にはお金がかかる。

お金が無くて、ぎりぎりでの留学でもやはり条件は同じ。

仕事でも現地採用扱いとなれば、貯金があろうがなかろうが、やはり出国・帰国にはお金がかかる。

 

幸い私は実家に戻った。

親の勧めで。

であるから、アパートを借りるという出費は防ぐことができた。

それを借りたとすれば、完全に干上がったに違いない。

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帰国前の笑える片付け話(その1)

2022-08-31 21:50:21 | 中国生活

帰国を決めたのは2014年3月下旬。

ずっと土曜深夜だと思っていたのだが、金曜深夜のようである。

ひとつ記事を削除したらしく、はっきりとは記していない。

 

まあ、それはともかくとして、翌朝の幾つかのゴミの中には日本の小説もあった。

小説など学生に言えば欲しがるに違いない。

だが、日本のハードボイルド小説の大御所の作品である。

ストイックな描写もあれば、官能小説もビビッて後退りするようなエロい描写もある。

「さすがにそんなのあげられない・・・」

 

村から歩いて1時間程度であるが、外資系企業も近く、外国人も住んでいるであろう地域のプロムナードのゴミ箱に入れた。

 

(処分したのは日本の部屋にも置いてあるものであった。すでに作者が亡くなっており、書店で買える作品も少なくなっていたので、重複して持っていなかった小説だけ何回かにわけて処分した。)

 

5月の休みに日本へ船便を送った。

冬物と日本語の教科書の一部であった。

<衣類はスーツ替わりの冬物ジャケットと3シーズン対応のブレザーに冬のスラックス2本、夏のスーツ一式、長袖ドレスシャツ2着、長袖カジュアルシャツ1着、フライトジャケット1着、(あえてこんな記し方をすると→)とっくり首のセーター1着、プーマのトレーニングパンツ1本。
これを(2012年秋に)冬の掛け布団を買った時の収納ケースに入れた。

そして日本語のテキスト3冊(日本で買った物)は残りは小さめのリュックサックに入れた。

当然私のことなので、衣類は2つの(日本の40Lの)ポリ袋で保護をし、テキストは当地のイオンで売られている使いやすい黒の取っ手付きゴミ袋に入れてある。>

<重量は8,585g。
郵便窓口で支払ったのは223.2元。

これを見ると、材料費11元、チェック料が8元だとわかる。
手数料3元のお金は材料費に含まれているのであろうか。
私としてはトータルの支払いが一致しているので、問題はなく、そこまでは聞かなかった。

[2014/05/31 CST19:30追記:荷物は7月27日に実家に届いたらしい。]>

 

というか、「それで済んでいるのであれば、他にもあれこれ送ればよかった・・・」と8年過ぎた今になって思っている。

だが、当時は急に決めた帰国であり、持って帰るお金はできるだけ残したかった。

それなのに、帰国までけっこう遊び歩いていたけれど・・・。

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中国を離れる前の部屋の片付け

2022-08-26 22:38:11 | 中国生活

先日自室のテレビをやっと地デジ対応のものに買い替えた換えたことを記した。

原案を考えたときは中国での経験も記すつもりであったのだが、字数が多くなりすぎるため止めておいた。

 

中国で地デジが始まったのは夏の北京オリンピックが開催された2008年であったと記憶している。

そして2009年には私が住んでいた広東省某市郊外でアナログ電波が拾えなくなった。

 

2010年夏に最後の中国生活の4年間を過ごす郊外の村の外れの新築アパートに引っ越した。

村の中を数百メートル移動しただけなのに、隣の市からのアナログの電波を拾うことができた。

それでも1~3局であった。

1~3局というのは(何チャンネルかは忘れたが)「朝、昼、晩のメインの時間が過ぎると、プッツリと停波してしまう」CCTVと広東テレビのある系列局が存在したからである。

ただし、隣の市のメインチャンネルだけは無傷であった。

ちなみに隣の市は広東語隆盛地域であり、メイン局も広東語であった。

つまり、普通話の番組でない限りは広東語ということになる。

 

当時の私はケチケチ生活を送っており、チューナーの購入やテレビを見るためにお金を払うことを避けていた。

ネットでさえも、3Gネットカードを使っていた。

 

いつ夜逃げしても、「あの日本人は○○のお金も払わずに消えた」とか「△△の契約停止手続きもせずに逃げた」と言われないためでもあった。

最上階のベランダ付きの部屋にいたので、エアコンも設置しなかったのだが、これも「夜逃げするのに外すのが面倒であった」というわけのわからない理由による。

 

なんとなく感覚で「何かが発生する」と読み取っていたのかもしれない。

(幸い怒涛の尖閣ショックも無事に乗り越えた形にはなったけれども。)

 

自分が心掛けていることのひとつに「ずるい人間にはなりたくない」というものがある。

仕方がないときであっても、できるだけそれは避けたい。

 

それなのに、帰国する際にすべての家具や家電を処分することができずに、いくつかを大家さんに任せた。

 

まあ、それができたのは普段から良い関係を築いていたからこそであるけれども。

 

 

と長いイントロを記したが、本日の話題は「帰国に際しての部屋の片付け」である・・・。

 

2014年3月下旬のある土曜深夜。

その夏の本格帰国を上司との短い会話のやりとりの中で決めた。

当時私が持っていたビザは9月頭に切れる。

それを考えると、7月頭に前期が終わってから、8月中までに帰国しなければならない。

そこで私は「その市に来て7年目が終わった翌日」に出国することを決めた。

 

ただ、それまでの9年弱ずっと中国で暮らしてきたわけであり、荷物は多かった。

8回程引っ越したが、そのたびにモノを処分していた。

しかし、最後の4年はずっと同じアパートにいたため、増加していたのであった。

 

3月下旬のある土曜深夜に帰宅して数時間後の日曜の朝7時ごろに目覚めた私は「これから毎日最低ひとつは物を処分していこう」と決意した。

特に最後の4,5年はあえて日本人から避けて生活をしていたので、同朋にあげたり、売ったり、手を貸してもらうこともせずに済ませようと思った。

そして、引っ越すときは上司や学生の手を借りたので、「帰国に際しては自分一人で片付けよう」と固く決意した。

特に最後は「外国で生活をするということは甘いことではない」ということに立ち向かった証拠として・・・。

 

(もちろん仕事の関係で日本人と交流することもあったのだが、最低限に留めてあった。)

 

そんなこんなで始まったけっこう笑える話満載の帰国前の荷物処分が始まった。

 

5月の労働節の休みの初日に海外に荷物が送れる郵便局に行き、冬物などを送ったのだが、バスで15分の繁華街の大きな郵便局では遅れずに、バスで1時間弱の繁華街の郵便局まで行ったという懐かしい記憶。

 

また、当時の中国はまだゴミ出しに現在の日本のような細かい分別や曜日指定が無く、お宝を出しておけば、すぐに誰かが持って行ってくださるというありがたい状況にあった。

 

そんな素敵な状態でありながらも、「あの日本人が出した」と言われたくないので、夜中や夜明け前のまだ暗いうちに郊外の村の外れのアパートからさらに外れのゴミ置き場にお宝を出したことも一度や二度ではない。

 

あるときなど水辺の近くであり、きれいな蛍を見た思い出もある。

 

それでも最後のほうは「あのお宝はあの日本人(が出したん)だろうね」という話し声を聴いたこともある・・・。

 

さて、私は何が大きな動きがある年にひどいぎっくり腰をやらかす習慣(?)を持っている。

その年も最後の一時帰国となった1月末の数週間前にマカオでぎっくり腰をやらかした。

そしてそれは一時帰国最中にも響いたし、夏の帰国前にも響いた。

 

ぎっくり腰では大物荷物は運べない。

それ以前にタンスなどぎっくり腰でなくても無理・・・。

買い取りもやっている中古家具のお店に訊いたこともあったのだが、場所が悪い(アパートの真ん前まで車を着けることができない)ということで断られた。

 

その数日前に「最悪処分できなかったときはヨロです・・・」と大家さんに言ってはおいたけれども。

 

2012年だったかの雷の後、中国語設定が飛んでしまい、残っている言語の中で一番理解できたイタリア語設定にしてあったブラウン管テレビは(ぎっくり腰での悲鳴を押し殺しながら)お宝としてゴミ置き場に出してあった。

 

残りは「脱水槽が壊れた二槽式洗濯機」、「脱水機」、「(尖閣問題真っ最中に村の家電修理店で冷却ガス装置を直した)冷蔵庫」と大きなタンス。

売り物になるのは冷蔵庫とタンスと脱水機か。

どのように処分したのかは知らないけれど、前日の夕方空港行きバスが出る繁華街のホテルに送ってくれる前に(朝私が抜いたプラグをコンセントに差し)冷蔵庫を冷やしだした大家さんの姿をやけに思い出す。

 

次に外国で生活をするときは「なるべく自力で解決しよう」などとは格好つけることは止めようと思う。

また、現地の方、日本人、外国の方を問わずに幅広く交流しておこうと思う。

そして「田舎で生活したにせよねぐらの真ん前までトラックを横付けできるところに住もう」と思っている・・・。

 

(書けなかった「笑える話」についてはどこかで・・・)

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正しい行いを忘れないこと

2021-12-29 00:38:15 | 中国生活

先日の記事

別にケチをつけているわけではなく・・・

 

ここでこのように記した。↓(斜体がわかりにくいので、括弧でくくっておく)

<女性が多い言語の世界で仕事をしていた経験もあり、なるべく女性がカチンとくるような言葉は避けている。

 

それにどんな仕事をするにせよ、女性を敵に回したら、仕事が成り立たなくなってしまう。

 

だが、そこはやはりデリカシーの無い男であり、ごくたまにやらかしてしまう。

 

 

何がいけないかというと、やはり技術屋としてのある種の常識という習慣であり、怒らそうとして怒らせているわけではない・・・。

 

ただ、日本語教師をしているときに、女性を敵に回したら、それこそ「おしまい」であるわけで・・・。>

 

 

日本語教師の世界は女性の割合が圧倒的である。

私自身は男性が圧倒的な日本語教育の職場にいたこともある。

だが、日本でのボランティア時代の経験でも、中国での日本語教師でも、女性がいてこそ成り立つ世界だとも言える。

 

帰国後の話でいえば、私の技術者気質で女性を敵に回しかけたことがあった。

実際、同じ女性でもそれの何が悪いのかと気にしない方もいらっしゃる。

だが、気を付けたほうが良い。

女性を敵に回すと、リアルに仕事が進まなくなるので。

 

さて、この話は書こうかどうかとずっと悩んでいた。

だが、これから外国で教えたい方も多いであろうから、記しておきたい。

もし、炎上・大荒れとなったら、しばらく潜伏するつもりでいる。

 

今はそれほどないかもしれない。

だが、以前は日本人教師にずっと長く居てもらいたいために、中国人の異性と仲良くなることを奨励する学校も少なからず存在した。

(ちなみに中国に限った話でもないらしい。)

 

その異性とは同僚の場合もあれば、学生の場合もある。

 

私は「それはそれでありだろうね」という考えであり、別に真剣であるのなら、問題ないとさえ思っていたし、今もそう思っている。

これについては賛否両論あるに違いない。

 

ただ、私自身は避けていた。

それでも、夢であった中国生活のために、ずっと独身でいたわけであり、寂しくないかと言われれば、当然寂しい。

いつも学生のことばかり考えていたからこそ、ふと一人になると寂しい。

以前は私のことを良く理解してくださる(一緒に遊んでくださる)気の合う年齢・男女の垣根を超えた日本人女性の教師仲間たちが何かと私を気遣ってくださっていたので、何も考えなかったが、帰国されてしまうと、寂しさが現れた。

 

正直な話、以前の私はどちらかといえば、恋多き部類に属していた。

ある年の冬の初め、ある中国人女性との関係が終わった。

その寂しさがあったことは事実ではあるが、いったいどういう縁なのか、以前のパートナーとなる方と出逢ってしまった。

別に学校としては、真剣であるのならと、認めていた。

 

それまでの流れでは、部屋に呼ぶことさえ学校は何も言わなかった。

私はさすがにそれは避けていたが、前例があるので、私もついつい招き入れてしまった。

 

そういう前例や風習を知らない後から来た女性同僚は当然良くは思わないに違いない。

さらに私はけっこう真面目な部類であり、ある種の訳のわからないことに対してはすぐに怒るというか感情を露わにすることもあった。

私の言っていることは正論であろうが、良く知らない方からみれば、一緒に仕事をすることを躊躇うであろう。

 

さらに悪いことはその数か月前・・・。

引越しに当たって、私は後からの方々が良い生活ができるようにという配慮をしていた。

責任者以外そういうことを知らない。

だが、異国ではある意味自分を押し出さないと馬鹿を見る。

そのひとつ。

私の大切な大荷物到着が遅れることになった。

というより、送り忘れである。

挙句の果てには前のところに残った同僚が、それを欲しいと・・・。

「あんたらのミスで送り忘れたのに、面の皮厚く、『くれ』とは何事か!

電話の後、やり場のない怒りが抑えられなくなり、大声と共に部屋のスチールドアに当たり散らした。

同僚のためを思って行動したことで、半年以上前から自分が馬鹿を見ることが続いていたこともある。

 

この時の外国人教師寮は学外に独立していたが、防音設備などしっかりしていなかった。

私は条件の悪い部屋に入ったことが幸いしてそれほど気がつかなかったのだが、けっこう音が漏れる。

私の怒鳴り声とドアを蹴る音はかなり響いたに違いない。

女性から見れば怖かったであろう。

 

それらのことが重なり、私の再々々契約は満期除隊という形で消え去った。

学校は移動先を確保してくださったが、北京オリンピックの年であり、できるだけ新規の移動は避けるべき時期であった。

その懸念が当たり、その年の私はとんでもない苦労を背負い込んだ。

 

学校としては私を残したかったらしい。

 

それは人づてに聴こえていた。

だが、「誰が二度と戻るか!」と思っていた。

ところが、三顧の礼により、その学校に戻ることとなった。

学校は私の窮状を知っており、助けてくださった。

もちろん、(私が居なくても回っていくはずであったのに)教師が足りなくて困っていた。

当時いくら自分が困っていても、戻りたくはなかったのだが、かつて少しだけ顔を合わせた日本人同僚がひとり奮闘しているという。

さらには私の不安定な立場で当時のパートナーに苦労は掛けたくなかった。

 

学校は(あれこれ正論はうざかっただろうが)私がどれだけ学生のことを考えて生活をしていたかわかってくださっていた。

 

もちろん事実上のクビとなった時点で、己の様々な部分の改善を始めていた。

いくら正論であっても、話が通じなくても、声を荒げて怒ることは良くない。

また、女性に対しての言動はウルトラ級に注意するようになった。

もちろん自分の恋物語も極力人に見せないようにした。

 

以前のパートナーとはあることがきっかけで別れた。

その後、中国人の彼女がいたこともある。

 

今はひとりを続けている。

特に帰国後から父親が旅立つまでは父親のことであまり遠くには行けないし、長い時間を家を離れていることもできなかったことは大きな原因のひとつである。

で、今度は某ウイルスの蔓延もあり、老いた母親を今まで以上に守らなくてはならない。

 

話を元に戻す。

 

以前は学校のあるお偉いさんの意見をまともには聴いていなかった。

「特定の方がいる、いないはともかく、中国で彼女がいれば、生活が助かるよ」という意見。

だが、それを経験すると、確かにその通りなのである。

実際に中国がわかっている方が傍にいると、本当に助かるのである。

ましてや私は体が強いほうではないし・・・。

 

実際学生も遠地に彼や彼女がいるはずなのに、どこをどう見ても身近にラブラブの相手がいるというケースもあった。

 

また、最後に私がお世話になった学校経営者夫妻も何かあれば、私に女性を売り込んできたことがあった。

 

人は必ず結婚やそれに近いことをしなければいけないということはない。

私自身は「無理にしなくてもよいのでは」と思っている。

ただ、満ち足りた何かがないと、ある意味超級の変人にもなりかねない。

変人で済めば良いが、変態や犯罪の世界へ堕ちていくケースもある。

私がその究極の世界に堕ちていかずに済んだことはラッキーだと思う。

 

また、女性にうつつを抜かしたことで、苦労を背負い込んでしまったが、得たことは大きかった。

ひとつは私の中の中国文化と中国の風習である。

これは一生私の中に残るであろう。

例えどの国に移住したとしても。

 

まあ、私なんかまだ可愛いほうである。

 

他の幾つかの学校の方からど凄い話を何回か耳にしている。

それも酔って自分で気がつかないうちに秘密を口走っているという失笑もののケースもあるらしい・・・。

 

(ちなみにこの手のことは何も男性だけにある話ではない。)

 

最後に。

私が何かの大きな仕事を請け負ったり、今まで前例が続いていたことに手を出すと、急に風向きが変わり、以前なら絶対に有り得なかった苦労と直面したり、痛い目に遭うという経験を何回かしている。

 

つまり、風も永遠に同じ方向に吹いているわけではないのである。

これはある意味、自分に対しての何かの教えなのだと思う。

過去を参考にすることは悪いことではない。

だが、いつか必ず新しい手法が必要になる。

 

仕事も勉強も「遊び」も。

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このブログの矛盾のひとつ

2021-12-04 22:03:33 | 中国生活

昨晩の記事

政府の批判は避けたいけれど

 

ここに記したのが、

<そして、その尖閣問題で私自身も年末に「もう、いいかな・・・」と感じ、いつ日本に帰ることになっても良いように、今まで以上に中国生活を楽しむようにしていた。>

 

補足:2011年秋の大騒動で疲れ果て、その年末には日本本格帰国に向けたリハビリを始めている。

だが、それ以前に数年以内の日本帰国は考えており、その夏の一時帰国では日本でJISキーボードのWindows7のマシンを買い、それを持って中国に戻っている。

当たり前だがパソコンぐらい中国で買える。

近い将来の帰国を考えてのJISキーボード、日本語版のOffice Soft日本語版Windowsが欲しかったのである。

 

3週間前の記事

日本語教師を目指すまで

 

ここに記したのは、

<広州を離陸したときは軽くであったが、上海を離陸したときは涙があふれた。

 

中国で出会った様々な方々を思い出した。>

補足:本当に大切な仕事、貴重な生活も捨てての帰国であった。

 

矛盾があると感じた方は多いと思う。

 

実際私は中国が大好きである。

だが、嫌いな部分も多い。

 

そして私は韓国も中国の中の朝鮮族の文化も大好きである。

だが、時に彼らの中に現れる「我が民族こそがNo.1」という考えによる過剰なプライドに疲れ果てることもある。

政治的な過剰過ぎる反日に嫌気がさすことも多い。

(この辺の表現に傷ついたり、イラつく方もいらっしゃるであろう。)

 

だが、これらの考えは当然のこと。

大好きだからこそ、大嫌いなのである。

 

恋愛に例えるとわかり易いであろう。

憧れているうちは良い部分しか見えない。

付き合い出すと、嫌な部分も見えてくる。

同棲すれば、お互いの文化のすり合わせの毎日。

 

嫌な部分が現れて初めて、相手との本当のお付き合いが始まるとも言える。

 

 

話題変換

私が好きというかかなりの興味を抱いているのは中国語圏や韓国だけではない。

東南アジアのある地域やヨーロッパの幾つかの国、北米の某国などとても好きである。

 

だが、私の体を考えると、寒いところは避けたい。

実際中国で私が住んでいたのは広東省であったし。

(実は広東省も冬は湿気の影響でそれなりに寒かったりする。

特に北のほうは1~4度、体感的には零下の世界。)

 

それもあるからこそ、他の外国語があまり伸びないのかもしれない・・・(???)。

韓国語でさえ、初級止まりであるのは、極度の反日の嫌気だけでなく、冬の寒さのせいもある。

 

外国語を勉強したから、そこに住まなければならないということもないけれど・・・。

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